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イシガレイ🔗🔉

イシガレイ (いしがれい) 【漢】石鰈 【学】Kareius bicoloratus stone flounder 硬骨魚綱カレイ目カレイ科に属する海水魚。千島列島や樺太{からふと}(サハリン)以南の日本各地の沿岸と朝鮮半島の沿岸に分布する。鱗{うろこ}がなく、皮膚は円滑であるが、有眼側の背側と腹側の近くおよび側線の近くに数個の石状の骨板がある。体色は茶褐色のものが多いが緑褐色のものもある。体の周辺部に白色の小斑点{はんてん}が散らばる。水深30〜100メートルの砂泥底に生息するが、内湾や河口域にもみられる。産卵期は晩秋から冬で、浅所にきて卵を産む。体長30センチの雌ではおよそ80万個の卵をはらむ。孵化{ふか}直後の仔魚{しぎよ}は全長3ミリ足らずで、14ミリぐらいに達すると、目が右側へ移動する。稚仔魚は内湾などの沿岸の浅所で生活し、8センチぐらいに成長して沖合いへ移動する。4年で40センチぐらいになる。多毛類、魚類、甲殻類などを食べる。  底刺網や底引網などで漁獲され、刺身、洗い、煮つけなどにすると美味である。古くは東京湾でとれたものを「江戸前物」として珍重した。→カレイ <尼岡邦夫>

石橋🔗🔉

石橋 (いしばし) stone bridge 石材を用いてつくった橋。簡単なものでは石の桁{けた}を用いたものもあるが、代表的なものは石造のアーチ橋である。石造アーチはせり持ちで荷重を支える。これをブーソアアーチvoussoir archともいう。アーチ技術はメソポタミア地方に発祥したが、石造アーチ技術を駆使したのはローマ人である。紀元前後の石造アーチ橋はローマを中心としてヨーロッパ各地にみることができる。ローマ帝国滅亡後はしばらくとだえたが、9〜16世紀にかけて多くの石造アーチ橋が架けられている。フィレンツェ市のベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)、ベネチア市のリアルト橋などは有名である。  日本の本格的な石造アーチ橋は長崎の眼鏡橋{めがねばし}(1634年。橋長23メートル)、諫早{いさはや}の眼鏡橋(1839年。橋長49.1メートル)などで、東京の日本橋{にほんばし}は1911年(明治44)に架橋された最後の石造アーチ橋である。石造アーチの最大径間はドイツのフリードリヒ・アウグスト橋の90メートル、無筋コンクリートアーチではフランスのカイユ橋の139.8メートルである。 <小林昭一>

オコゼ🔗🔉

オコゼ (おこぜ) 【漢】虎魚・? devilfish / goblinfish / stonefish / velvetfish 硬骨魚綱カサゴ目に属するオコゼ類の総称であるが、一般にオコゼとよばれているのはオニオコゼのことである。オコゼ類の頭は一般に凹凸が激しく、顔つきがよくないので、名は「醜い」という古語に由来するといわれている。オコゼ類はメバル類やカサゴ類と近縁で、背びれが頭部の直後から始まる仲間と、目の上から始まる仲間に大別される。前者はさらに、体に鱗{うろこ}がないオニオコゼ、ダルマオコゼ、ヒメオコゼ、オニダルマオコゼなどを含むオニオコゼ科と、体が細かい多数の棘{とげ}で覆われているダンゴオコゼ、ワタゲダンゴオコゼなどを含むダンゴオコゼ科に分けられる。後者は、体に多数の細かい棘をもつイボオコゼ、アブオコゼ、カゴシマオコゼなどが属するイボオコゼ科と、体に棘がないハオコゼ、ハチオコゼ、ヤマヒメなどが属するハオコゼ科に分けられる。いずれも本州中部以南に分布し、砂地、岩礁、藻場{もば}、サンゴ礁などに生息する。体は側扁{そくへん}して細長いもの、高い卵形のもの、やや縦扁したものまで変化に富む。一般にこの類は背びれの棘が強大で、付け根に毒腺{どくせん}をもつものが多く、刺されると激しい痛みに襲われる。オニオコゼを除いて、食用とされているものはほとんどないが、姿が奇異なので水族館では人気がありよく飼育されている。  オニオコゼInimicus japonicusは本州の中部以南、台湾、南シナ海に広く分布する。体は前部で上下に扁平、後部では左右に扁平である。頭の背面は上あごの中央部と目が突出し、目の前方に深いくぼみがあり、著しく凹凸が激しい。口は大きくて上を向き、頭部の側面と下あごに多くの皮弁がある。この面構えはさながら醜い鬼の面を連想させる。背びれの膜は深く切れ込むが、とくに第三棘{きよく}と第四棘の間で深い。背びれの毒性は強く、英名をデビルスティンガーdevil stinger(悪魔の棘)といい、ヨーロッパでは恐れられている。体色はすむ場所によって変化し、藻場では赤紫色、砂泥地では暗灰色、深所では赤色または黄色が強い。東京地方では黄赤色のものをとくにアカオコゼとよんで、ほかの色のものと区別している。産卵期は6月下旬から8月中旬で、直径1.3〜1.4ミリの分離浮性卵を産む。水温20〜24度Cでは41時間で孵化{ふか}する。8ミリ前後になった仔魚{しぎよ}は、頭部に多数の棘があること、胸びれが著しく長く、背びれや臀{しり}びれの後端近くまで達すること、胸びれの後縁と下方の基部が黒いこと、尾部の前方と中央部にそれぞれ1個の大きい黒斑{こくはん}があることなどの特徴をもつ。この期の仔魚は7〜9月にかけて沿岸の中底層にかなり出現する。成魚は全長25センチに達し、沿岸からかなりの深所までの底層にすみ、体色を周囲に似せて潜み、近づいてくる魚や甲殻類などの小動物をすばやくまる飲みにする。定置網、底延縄{はえなわ}、底刺網などで漁獲される。冬から春にかけてが旬{しゆん}で、肉は白身で脂肪が少なく、吸い物やちり鍋{なべ}にするとおいしい。 <尼岡邦夫> 【民俗】 「山の神にオコゼ」とは、好物を見て喜ぶさまをいうが、山の神信仰とオコゼの関係は古く、室町時代の『御伽草子{おとぎぞうし}』にもみえる。それは、山の神が醜女{しこめ}なので、オコゼを見ると、自分よりも醜いものがあったと喜ぶとか、またオコゼの棘が魔除{まよ}けや、病気を治したり失{う}せ物を発見するのに呪力{じゅりょく}があるとか、子供の食い初{ぞ}めの膳{ぜん}につければ一生涯、魚の骨がのどにささらないとか、美味な魚なので山の神の神饌{しんせん}に用いられたなどと、さまざまに伝えられているが、その理由ははっきりしない。また山の神の祭りにオコゼを必要とする地方は多く、三重県尾鷲{おわせ}市などでは、懐{ふところ}に入れたオコゼを、神さまにちらりと見せて氏子一同で大笑いしたり、猟師がオコゼを懐中にして猟に出て「獲物を授けて下さればみんな見せます」と出すまねをして山の神に祈願する。  なお、山の神が好むオコゼには山オコゼと海オコゼがあり、山オコゼとは、陸産のキセルガイやイタチ、マムシ、毛虫など気味の悪い動物をさす場合もある。 <矢野憲一>

カワゲラ🔗🔉

カワゲラ (かわげら) 【漢】?翅・? stonefly 英語 Steinfliegen ドイツ語 昆虫綱カワゲラ目の昆虫の総称。?翅{せきし}類(目)ともいう。カワゲラ目Plecopteraは、体の構造は比較的原始的で、直翅目系の昆虫の特徴を示している。口器は退化的傾向が強い。前翅と後翅はほとんど同じ構造であり、また脚{あし}の基節が小さいことなどから直翅目とは完全に異なる。現代のカワゲラ類は古生代ペルム紀(二畳紀)の原カワゲラ目Protoperlariaを直接の祖先型としているといわれている。  カワゲラ類の成虫は、すべて陸生で空中を飛翔{ひしよう}するが、幼虫はすべて水生で流水中や池などに生息する。成虫は水辺近くを飛翔し、水辺の草や橋脚に止まり、前翅を後翅の上に積み重ね合わせて腹部の背面上に置き静止する。これが?翅目の名のおこりである。  成虫は褐色または淡黄色の8〜30ミリ前後で、膜質の二対のはねをもつのが普通であるが、セッケイカワゲラ類やトワダカワゲラ類ではまったくはねをもたない。また、種属によっては、同種または雌雄によってはねの長さの極端に異なるものがある。また、成虫は一般に食物をとらないが、小形の種属では岩の上や樹幹に生育する地衣類やコケ類を摂取する。  カワゲラの幼虫はすべて水生で、澄んだ水が緩やかに流れる山間の渓流などに多くみられ、平地でも汚染されてない川には生息し、石の下や沈んだ葉の間にすむ。幼虫ははねをもたないことを除いて、体の構造は成虫とあまり変わらない。比較的じょうぶな体で、水中の石礫{れき}の間を歩く。大形種では顕著な色彩と斑紋{はんもん}があり、その斑紋によって種名を知ることができるが、変異が多いので注意を要する(アミメカワゲラ科、カワゲラ科など)。小形種では一様に褐色あるいは淡黄褐色で斑紋はなく、種名の同定はむずかしい(オナシカワゲラ科、クロカワゲラ科など)。また、幼虫の外見はカゲロウの幼虫に似ているが、カワゲラは脚のつめが2本、胸部腹面または腹部末端にえらがあることなどから容易に識別できる。一般に気管えらをもつが、まったくもたない種属もある。気管えらのある位置は種属によって異なるが、これは分類上重要であり、その系統的な意義も大きい。幼虫の期間は種属によって異なり、1〜3年といわれているが、まだ十分にはわかっていない。幼虫の食性は、だいたい大形種では肉食性ないしは肉食傾向の強い雑食性であり、小形種で草食性である。食性は幼虫の口器と対応しており、口器を見れば肉食性であるか、草食性であるか容易にわかる。幼虫は不完全変態であり、蛹{さなぎ}の時期はなく、羽化は比較的湿度の高い早朝に行われる。  このところ、走査電子顕微鏡によるカワゲラ卵の表面構造の観察研究が盛んで、とくに大形種の研究では系統関係を論ずることができるまでに発展している。カワゲラの幼虫は渓流奥の天然餌料{じりよう}として重要であるとともに、渓流魚の釣りの餌{えさ}(クロカワムシ)としても、カゲロウの幼虫(チョロムシ、オセコ)やトビケラの幼虫(瀬虫)と同様に利用されている。  近年、カワゲラ類の成虫および幼虫の比較解剖学的見地から、カワゲラ目をミナミカワゲラ亜目Antarctoperlariaとキタカワゲラ亜目Arctoperlariaの二亜目に分類している。前者は原始的な亜目で、おもに南半球に分布するのに対し、後者は前者よりもより高度に分化した亜目で、おもに北半球に分布する。日本にはキタカワゲラ亜目に、トワダカワゲラ科、ミジカオカワゲラ科、オナシカワゲラ科、クロカワゲラ科、ハラジロオナシカワゲラ科、ヒロムネカワゲラ科、アミメカワゲラ科、カワゲラ科、ミドリカワゲラ科の9科が知られている。 <川合禎次>

砕石機🔗🔉

砕石機 (さいせきき) crusher / stone crusher 採掘した岩石や高炉滓{さい}、転炉滓などを破砕し、コンクリートや道路用材料として用いる所要粒径の砕石を生産する機械。建設機械の一種で、クラッシャーともいう。圧縮、曲げ、剪断{せんだん}、衝撃、摩擦などの機械的な力を加えて原料を砕くもので、ジョークラッシャーjaw crusher(主として圧縮)、ジャイレートリクラッシャーgyratory crusher(主として圧縮)、コーンクラッシャーcone crusher(衝撃を伴う圧縮)、ダブルロールクラッシャーdouble roll crusher(圧縮、剪断)、インパクトクラッシャーimpact crusher(衝撃)、製砂機に用いるロッドミルrod-mill(衝撃、摩擦)などがある。砕石プラントは、これらの砕石機とふるい分け機、分級機、洗浄機、および原料、処理物の供給・引出し機械などを適宜組み合わせて構成される。 <河野 彰・清水 仁・鴫谷 孝>

ジェムストーン🔗🔉

ジェムストーン (じぇむすとーん) gem stone 学術用語としての定義は一定していないが、加工によって宝石として利用される価値をもった物質一般をさす。→宝石 <加藤 昭>

車軸藻類🔗🔉

車軸藻類 (しゃじくもるい) 【学】Charophyceae stoneworts 緑藻植物門の一綱、または独立の植物門として扱われる藻類で、数属が知られているが、代表的なものはシャジクモ属Charaとフラスコモ属Nitellaの2属である。  体形はスギナに似ており、節{せつ}と節間よりなる主軸の節から、数本の小枝が輪生するのでシャジクモの名がある。節は多数の小形の細胞でできているが、節間は1個の伸長した大形の細胞からできていて、シャジクモ属ではこれが皮層で覆われるのが普通である。主軸の基部からは数細胞からなる仮根が出て、これで水底の泥や基物に体を固定している。輪生する小枝の節の部分にパイナップル状の生卵{せいらん}器と球形の造精器ができるが、生卵器は中に1個の卵細胞があり、それを5個の細長い細胞が螺旋{らせん}状に巻いて包み込んでいる。この器官はコケ類やシダ類にみられる造卵器に相当するものとも考えられるが、現在では発生学的見地から、この外被は本来は輪生枝になるはずのものが変化してできたものととらえられているので生卵器とよばれる。この差異によって、車軸藻類は藻類に位置づけられている。しかし、車軸藻類は他の藻類とは著しく異なる独特の形態をもつほか、接合子が発芽して原糸体期を経ることや精子の形などから、コケ類と縁の近い植物と考えられている。比較的清澄な水域を好み、各地の湖沼や水田にみられる。また節間細胞が大形で見やすく、原形質流動がよくわかるので、顕微鏡実習の教材としてもよく利用される。 <小林 弘>

新石器時代🔗🔉

新石器時代 (しんせっきじだい) new stone age / neolithic age 英語 Neolithikum ドイツ語 石器時代を古いほうから旧石器時代、中石器時代、新石器時代と三分した場合の一つ。三時代法によって、遠古の歴史は、石器時代、青銅器時代、鉄器時代に三分されるが、石器時代もさらに細分される。新石器時代の標識は、石器が磨研法、啄敲{たくこう}法(敲打法)によって製作されることである。もちろん打製法も、前代以来引き続いて採用されていた。大部分の新石器文化では、土器が製作・使用され、あるいは農耕が営まれていた。しかし土器、すなわち製陶術の存否、あるいは農耕の有無は、新石器時代を規定するものではない。なぜならば、新石器時代というのは、石器の製作法のいかん(磨研法、啄敲法)によって設定された時代概念であって、製陶法または農耕とは直接関係していないからである。また等しく新石器文化といっても、旧大陸と新大陸とでは様相が異なっているし、新・旧両大陸とも新石器文化には、獲得経済(採集、狩猟、漁労)に基づく停滞的な文化と、生産経済(農耕、牧畜)に立脚する先進文化との区別があって、生活様式が異なるから、両者はそれぞれ別個に考察する必要がある。これら多数の新石器諸文化のうちで、歴史的にみてもっとも重要であり、かつ主流をなすものは、旧大陸の生産経済を営んだ新石器諸文化である。 【生産経済にたつ新石器文化】 本稿では、旧大陸の生産経済に立脚する新石器諸文化をA群、獲得経済の段階に停滞した新石器諸文化をB群と仮称する。A群に属する諸文化のうちでもっとも古いものは、イラン西部、イラク北部、アナトリア(小アジア)南部、シリア、パレスチナにまたがる、いわゆる「肥沃{ひよく}な三日月地帯」で育成された諸文化である。イラク北部のカリム・シャーヒル文化、パレスチナのナトゥーフ文化(三期に細分される)、エリコの先土器新石器A文化、アナトリア南西部のハジュラル文化などはその例であって、この地帯において紀元前9000〜前7000年ごろに行われた諸文化は、原新石器文化proto-neolithic cultureと総称されている。  原新石器文化の様相は、まだ十分に究明されていない。その大略の性格を述べると、生活は狩猟、採集、漁労に依存しながらも、穀草(エンマ小麦、大麦)の栽培や有蹄{ゆうてい}類動物(羊、ヤギ)の飼育が部分的に営まれていた。居住に関しては定住性が濃厚となり、河岸、湖畔、沃地を前にした丘陵などに小規模な集落がつくられ、洞窟{どうくつ}はあまり居住に使用されなくなった。石器には、細石刃{さいせきじん}を組み合わせて刃とした石鎌{いしがま}、ナイフのほか、半磨製の石斧{せきふ}、啄敲法でつくった石容器、石皿、小さい石杵{いしきね}などがみられ、骨角器の製作・使用も盛んであった。土器はまだつくられなかった。遺骸{いがい}は、副葬品とともに竪穴{たてあな}住居や食物貯蔵用の穴に屈葬された。「肥沃な三日月地帯」における新石器時代前期文化は、前7000年ごろから前6000年ごろにかけて行われた。イラク北部のジャルモA文化、パレスチナ、エリコの前土器新石器B文化、アナトリアのベルディビ文化、キジルカヤ文化などは、その代表的な例である。この文化の特色は、採集、狩猟などに伍{ご}して農耕と牧畜が生業として確立されたこと、磨製石斧の製作が一般化したことである。貯蔵穴の内側はしばしば焼き固められたが、この時期の後半になると、貝殻押捺文{おうなつもん}などの施された深鉢形丸底の素文の(彩文のない)土器が現れている。  右の前期文化に続いた新石器時代中期文化に比定されるのは、イラクのジャルモB文化、ウム・ダバギヤー文化、イランのシアルク第一期文化、シリアのアムクA文化、アナトリアのチャタル・ヒュユク文化などである。トルクメニア南部のジェイトゥンも中期に擬せられる。中期文化の特色は、農耕、牧畜(羊、ヤギ、牛)の盛行、偶像(石、粘土製)の増加、製陶術の確立、磨製石器の増加などである。簡単な施文の彩文土器も考案された。人々は、日干しれんがで構築した家屋に居住するようになった。この地帯の中期文化は、前6300〜前5000年ごろに行われた。  次に、新石器時代後期に比定されるのは、イラクのサーマッラ文化、ハッスーナ文化、ハラフ文化、イランのシアルク第二・第三期文化、シリアのアムクB文化などである。トルクメニア南部のアナウA文化、ナマーズガ第一期文化なども、後期に該当している。年代的にはそれらは、前5000〜前4500年ごろに行われた。後期文化の特色は、大規模な集落の形成、神祠{しんし}の造営、美しい彩文土器の製作などである。農耕、牧畜の隆盛に反比例して、狩猟の占める役割は激減した。ハラフ文化やアナトリアのハジュラール文化では、わずかではあるが銅製のピンがつくられている。またハラフ文化に属するアルパチヤー遺跡では、集落に防御用の環濠{かんごう}がみられる。  前述した「肥沃な三日月地帯」の新石器文化は、もっとも先進的なものであり、A群の新石器文化としてもっとも典型的な様相を顕示している。この地帯で発明された農耕、牧畜、彩文土器の製作など画期的な文化は、いち早く西方に波及し、東ヨーロッパにみごとな新石器文化を育成させた。ここでいう東ヨーロッパとは、ギリシア、ユーゴスラビア、ブルガリア、ルーマニア、南ロシアなどを包括している。もっとも古い新石器文化はギリシアの単色土器文化であって、前6000〜前5000年ごろに比定されている。  ギリシア、テッサリア地方のアルギッサ・マグラ遺跡の最下層を基準とするアルギッサ・マグラ文化は、しばしば先土器新石器文化とみなされているが、これは誤解によるものであろう。この文化は、大幅に農耕(エンマ小麦、一粒小麦、スペルツ小麦、インゲンマメ)と牧畜(羊、豚、牛)に立脚しており、狩猟のもつ比重は著しく低下している。にもかかわらず、土器はまだ製作されなかったし、石器の磨製法も知られていなかった。その意味では、アルギッサ・マグラ文化は中石器文化と認められる。新石器時代を規定するのは、石器の磨製法そのものの存在であって、農耕もしくは牧畜の有無ではないのである。  さらにユーゴスラビアの北西部のドナウ川河畔に所在するレペンスキ・ビル遺跡の中・下層によって設定されたレペンスキ・ビル文化を原新石器文化とみる学者もいる。この文化は、石製の神像、神祠、プランが扇形の住居址{し}などで知られる独自な文化であるけれども、これまた中石器文化であって、生産経済、土器の製作、石器の磨製法などは、まったく知られていないのである。  新石器時代前期に比定されるのは、ギリシアでは、セスクロ前期文化、バルカン半島方面では、スタルチェボ・クリシュ文化である。この文化では、農耕(小麦、アワ、インゲンマメ)や牧畜(羊、豚、牛、ヤギ)も盛んであって、プランが方形で、木造ないし土壁の家屋がつくられ、彩文土器や磨製石器も製作された。テッサリアのセスクロ遺跡では、日干しれんが造の家屋群からなる集落が早く発掘調査されている。中期に比定されるのは、ギリシアのセスクロ後期文化(セスクロ遺跡第一・第二層)、バルカン地方のカラノーボ文化、ビンチャA文化、ボイアン文化などであるが、ブルガリア東部においてカラノーボ文化は大いに盛行した。中期、後期においてバルカン地方各地、南ロシアの新石器文化はその精華を競った。後期に該当するのは、ビンチャB文化(ユーゴスラビア)、グメルニッツァ文化(ブルガリア)、ディミニ文化(ギリシア)、ククテニ文化(ルーマニア東部)、トリポリエ文化(南ロシア)などである。いずれも流麗な彩文土器で知られている。ディミニ遺跡(前四千年紀)の集落は、中央に首長の家とみなされるメガロンを有し、周壁で防備されており、この文化が原生国家の段階にあったことを証示している。  ルーマニア北部のトランシルバニア地方のトゥルダシュ文化は、ビンチヤB文化に親縁な文化であるが、この文化に属するタールタリア遺跡からは、文字を刻した3個の泥章(粘土版)が発見されている。それらの年代は、前2800〜前2750年に比定されている。多くの学者たちの意見では、これらの泥章は、メソポタミアのジェムデト・ナスル文化(前3100〜前2900)のはるかな影響の下にバルカン地方で考案されたものと推測されている。「肥沃な三日月地帯」を中核とするオリエントの新石器文化は、バルカン半島やギリシア方面ばかりでなく、各方面に伝播{でんぱ}もしくは刺激を与え、エジプトのバダーリ文化のように、各地に独自なA群の新石器文化を成立せしめた。みごとな彩文土器を伴う中国の甘粛{かんしゆく}省の半山{はんざん}文化や河南省の仰韶{ぎようしよう}文化の成立については、自生説も唱えられてはいるが、基本的な成因は、やはり西方からの文化伝播に求められるべきであろう。  ヨーロッパ中部の線文土器文化では、バルカン半島の新石器文化の彩文土器は受容されず、彩文の曲線文だけが刻文として採用されている。イベリア半島、イギリス、フランス西部、北ヨーロッパなどでは、環状列石や巨石墳(ただし共同墓)といった巨石記念物を伴う新石器諸文化の存在が知られている。これは、生産経済の採用によって蓄積された社会的な富力を背景としたもので、その巨石思想がオリエントから伝播した結果ではない。  新石器時代というのは、技術史的な時代区分によった時代であるから、等しくA群の新石器文化といっても、文化的、社会的にかなり様相を異にする諸文化がそのなかに包摂されている。前記のように、ギリシアのディミニ遺跡は防壁を外周に巡らしているし、ルーマニアのハバシェシュテイ遺跡(ククテニ文化)は環濠高城をなしていた。イラクのハラフ文化なども政治史的にディミニ文化と同じ段階にあった。これらに対してイギリスのウィンドミル・ヒル文化では、長形墳(共同墓)こそみられるが、生活には移動性(むろん一定の領域内においてである)が強く、粗末な素文土器のみが使用され、生活水準はきわめて低劣であった。また地域によっては、初めB群の新石器文化が行われ、ついで生産経済に基づくA群の新石器文化に移行したような場合もあった。有名なタッシリの岩壁画を残したサハラ砂漠(当時は草原)東部の新石器時代の住民は、前期には主としてカモシカを対象とする狩猟民であったが、後期にはイベリア牛を飼育する牧民となっていた(ただし農耕は営まれなかった)。中央アジアのホラズム地方などもその例であって、最古の新石器文化(ケルチェミナール文化)はB群、これに続いたタザバック・ヤーブ文化はA群に所属しているのである。  いうまでもなく、文化の発展は地域によって速度を異にしている。オリエントではだいたい前4500年ごろに新石器時代は終わっているが、他の地域では程度の差はあれ、新石器文化の停滞がみられた。アフリカ北西部のモウレタニア(モロッコ)の奥地の住民は、ローマ人の支配下に入った前1世紀の後半まで、中石器時代のカプサ文化の伝統の強い新石器時代(ただしA群)の段階にとどまっていた。また中国東北部の吉林方面の住民は、紀元後3世紀に至ってもなお新石器文化(A群)を担っていたと記録されている(『後漢書{ごかんじょ}』東夷伝{とういでん})。  なお、パキスタンやインドでは、中石器時代が長く停滞し、新石器文化の形成がみられなかった。たとえば、パキスタン西部(バルーチスターン)のキリ・グル・モハマッド遺跡最下層では、牧畜(羊、ヤギ、牛)の営為は盛んであるが、製陶術も石器の磨製法もみられず、技術史的には中石器文化の様相がみられる。同遺跡の中層では精粗両様の土器が存する。そして上層は前ハラッパー文化に該当し、早くも銅製品が現れ、彩文土器が隆盛に向かっている。しかし依然として石器の磨製法は知られず、パキスタンやインドの住民は、中石器時代から銅器時代に移行したのである。技術史的な時代区分による限り、そうした不整合的な編年も不可避的なのである。 【獲得経済にたつ新石器文化】 獲得経済の段階に停滞した新石器諸文化(B群)は、先進文化圏から遠く離れた周辺地帯や、農耕、牧畜の営為に不適当な地域にみられた。その好例は、西はフィンランドから東は沿海州、朝鮮半島北部に及ぶ広大なユーラシア北方地帯で行われた諸文化であって、櫛目文{くしめもん}土器文化の名で総称される。日本の縄文文化も、その末期はともかくとして、B群に属する新石器文化である。日本列島の住民は、西方から農耕、牧畜が伝えられない限り、いかにその地が農耕に適し、牧畜が可能であっても、自力でB群の新石器文化から離脱することはできなかった。  アフリカのコンゴ(湿潤な森林地帯)の住民は、前一千年紀にスーダン方面より新石器文化の洗礼を受け、磨製石斧や土器の製作、使用を始めた。しかし猟獣や動物性食糧に恵まれていたためか、彼らは牧畜を採用しなかった。また小麦やモロコシは湿潤な気候に不適当であったため、彼らは農耕から栽培技術だけを学び、原生のヤマイモの一種の栽培を始めた。単なる植物栽培は農耕ではないから、コンゴの新石器文化はB群に入れられるのである。こうした事例は、インドネシア諸地域の新石器文化についても指摘されるのである。 【アメリカ大陸の新石器文化】 アメリカ大陸の考古学では、[_新石器時代]という術語は用いられていない。いまあえてこの観点から眺めると、一、二の例外を別とすれば、前コロンブス諸文化のうち、旧石器文化に属するもの以外は、すべて新石器文化なのである。北アメリカでは、自然銅を加工した銅斧その他の銅製品が少なからず使用されたが、それらは鋳造されたものではないから、正しい意味での銅器文化の存在を示す指証とはならない。冶金{やきん}術が発明ないし採用されたのは、中央アメリカでは後古典期(900ころ〜1500ころ)、南アメリカの中央アンデス地帯では、形成期中期middle formative period(前1000ころ〜前300ころ)であった。高い文化水準に到達した中央アメリカのマヤ文化などは、技術史的には新石器文化であった。アメリカ大陸の新石器諸文化相互にみられる落差は旧大陸の場合より著しく大幅であったといえる。  アメリカ大陸の新石器諸文化も、農耕を伴うC群と、獲得経済によるD群とに大別される。C群で栽培されたのはトウモロコシと豆類であったけれども、副業的に営まれることが多く、旧大陸におけるように、農耕は急激な社会的、文化的変革をもたらすことはなかった。概略していえば、アメリカ大陸では、土器の製作が石器の磨製法(新石器時代の開始)と同時または直後に始まる例が少なく、ある期間を置いて開始された場合が多い。新大陸では家禽{かきん}(七面鳥)は飼われたが、食肉を目的とする有蹄類動物の飼育(牧畜)は行われず、それは旧大陸に比べて文化進展の速度を緩やかにする要因の一つをなした。  カリフォルニアやカナダ方面の新石器諸文化は、ほとんどすべてがD群に所属する。北アメリカ東海岸のフロリダ地方のデットフォード文化もD群に属し、500年ごろ〜900年ごろに比定されている。これに続いたサンタ・ローザ文化やクリスタル川文化などは、農耕が副業的に営まれたという点では、C群に入れられる。右のデットフォード文化は、貝類の捕食、したがって貝塚の形成によって著名である。若い時分にこれらの貝塚の発掘調査に従事した生物学者のモースは、外人教師として東京大学に赴任し、東京都の大森貝塚を目ざとく発見した(1877)。モースがこの貝塚を発掘調査して日本における新石器文化の学術的研究に先鞭{せんべん}をつけたことは、周知のとおりである。→縄文文化 →黄河文明 <角田文衛> 【本】G・クラーク、S・ピゴット著、田辺義一・梅原達治訳『先史時代の社会』(1971・法政大学出版局) ▽江上波夫監訳『図説世界の考古学』全四巻(1984・福武書店)

ストーニー🔗🔉

ストーニー (すとーにー) George Johnstone Stoney (1826―1911)アイルランドの物理学者。ダブリンのトリニティ・カレッジ卒業後、1852年ゴールウェー(アイルランド)のクィーンズ・カレッジ教授。分子論的スペクトル研究などを経て、73年以後、大英科学振興協会の「単位の選択と命名に関する委員会」に参加。74年同協会ベルファスト大会で「自然の物理的単位について」と題する報告を行い、そのなかで電気素量の考えを提起、のちにそれをエレクトロンとよぶことが提唱された。 <宮下晋吉>

ストーン🔗🔉

ストーン (すとーん) Isidor Feinstein Stone (1907―89)アメリカのジャーナリスト。14歳で個人雑誌『The Progress』を発刊、以来、新聞編集に携わる。1933年『ニューヨーク・ポスト』紙論説委員、38年自由主義週刊誌『ネーション』編集次長に就任。40年代には『PM』紙、『デーリー・コンパス』紙に執筆。53年から個人新聞『I・F・ストーン・ウィークリー』を発刊、無党左派の戦闘的自由主義者として国内・国際問題を鋭く分析・批判したが、71年末に廃刊となった。著書に『秘史朝鮮戦争』(1952)などがある。 <鈴木ケイ> 【本】内山敏訳『秘史朝鮮戦争』(1966・青木書店)

ストーン・サークル🔗🔉

ストーン・サークル (すとーんさーくる) stone circle 自然石または加工の少ない巨石を環状に配置したもので、巨石記念物の一つ。環状列石と訳す。巨石墓など墳墓の外周を取り巻くものと、墓と直接には関係しないと思われるものの両者がある。前者は分布が広く、ヨーロッパ以外にも南インド、シベリアなど世界的に広がっている。日本では北海道の音江{おとえ}環状列石などがある。イギリスのストーンヘンジは、墓壙{ぼこう}は伴うが後者に属するものといえよう。環状列石といっても、正円ではなく楕円{だえん}形のもの、不整円形のものも多く、一重のものから二重、三重に巡らすものまで、その形態は変化に富んでいる。石材の大きさも数十トンに達するものから、巨石とはよべない小さなものまでさまざまである。  イギリスでは、ストーンヘンジのほかに、アベベリー、フランスではエル・ラニックなどが著名であり、中国でも斎家{せいか}文化の大何荘{だいかそう}遺跡などが知られている。日本では東北、北海道に分布が多く、秋田県の大湯環状列石{おおゆかんじょうれっせき}の「日時計」がよく知られているほか、北海道の忍路{おしょろ}環状列石、岩手県の樺山{かばやま}遺跡などがある。→巨石記念物 →ストーンヘンジ →大湯環状列石 →石 <寺島孝一>

ストーンヘンジ🔗🔉

ストーンヘンジ (すとーんへんじ) Stonehenge イギリス南部ソールズベリー平野のほぼ中央にある巨石記念物。世界各地にあるストーン・サークルのうちもっとも著名な遺跡で、20世紀に入ってからの数次にわたる調査の結果、年代や構築状況が解明されてきた。ストーンヘンジは、中心から、トリリトン、サーセン円、Z穴、Y穴、オーブレー穴、周溝が同心円状に配列され、北東部にはヒル・ストーンが建ち、そこに至る通路がつくられている。これらの構成は一時期につくられたのではなく、I〜?期に段階的に建造、使用されたことが判明し、その実年代は紀元前2800〜前1100年ごろと推定されている。  I期には主として外周部がつくられた。?期にはブルー・ストーンとよばれる石が搬入され、サーセン円とトリリトンの中間に二重の環状に建てられた。?期はさらにa〜c期に細分されているが、ストーンヘンジ最大の構築物であるトリリトンとサーセン円がつくられた。サーセン石のうち最大のものは50トンを超える。またこの時期にはブルー・ストーンの建て替えを行っている。  G・S・ホーキンズはこれらの石の配列をさまざまな角度から考察し、「ストーン・サークル=天文台」説を提唱したが、ストーンヘンジの中心と、ヒル・ストーンを結ぶ線が夏至の日の出の方向を示す以外は一般には認められていない。また墓壙{ぼこう}を伴うことから埋葬との関連も考えられる。 <寺島孝一> 【本】G・S・ホーキンズ著、竹内均訳『ストーンヘンジの謎は解かれた』(1983・新潮社)

石材🔗🔉

石材 (せきざい) building stone 岩石の原体そのまま、あるいは種々の加工を施して、土木および建築用の材料として利用されるもの。石碑、庭石、美術工芸品などに利用されるものを含めることがある。土木用材では強度と風化に対する抵抗力が大であることが要求され、建築用とくに装飾用材では外観や耐火度が重要な要素となる。近年は日本産のみでなく、イタリアを中心とする諸外国の石材も各地で多くみかけるようになった。 【利用の歴史】 人間と岩石とのつながりは深く、石の利用の歴史は石器時代までさかのぼる。種々の岩石で石器がつくられているが、石材としては巨石記念物がその古い例として知られている。この巨石記念物、墓石への利用から、やがて人間は岩石を切り取って石材をつくる方法をみいだし、時の権力と結び付いて石材文化は発展した。紀元前2000年ごろには、エジプトでピラミッドが建設されており、古代インドやインカ帝国などにも巨大な石造記念物をみることができる。ギリシア、ローマなどの神殿や彫刻、中世の教会建築などにみられるように、民族の歴史はその生活の場であった建造物の石材に刻み込まれて残されている。現在では大きな建築物、ダム、鉄道、港湾などをはじめ、石碑、墓石、石塀、砥石{といし}や各種の工芸品に至るまで、その利用は広範囲にわたっている。  民族の生活様式、風土の違いは、そのまま石材の利用の仕方にも現れ、日本では奈良時代のころに仏壇や仏の台座に石材が使用された例があるが、建築にはほとんど利用されなかった。城郭、神社、仏閣の建築などの発展とともにその利用は広まったが、土木、建築に本格的に利用されるようになったのは、ヨーロッパ文化が入ってきた明治以後のことである。日本のように地震の多い所では、規模の大きい石造建築は構造的に不利である。石材は構造用よりはむしろ装飾用の建築材料として使われることが多く、そのため美観が重要視される傾向がある。  現在では大理石や花崗{かこう}岩などの砕石を、混和粘着剤としてセメントを用いて固めてつくったものが広く使われている。これはテラゾとよばれるもので、天然のものに比べて値段が安く、大きさや色が自由になり、ある程度天然の岩石の状態を表現できるため、その利用は盛んになりつつある。 【利用される岩石】 ほとんどの種類の岩石が石材として利用されている。石材には、岩石のもつ特性、外観あるいは用途別に基づいて、それぞれ通称があって、一般にその通称でよばれている。 (1)花崗岩類 花崗岩や花崗閃緑{せんりよく}岩などの酸性深成岩類で、普通、御影{みかげ}石とよばれている。一般に粗粒で、その組織には方向性がなく、色は白色から淡紅色で硬くて美しく、耐久力大である。割れ目が少ないので大材を得やすく、また産出量も豊富なので、磨いて建築の装飾用張付け石として利用されている。土木用として敷石や堤防、橋などにも利用されるほか、石碑や墓石などにも使われ、石材のなかではもっとも重要なものである。花崗岩類を構成している石英と長石の膨張率が異なるために、耐火度の小さいことが欠点である。代表例として稲田{いなだ}御影、塩山{えんざん}御影、本御影、徳山御影(黒髪御影)、万成{まんなり}石、北木{きたぎ}御影、小豆{しようど}御影などがあげられる。 (2)閃緑岩・斑糲{はんれい}岩 花崗岩類に比べて有色鉱物が多く、色指数が大であるため色調は暗色になる。そのため、普通、黒御影とよばれている。組織は一般に粗粒で方向性はない。分布が限られ産出量が少なく、大材は得られないが、落ち着きのある美しさをもち、墓石や装飾用建材として利用されている。代表例として折壁{おりかべ}御影、浮金{うきがね}石、三春{みはる}石などがある。 (3)蛇紋{じやもん}岩類 蛇紋岩や橄欖{かんらん}岩は黒っぽい緑色で、きめが細かく、磨き上げると美しい。橄欖岩の変質したものは竹葉石{ちくようせき}とよばれている。風化作用に対して弱く、また分布が限られているために産出量が少ない。したがって室内装飾用建材や工芸品などに利用されることが多い。代表例として竹葉石、鳩糞石{はとくそいし}、貴蛇紋などがある。蛇紋岩のなかで方解石脈が不規則な網目状に入っているものは蛇灰岩といい、大理石の名でよばれることがある。 (4)安山岩類 日本では安山岩からなる火山が多く、その分布も広いため、石材としての利用度は大きい。一般に深成岩類よりも耐火性が強い。板状節理や柱状節理が発達していることが多く、採石しやすいが大材は得られない。代表例としては白河石、小松石、横根沢石、鉄平{てつぺい}石、須賀川{すかがわ}石、根府川{ねぶかわ}石などがある。 (5)凝灰{ぎようかい}岩 凝灰岩も分布の広い岩石で、とくに第三紀のものは他の岩石に比べて軟らかく、採取や加工も容易であるため、石塀などに広く利用されている。吸湿性が強く、かなり耐火性も強いため、構造材として倉庫や石蔵などに使用される。凝灰岩の石材としては、栃木県宇都宮市の大谷{おおや}石がもっとも有名である。大谷石は普通、淡緑色、多孔{たこう}質で、「みそ」とよばれる暗緑色から褐{かつ}色の斑点{はんてん}がみられる。ほかに、院内石、院南{いんなん}石、秋保{あきう}石、長岡青石などがある。 (6)砂岩 砂岩は主として古生代、中生代のものが使われ、石垣、土台、墓石、砥石などの小規模な用途が多く、まれに建築材料として利用される。代表例として日出{ひので}石、多胡{たこ}石、銚子{ちようし}石、和泉{いずみ}砂岩、来待{きまち}石などがある。 (7)粘板岩(スレート) 古生層および中生層のなかの粘板岩はきめが細かく、ほとんど水を吸収しない。また薄く割れやすい性質があるので、それを利用して屋根瓦{がわら}、石碑、硯{すずり}、砥石などに用いている。代表例として井内石、女川{おながわ}石、雨畑{あまばた}石、赤間石などがある。弱変成を受けた凝灰岩も、粘板岩と同様に利用されることが多い。 (8)石灰岩(大理石) 大理石は普通、石灰岩が変成作用を受けて再結晶したものをさすが、装飾用建材として使われるものは、すべて大理石とよばれている。大理石の語源は、中国雲南省の大理府の地名に由来する。主成分は炭酸カルシウムで比較的加工しやすく、磨くと美しい光沢や模様を示すことが多い。雨水の風化作用に対して弱いので、室内装飾用建材、工芸品や彫刻などに用いられる。日本ではわりあい産出量の多い岩石で、すべて古生層のものである。種類も、化石を含むものから、角礫{かくれき}岩状の更紗{さらさ}とよばれるものなどいろいろのものがあって、色調も灰色、黒色、紅色、緑色など多彩である。イタリアのカラーラやギリシアのアテネなどからの輸入品があるほか、国内では叢雲{そううん}、白雲、貴蛇紋、更紗、渓流、岩永更紗、八重桜、若狭{わかさ}大理石など多数の銘柄が知られている。このほか、沖縄県には、淡褐色で多孔質の琉球{りゆうきゆう}トラバーチンがあり、瀬底{せそこ}島その他で採石されている。→大理石 【石材の性質・形・単位】 規格では五立方センチメートルの岩石の耐圧強度が5トン以下のものが軟石(凝灰岩など)、15トン以上のものが硬石(安山岩、花崗岩、大理石など)、その中間のものが準硬石(砂岩、安山岩など)に分けられている。耐火度は安山岩や凝灰岩が高く約1200度C、大理石は800度C前後で生石灰となり、花崗岩や砂岩などは約600度Cである。また耐久年数は花崗岩や安山岩で200年、粗粒大理石や砂岩などが50年といわれる。形のうえからは用途の違いにより、板形、四角形、角錐{かくすい}形、丸形、角棒形などがある。従来は一切れ(一立方尺)を単位として売買されていたが、現在では土木・建築用石材についての日本工業規格(JIS{ジス})が定められている。 【採石の方法】 石材は普通、露天掘りで採石されるが、軟石では垣根掘りという坑道掘りもなされる。硬石の採石には、火薬を使う鉄砲割{わり}、穿孔{せんこう}機を用いるきりもみ法、節理とくさびを利用する掘込{ほりこめ}法、穴をあけてくさびを打ち込む矢割{やわり}などの方法がとられる。軟石では、必要な寸法に従って溝{みぞ}を切り込み、次に底面にくさびを打ち込んで採石する切込{きりこみ}法がとられている。 【加工・製造工程】 石材の加工は、まず原石に玄能{げんのう}で形をつけ、次にその表面を、のみとつちを使って仕上げる(のみ切り)。それからハンマーの一種の「びしゃん」でたたき(びしゃん仕上げ)、さらに片刃または両刃を使ってたたく(こだたき仕上げ)。このあと砥石と水を使って磨き(水磨き)、最後につや出し粉をつけたフェルトで磨いてつや出しをする。用途に応じて、玄能だけでやめる場合や「びしゃん」でやめる場合などがある。装飾用建築材料のように平らなものは、普通、工場で平らな鉄板ののこぎりで切られ、研摩も機械でされている。 【使用例および輸入事情】 日本の石材がもっとも多量に、またもっとも多種類使用されている例としては国会議事堂をあげることができる。1887年(明治20)にその建設が決定されたとき、工事の材料に国産の石材が使用されることになった。外装には花崗岩、内装には大理石を使うことになり、全国的に調査された。その結果が今日の石材工業の基礎となっているといえる。多量に採掘できて落ち着いた色調という条件で、議事堂一階の腰回りには山口県蛙島{かえるじま}産の蛙島石(黒髪御影)を使い、二階以上には広島県安芸{あき}郡倉橋島産の尾立{おたち}石が使われた。その所要量は約34万切れといわれる。内部装飾に利用された大理石は37種類にも及び、紫雲(岩手県)、茨城白(茨城県)、貴蛇紋(埼玉県)、紅葉石(静岡県)、オニクス(黒部峡谷)、黒柿{くろがき}(岡山県)、山桜、鶉{うずら}、霞{かすみ}、薄雲(以上山口県)、加茂更紗、時鳥{ほととぎす}、曙{あけぼの}、新淡雪、木頭{きとう}石(以上徳島県)、金雲(高知県)、金華山(福岡県)、竹葉(熊本県)、黄竜(朝鮮)などをはじめ、沖縄のトラバーチンとよばれる石も使われている。その所要量は大理石約3万7000切れ、トラバーチン1万切れといわれている。また議事堂の周りの柵{さく}は、全部テラゾによってつくられている。  近年では外国からの輸入量も増加し、広く利用されている。1983年(昭和58)には、大理石の輸入総量は約4万トンで(全国石材工業会による)、その半分以上がイタリアからである。ほかにポルトガル、フィリピン、ギリシア、ユーゴスラビア、台湾、中国などから輸入されている。花崗岩は約57万トン輸入されており、半分以上が韓国とインドからのものである。ほかに中国、アフリカ、ポルトガル、アメリカ、カナダなどから輸入されている。→岩石 →建築材料 →石造建築 <斎藤靖二>

?器🔗🔉

?器 (せっき) stoneware 粘土器の一種で、素地は硬く、ガラス質または熔化{ようか}し、水を透過せず破面は貝殻状あるいは石状である。?器は硬磁器と陶器の中間のものとみなされる。硬磁器と異なる点は主として非透光性あるいは薄い部分がわずかに透光性である点である。天然の粘土にほとんど手を加えずにつくられたものを粗?器coarse stoneware、精製された原料または混合素地でつくられたものを精?器fine stonewareといい、後者には素地の白いものも多く、工業用?器として重要である。→セラミックス →陶磁器 <素木洋一>

ノビタキ🔗🔉

ノビタキ (のびたき) 【漢】野鶲 【学】Saxicola torquata stonechat 鳥綱スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科の鳥。イギリスを含むヨーロッパから、日本を含むアジアまで広く分布し、北方のものは南下して越冬する。日本では、本州中部地方以北の高原と北海道低地の草原に夏鳥として渡来し、5〜7月に、地上の物陰に巣をつくり5〜7個の卵を産む。抱卵は雌のみ、12〜14日で雛{ひな}がかえると、雄も餌{えさ}を運ぶ。冬は日本を去る。全長約12センチ。雌は、上面が黒と褐色のまだらで下面は淡黄褐色。雄も秋の換羽で似た姿になるが、越冬中に羽の縁が擦り切れて、頭からのどにかけて、および背面が黒く、胸が赤くなる。雌雄ともに翼に大きな白斑{はくはん}がある。もっぱら地上や草の葉などの昆虫を捕食する。 <竹下信雄>

フクドジョウ🔗🔉

フクドジョウ (ふくどじょう) 【漢】福泥鰌 【学】Noemacheilus toni Siberian stone loach 硬骨魚綱コイ目ドジョウ科に属する淡水魚。北東アジアに広く分布するが、日本では北海道だけから知られている。体はやや縦扁{じゆうへん}し、眼下棘{きよく}や骨質板はない。体色は黄褐色で、体側と頭部は不規則な暗褐色斑{はん}で覆われる。産卵期に雄の胸びれ鰭条{きじよう}上面や体前部に微小な追い星が現れる。河川の砂礫{されき}底にすみ、主として底生動物を餌{えさ}とする。→ドジョウ <澤田幸雄>

ロゼッタ石🔗🔉

ロゼッタ石 (ろぜったいし) Rosetta stone 1799年、ナポレオンのエジプト遠征軍の士官ブシャールが、ナイル川河口にある町ラシードで発見した黒色玄武岩の石板。高さ114.3センチ、幅72.4センチ、厚さ28センチで、表面には同内容の文書が、上からヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字)、そしてギリシア文字で刻まれている。ギリシア文から、それは紀元前196年、プトレマイオス5世エピファネスの善政をたたえたメンフィスの神官たちが発布した頌徳{しょうとく}文であることがわかった。発見当初から言語学者によるヒエログリフ解読が試みられ、ついに1822年フランスの言語学者シャンポリオンは、ロゼッタ石の写しとフィラエ島のオベリスクの碑文とを比較研究し、解読に成功した。これによってエジプト学は急速に進歩し、碑文や文書類が次々と解読された。ロゼッタ石は1801年イギリスの戦利品として没収され、現在は大英博物館に所蔵されている。→古代オリエント文明 <吉村作治>

ローリング・ストーンズ🔗🔉

ローリング・ストーンズ (ろーりんぐすとーんず) Rolling Stones イギリス出身で、1960年代初頭にデビューして以来、2000年の現在も第一線で活躍中のロック・グループ。1950年代なかば、ロックン・ロールの洗礼を受け、リズム・アンド・ブルース(R&B)、ブルースに傾倒していった幼なじみのミック・ジャガーMick Jagger(1943― 、ボーカル、ギター)とキース・リチャーズKeith Richards(1943― 、ギター、ボーカル)が、アレクシス・コーナー率いるブルース・インコーポレイテッドを中心にイギリスでも盛り上がりをみせるようになったR&Bやブルース・シーンとかかわるうち、ブライアン・ジョーンズBrian Jones(1942―69、ギター)と出会い、ビル・ワイマンBill Wyman(1941― 、ベース)、チャーリー・ワッツCharlie Watts(1941― 、ドラムス)を加えて5人で活動を開始した。63年にレコード・デビュー。2作目のシングルでビートルズのジョン・レノンJohn Lennon(1940―80)、ポール・マッカートニーPaul McCartney(1942― )の提供による『アイ・ワナ・ビー・ユア・マン(彼氏になりたい)』のヒットで注目を集めた。  当初は、R&B、ブルースを中心にロックン・ロールからカントリーなど、広範囲にわたる既成曲を積極的に取り上げ、独自の解釈による個性的な歌唱とビートを強調した演奏で話題を集めていたが、やがてミック・ジャガーとキース・リチャーズによるオリジナル作品を主体とするようになり、『サティスファクション』などのヒットでアメリカでも成功を収めた。さらには、ポップなバラードや時代を反映したサイケデリックな傾向をみせていったが、ドラッグにかかわる事件が相次ぐなど、スキャンダラスな話題が先行したこともあった。  1969年にはブライアン・ジョーンズが退団し、その直後に自宅のプールで事故死する。ブライアンにかわってミック・テイラーMick Taylor(1948― 、ギター)が参加したのと前後して、アメリカ南部のブルース、R&Bやカントリー・ミュージックに積極的に取り組み、『レット・イット・ブリード』『スティッキー・フィンガーズ』さらには黒人音楽全般にも積極的に接近し、『メイン・ストリートのならず者』などの傑作を相次いで発表した。ライブ活動も行い、69年にはカリフォルニアのオルタモントでの野外コンサートで殺人事件が発生する事態も起こったが、72年以後は数年ごとに英米でツアーを実施し、ライブ・バンドとしての評価を高めた。74年にはミック・テイラーが退団し、元フェイセズのロン・ウッドRon Wood(1947― )が加わった。以後、大掛りなステージ・セットによるスペクタクルな構成・内容で、娯楽性も充実したスタジアム規模の公演が中心となっていった。1980年代なかば以後は、さきにソロ活動を始めていたビル・ワイマンに続き、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、チャーリー・ワッツらもソロ活動を開始した。解散を噂{うわさ}されたこともあったが、89年にグループ活動を再開。93年、ビル・ワイマンが退団したが、残る4人を中心にサポート・ミュージシャンを加え、活動を続ける。  日本での公演は1973年に予定されたが中止となり、88年、ミック・ジャガーのソロ・ツアーを経て、90年に実現した。以後、95、98年にも公演を行った。それら日本での公演の一部や、日本でスタジオ録音された作品が『フラッシュ・ポイント』『ストリップト』などに収録されている。→カントリー・アンド・ウェスタン →バラード →ブルース →ミック・ジャガー →リズム・アンド・ブルース →ロック <小倉エージ>

ストーン🔗🔉

ストーン (すとーん) Oliver Stone (1946― )アメリカの映画監督。ニューヨーク生まれ。エール大学在学中に一度ベトナムに行くが、半年で帰国する。1967年、陸軍に入隊し、ふたたびベトナムへ向かい、戦争を体験した。除隊後はメキシコへ行き、ヘロイン所持で投獄されるなどしたが、ニューヨークに戻り、シナリオライターを目ざす。『ミッドナイト・エクスプレス』で78年度のアカデミー脚本賞を受賞、さらに自ら脚本と監督を手がけた『プラトーン』で86年度のアカデミー監督賞を獲得した。そのほか『サルバドル』『ウォール街』などの作品がある。

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