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石橋🔗🔉

石橋 (いしばし) stone bridge 石材を用いてつくった橋。簡単なものでは石の桁{けた}を用いたものもあるが、代表的なものは石造のアーチ橋である。石造アーチはせり持ちで荷重を支える。これをブーソアアーチvoussoir archともいう。アーチ技術はメソポタミア地方に発祥したが、石造アーチ技術を駆使したのはローマ人である。紀元前後の石造アーチ橋はローマを中心としてヨーロッパ各地にみることができる。ローマ帝国滅亡後はしばらくとだえたが、9〜16世紀にかけて多くの石造アーチ橋が架けられている。フィレンツェ市のベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)、ベネチア市のリアルト橋などは有名である。  日本の本格的な石造アーチ橋は長崎の眼鏡橋{めがねばし}(1634年。橋長23メートル)、諫早{いさはや}の眼鏡橋(1839年。橋長49.1メートル)などで、東京の日本橋{にほんばし}は1911年(明治44)に架橋された最後の石造アーチ橋である。石造アーチの最大径間はドイツのフリードリヒ・アウグスト橋の90メートル、無筋コンクリートアーチではフランスのカイユ橋の139.8メートルである。 <小林昭一>

石橋(町)🔗🔉

石橋(町) (いしばし) 栃木県中南部、下都賀{しもつが}郡にある町。宇都宮市と小山{おやま}市のほぼ中間に位置し、1891年(明治24)町制施行。1954年(昭和29)に姿{すがた}村と合併。JR東北本線と国道4号が並行して南北に縦貫している。近世には日光街道の宿駅として、周辺農村の中心町として栄えた。特産品のかんぴょう栽培が盛んである。誘致した工業団地には、衣服、レース、食品、機械などの工場がある。貨物ターミナル駅が上三川{かみのかわ}町との境界地区に建設され、流通センターとなりつつある。徳川家光{いえみつ}以来、将軍家の日光社参の休泊所となった開雲{かいうん}寺もある。人口1万9174。 <村上雅康> 【地】5万分の1地形図「壬生{みぶ}」

石橋思案🔗🔉

石橋思案 (いしばししあん) (1867―1927)小説家。横浜市生まれ。本名助三郎。帝国大学法科中退。尾崎紅葉、山田美妙らと硯友{けんゆう}社を結成し、創刊の『我楽多{がらくた}文庫』に『仇桜遊里廼夜嵐{あだざくらさとのよあらし}』を発表。吉岡書店刊の叢書{そうしょ}「新著百種」の一冊『乙女心』で認められ、『京鹿子{きようがのこ}』『わが恋』などを発表したが、旧文学的戯作{げさく}性から抜けきれず、創作から遠ざかる。その後、『中京新聞』『読売新聞』などの記者を経て、博文館に入り、1916年(大正5)まで『文芸倶楽部{くらぶ}』の編集に従事する。 <小野寺凡> 【本】『明治文学全集22 硯友社文学集』(1969・筑摩書房)

石橋正二郎🔗🔉

石橋正二郎 (いしばししょうじろう) (1889―1976)企業家。福岡県久留米{くるめ}に生まれる。久留米商業学校卒業後、兄徳次郎とともに仕立物の家業を継ぐ。足袋{たび}専業化、「アサヒ足袋」の均一価格販売などにより家業を伸ばし、1918年(大正7)日本足袋株式会社を設立した。23年、新案の貼付{はりつけ}式ゴム底足袋を「アサヒ地下足袋」の名称で製造販売し、爆発的人気を博した。地下足袋、布製ゴム靴の大量製造販売で稼いだ巨資を投じて自動車用タイヤの国産化に着手し、1931年(昭和6)ブリヂストンタイヤを創立した。第二次世界大戦後、日本ゴム(旧日本足袋)を兄に譲って、ブリヂストンタイヤの経営に専念し、アメリカの総合ゴム会社グッドイヤー社との技術提携、またモータリゼーションを見越した積極的な設備投資策により、同社をタイヤ業界の首位につかせた。美術品収集でも名高く、本社ビル(東京)にブリヂストン美術館を設けた。56年には美術館を含む石橋文化センター(久留米市)を、69年には国立近代美術館(東京)などの寄付をしている。 <森川英正> 【本】伝記刊行委員会編『石橋正二郎』(1978・ブリヂストンタイヤ株式会社)

石橋湛山🔗🔉

石橋湛山 (いしばしたんざん) (1884―1973)経済評論家、政治家。東京生まれ。早稲田{わせだ}大学文学部哲学科を卒業後、1911年(明治44)東洋経済新報社に入り、編集局長を経て41年(昭和16)社長。東洋経済新報社は自由主義を編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋もその立場から満州事変や五・一五事件を厳しく批判し、政府の軍国主義政策に反対した。戦前・戦中の石橋の主要な活動舞台は経済評論であった。井上準之助{じゆんのすけ}の財政緊縮政策に対して積極財政論を展開した「金解禁」論争は有名。戦後、自由党に入り、46年総選挙に出馬したが落選。第一次吉田茂内閣の蔵相に就任し、生産復興第一主義を中心とした積極財政によってインフレ政策を推進。47年衆院選で当選(静岡2区)したが公職追放となる。51年の追放解除後、自由党に復帰するが、岸信介{のぶすけ}らと反吉田の新党運動をおこし除名され、54年鳩山{はとやま}一郎総裁の日本民主党結成に参画し同党最高委員。同年吉田内閣退陣後、鳩山内閣で通産相。保守合同(自由民主党成立)の翌56年12月鳩山後継総裁選挙で岸信介と争い総裁となり、石橋内閣を組閣。しかし肺炎のため十分に政策実施を行わないまま翌年2月わずか3か月で総辞職した。その後、中国、旧ソ連を訪問し、日ソ協会会長に就任するなど共産主義諸国との交流促進に活躍した。昭和48年4月25日死去、88歳。 <荒 敬> 【本】全集編集委員会編『石橋湛山全集』全15巻(1970―72・東洋経済新報社) ▽同編『石橋湛山――自由主義者の歩み』(1973・東洋経済新報社) ▽長幸男編『石橋湛山――人と思想』(1974・東洋経済新報社) ▽松尾尊兌編『石橋湛山評論集』(岩波文庫)

石橋湛山内閣🔗🔉

石橋湛山内閣 (いしばしたんざんないかく) (1956.12.23〜1957.2.25 昭和31〜32) 自由民主党鳩山{はとやま}一郎内閣に続く党人派首班の内閣。鳩山の引退声明によって後継総裁は、岸信介{のぶすけ}、石井光次郎{みつじろう}、石橋湛山の3候補のなかから公選されることになった。1956年12月14日の党大会で石橋が「7票の差」で最有力候補の岸を破って二代目総裁に選出された。石橋は「国会運営の正常化」「政界および官界の綱紀粛正」「雇用の増大」「福祉国家の建設」「世界平和の確立」という「五つの誓い」を基本方針として、向米一辺倒の是正と日中貿易の拡大、1000億円減税という「積極財政」などの政策を示した。しかし57年1月、石橋は肺炎にかかり、岸外相を臨時首相代理としたが、長期療養の必要を診断されたため、ついに総辞職した。その進退をめぐる石橋の決断の明快さに対して賛辞を送る者が多かった。 <荒 敬> 【本】辻清明・林茂編『日本内閣史録5』(1981・第一法規出版)

石橋忍月🔗🔉

石橋忍月 (いしばしにんげつ) (1865―1926)小説家、文芸評論家。筑後{ちくご}(福岡県)豊岡村に生まれる。本名友吉。1887年(明治20)帝国大学法科に入学、独法を学んだが、早くよりドイツ文学に親しみ、レッシングなどを批評の基準として、明治20年代前半の文壇に文芸評論家として活躍する。とくに『舞姫』評価をめぐっての森鴎外{おうがい}との論争は、日本近代文学史上初の本格的な文学論争として有名。また『想実論』(1890)など、文学の本質を考察した評論もあるが、一方『お八重』(1889)や『惟任日向守{これとうひゆうがのかみ}』(1894)などの小説も発表している。帝大卒業後、内務省に入り、のち石川県金沢に移住、弁護士を開業、しだいに文学から離れた。99年(明治32)長崎に移住、同地で判事、弁護士、県会議員などを務めた。三男が文芸評論家の山本健吉である。 <大屋幸世> 【本】『明治文学全集23 石橋忍月他集』(1971・筑摩書房)

石橋政嗣🔗🔉

石橋政嗣 (いしばしまさし) (1924― )政治家。台湾生まれ。台北経済専門学校、熊本予備士官学校卒業。全駐労佐世保支部書記長、長崎県労評議長、長崎県議を経て1955年(昭和30)総選挙で左派社会党から当選、以後連続当選。社会党では勝間田{かつまた}派に属す。おもに外交・防衛畑を歩き、60年安保では「安保五人男」の1人として活躍。党外交防衛委員長、総務局長、国際局長を経て、70年から7年間書記長として成田知巳{ともみ}委員長とコンビを組む。この間66年に自衛隊漸減に関する「石橋構想」を発表。82年副委員長に就任、党の機構改革案をまとめたが同年12月辞任。83年第9代委員長に就任、社会党初の労組出身の委員長となる。86年辞任、90年引退。イデオロギーより現実を重視するタイプ。著書に『非武装中立論』がある。 <伊藤 悟>

石橋山の戦い🔗🔉

石橋山の戦い (いしばしやまのたたかい) 1180年(治承4)8月、相模{さがみ}国石橋山(神奈川県小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親{おおばかげちか}らが源頼朝{よりとも}の軍を破った戦闘。8月17日、伊豆北条に挙兵し、同国目代{もくだい}の山木兼隆{やまきかねたか}を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。しかし23日夕、景親勢がこれを強襲、伊東祐親{いとうすけちか}も背後をうかがった。三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義{いいだいえよし}、梶原景時{かじわらかげとき}など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷{どいごう}(神奈川県湯河原町、真鶴{まなづる}町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房{あわ}(千葉県)に渡り、再挙を図ることになった。→源平の合戦 <杉橋隆夫>

石橋🔗🔉

石橋 (しゃっきょう) 能の曲目。五番目物。めでたく1日の催しを締めくくる祝言能。五流現行曲。入唐{にっとう}した寂昭{じゃくしょう}法師(ワキ)は清涼山{せいりょうぜん}に至り、石橋を目前にする。この世から文殊菩薩{もんじゅぼさつ}の浄土に架かる橋である。現れた山の童子(前シテ。老翁{おきな}の姿にも)は、橋を渡ろうとする寂昭に、名ある高僧でも難行苦行のすえでなければ渡れなかったととどめ、自然が出現させた石橋の神秘を物語る。そして奇跡を予言して消える。仙人(アイ狂言)が出て橋の由来を述べ、獅子{しし}の出現を予告する。前シテをツレに扱い、アイ狂言を省く流儀もある。獅子(後シテ)が出て、牡丹{ぼたん}の花に戯れつつ豪快に舞い、万歳千秋をことほぐ。獅子の出を囃{はや}す「乱序{らんじょ}」の囃子も、豪壮ななかに深山の静寂の露のしたたりを表現する譜が加わるなど、特色がある。「獅子」の舞は能のエネルギーの端的な主張であり、技術的な秘曲で、伝承がとだえたため江戸時代に苦心のすえに復興されたもの。『望月{もちづき}』『内外詣{うちともうで}』でも舞われるが、それは中世芸能としての獅子舞の扱いであり、『石橋』の獅子が本格である。赤と白の夫婦獅子、あるいは親子獅子の出る演出のバリエーションが多く、前シテを省いて、ワキの登場のあと、すぐに獅子が出る略式上演も広く行われている。→能 <増田正造> 【石橋物】 能の『石橋』に取材した歌舞伎{かぶき}舞踊の一系統。たいていは「〜獅子{じし}」とよぶところから、「獅子物」ともいう。年代の古いものほど能の影響は少なく、趣向と詞章の一部を借りただけで極端に歌舞伎化されているが、新しくなるにしたがい能に近づいている。野郎歌舞伎の初期から行われ、元禄{げんろく}期(1688〜1704)には水木辰之助{たつのすけ}や早川初瀬が演じたという記録があるが、現存する最古の曲は1734年(享保19)3月江戸・中村座で初世瀬川菊之丞{きくのじょう}が踊った『相生{あいおい}獅子』で、同じ菊之丞の『枕{まくら}獅子』、初世中村富十郎の『執着{しゅうじゃく}獅子』がこれに続く。いずれも女方が傾城{けいせい}に扮{ふん}し手獅子を持って踊るという趣向であったが、江戸中期以後は立役{たちやく}の演目になり、四天{よてん}の衣装で獅子の強さを強調して演ずる『二人{ににん}石橋』『雪の石橋』などが生まれ、明治期には能の演出を多く取り入れた『連{れん}獅子』『鏡{かがみ}獅子』などがつくられた。曲はいずれも長唄{ながうた}。なお、「獅子物」という呼称では、能の『石橋』とは別に、民間芸能の獅子舞を舞踊化した『越後{えちご}獅子』『角兵衛{かくべえ}』『鞍馬{くらま}獅子』『勢{きおい}獅子』などもある。 <松井俊諭>

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