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石見(町)🔗🔉

石見(町) (いわみ) 島根県中央部、邑智{おおち}郡にある町。1955年(昭和30)矢上町と井原、中野、日貫{ひぬい}、日和{ひわ}の四村が合併して成立。国道261号が通じる。石見高原に位置するが、矢上、中野、井原の盆地がある。近世には出羽{いずは}鋼とアサの集散地で知られた。矢上には鉄穴{かんな}流し跡が残っている。1950年代には中南米への移住策を進めるほど人口過剰であったが、現在は過疎化が進んでいる。千丈渓{けい}、断魚渓は江川{ごうがわ}水系県立自然公園の一部で国の名勝に指定されている。人口6761。 <野本晃史> 【地】5万分の1地形図「川本」 【URL】[石見町] http://www.web-sanin.co.jp/local/iwami/

石見瓦🔗🔉

石見瓦 (いわみがわら) 石見(島根県西半部)地方の特産の瓦。石州{せきしゆう}瓦ともいう。重厚な光沢をもつ釉薬{ゆうやく}瓦で、焼成温度も高く、耐寒性がある。1620年(元和6)の浜田城築城にあたり、大坂から瓦師を招いて御用瓦を焼いたのが始まりといわれ、以後、技術的改良により堅牢{けんろう}性を増した。さらに、石見焼の釉薬に用いられる出雲{いずも}の来待石{きまちいし}(八束{やつか}郡宍道{しんじ}町来待に産する)の粉末を瓦にも応用することにより、赤褐色の美しい釉薬瓦が生み出され、1872年(明治5)ごろから実用品として生産されるようになった。その気品と堅牢さが好評を博し、益田{ますだ}、浜田、江津{ごうつ}、大田{おおだ}など石見一円で生産され、市場も中国地方を中心に拡大した。第二次世界大戦後、窯の改良などにより、主製品は来待釉瓦から新赤瓦や銀黒瓦に移ったが、石見瓦特有の美しい光沢は変わらない。 <藤岡大拙>

石見銀山🔗🔉

石見銀山 (いわみぎんざん) 戦国期から江戸中期にかけての代表的銀山。石見国邇摩{にま}郡大森(島根県大田{おおだ}市大森町)にあり、近世の金銀山開発の先駆をなした。14世紀初めに発見されたと伝えられるが、16世紀前半から本格化し、1533年(天文2)神谷寿禎{かみやじゅてい}が博多{はかた}から吹大工{ふきだいく}(製錬工)を伴い、銀の製錬に成功した。以後、大内{おおうち}、小笠原{おがさわら}、尼子{あまご}、毛利{もうり}氏らの銀山争奪戦が反復されたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後は徳川氏が支配し、代官頭大久保石見守{いわみのかみ}長安{ながやす}の奉行{ぶぎょう}時代に盛況となり、代官陣屋の設置と銀山町が形成された。16世紀後半には一か年で数百貫以上の産出があり、長安の時代には山師安原因繁{やすはらよりしげ}の本谷の釜屋間歩{かまやまぶ}は、1602、03年ころには一か年の運上銀3600貫にも達した。しかし寛永{かんえい}年間(1624〜44)以降はしだいに衰退し、享保{きょうほう}期(1716〜36)以降には年間100貫前後となり、1837年(天保8)から57年(安政4)灰吹{はいふき}銀高は平均42貫余と激減した。江戸期の銀山の管轄は大森代官所で、18世紀以降は銅も産して、銀銅が尾道を経由して大坂へ送られた。明治以降にも稼行し、1887年(明治20)大阪の藤田組の所有となり、一時は銅、金、銀1か月3130貫を産出したが、1923年(大正12)に休山となった。 <村上 直> 【本】山根俊久著『石見銀山に関する研究』(1974・臨川書店) ▽小葉田淳著『日本鉱山史の研究』(1968・岩波書店) 【URL】[岩見銀山資料館] http://www.joho-shimane.or.jp/cc/silver/

石見検地🔗🔉

石見検地 (いわみけんち) 江戸前期の代官頭大久保石見守{おおくぼいわみのかみ}長安{ながやす}が天正{てんしょう}・文禄{ぶんろく}・慶長{けいちょう}期に行った検地。別に石見検、大久保縄{なわ}ともいい、代官頭伊奈備前守{いなびぜんのかみ}忠次{ただつぐ}の備前検地と並び用いられた代表的検地。徳川氏の関東入国の翌年、1591年(天正19)から関東を中心に実施され、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い以後、徳川氏の覇権獲得に伴い甲斐{かい}(山梨県)、越後{えちご}(新潟県)、信濃{しなの}(長野県)、美濃{みの}(岐阜県)、山城{やましろ}(京都府)、石見(島根県)にも行われた。記載形式も石高のみならず貫文によるのもあり、かならずしも一定していない。検地竿{ざお}はそれまでの一間{けん}=六尺三寸(約1.91メートル)から六尺一分(約1.82メートル)に短縮し、六尺一分四方を一歩、300歩を一反としている。検地竿の短縮は領主側の取分の増加を企図するものであるが、従来の名主{みょうしゅ}層の得分{とくぶん}を認めつつ、幕府存立の基盤である小農民自立を推し進めていった点に特色がある。 <村上 直>

石見高原🔗🔉

石見高原 (いわみこうげん) 中国山地の北西部、島根県西部に広がる高原。静間川、江の川{ごうのかわ}、浜田川、周布{すふ}川などの日本海に注ぐ河川により一部は開析され渓峡谷をつくるが、高原上は数多くの小盆地が分布する。集落は河岸段丘と高原上に立地し、その間は羊腸路で連絡する。盆地にはたたら製鉄跡が多い。高原は赤松と広葉樹で覆われ、パルプ材供給地。かつては木炭の主産地であった。人口流出が多く過疎地域である。 <野本晃史> 【地】20万分の1地勢図「浜田」

石見国🔗🔉

石見国 (いわみのくに) 島根県の西半部にあたる旧国名。日本海と中国山地に挟まれた狭長な地形。石見の語源が石海{いわうみ}あるいは石満{いわみ}であるといわれるように、大部分が山地で、江の川{ごうのかわ}、高津{たかつ}川など数条の河川が日本海に注いでいるが、沖積平野は発達していない。  大化改新後、安濃{あの}、邇摩{にま}、那賀{なか}、邑知{おおち}、美濃{みの}の五郡が置かれたが、843年(承和10)美濃郡から鹿足{かのあし}郡が分立した。国府の所在地については浜田市周辺説が強いが、現在のところ確認されていない。8世紀初め、柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}が石見掾{じょう}として赴任したといわれる。石見の豪族益田{ますだ}(御神本{みかもと})氏は、平安末期、国衙官人{こくがかんじん}として下向、土着したもので、益田荘{しょう}(益田市東部、美濃郡・那賀郡の一部)を中心に、主として石見中西部に勢力を扶植した。  1193年(建久4)佐々木定綱{さだつな}が初代石見守護に補任{ぶにん}されたが、以後の鎌倉期守護は明らかでない。南北朝期には益田氏など在地領主の間で複雑な抗争が繰り返されたが、1364年(貞治3)大内弘世{おおうちひろよ}が守護となるに及んで平定に向かった。大内氏は応永{おうえい}の乱(1399)で守護職を失い、山名{やまな}氏が入部するが、応仁{おうにん}の乱(1467〜77)後はふたたび大内氏に還補{げんぽ}された。戦国時代に本格的開発が行われた石見銀山(大田市)は、大内、尼子{あまご}、毛利{もうり}、小笠原{おがさわら}ら諸豪の争奪の的となるが、のち徳川幕府の直轄地となり、17世紀前半最盛期を迎えた。江戸時代の石見は、銀山領、浜田藩、津和野{つわの}藩に三分されたが、近世初頭、銀山領を中心とする石見東部に、浄土真宗が伝播{でんぱ}し、石見門徒とよばれる強固な地盤を形成したことは注目される。1866年(慶応2)長州再征のとき、親藩浜田藩は長州軍の攻撃を受け、藩主は逃亡、城は炎上した。一方、津和野藩は長州に好誼{こうぎ}を通じたので、明治新政府のもとで活躍する人材が輩出した。  1869年(明治2)銀山領、浜田藩は隠岐{おき}県とともに大森県となったが、翌年浜田県と改称。71年には津和野藩が編入され、まもなく隠岐が移管されて石見一円が浜田県となった。76年に浜田県は島根県に編入された。→島根(県) <藤岡大拙>

石見半紙🔗🔉

石見半紙 (いわみばんし) 石見国(島根県)鹿足{かのあし}郡を中心として生産される和紙。石州{せきしゆう}半紙ともいう。この地方の紙漉{す}きは、国東治兵衛{くにさきじへい}が『紙漉重宝記』(1798)のなかで、万葉歌人の柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}がこの地へ赴任してから始めたと記しているように古い。また、正長{しようちよう}・永享{えいきょう}年間(1428〜41)のころに吉見弘信{よしみひろのぶ}が津和野の領主となってから、製紙業として確立されたとも伝えられる。しかしこれを特産としたのは、のちの亀井家の家老多胡真為{たごさねます}の方針による。原料はコウゾ(楮)で、きわめてじょうぶなことから、書道用紙のほか障子紙などにも重宝された。1969年(昭和44)その製紙技術(石州半紙)が国の重要無形文化財に指定された。→半紙 <町田誠之>

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