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(いし) 山の石を岩{いわ}と称し、海の石を石{いし}とよんだ。中国隋{ずい}の『玉篇{ぎよくへん}』に「磯{いし}、水中磧{せき}」とあり、『倭名類聚鈔{わみようるいじゆしよう}』に「石、凝土也」とし、「以之{いし}」と読む。  本項では、種々の点から、石と人間生活のかかわりについて、総称としての石に触れる。地質学上の解説は「岩石」「鉱物」の項、土木・建築については「石材」、考古学的知見については該当する石製品の項を参照されたい。本項は、いわゆる民俗学的な視点から石を敷衍{ふえん}したものである。 【石と生活】 〔石の古代建築〕 石による建造物は数多い。いまその若干を取り上げてみよう。ギリシア、アテネ、アクロポリスのパルテノン神殿は、壮大な白大理石の円柱列で名高い。また、ベスビオの噴火にうずもれたポンペイの廃墟{はいきよ}は、舗道の敷石に馬車の轍{わだち}の跡が残り、その道のわきに、石彫りの水神をのせた水道槽もある。ローマ時代の石造建造物も、エジプトのスフィンクス、ピラミッド、オベリスク同様、当時の生活をしのばせる。中国の『神仙通鑑{つがん}』には、?{げい}は玉亀山で山霊を使役し、瑪瑙{めのう}の敷石・階{きざはし}をしつらえた宮殿を16もつくり、西王母{さいおうぼ}がそこに好み住んだと記す。  日本では、ストーン・サークル(環状列石)などの巨石記念物が知られている。ケルン(積石塚)は石塊で築いた古墳である。秋田県立石・大湯のメンヒル(立石)は招魂・昇魂を期した建造物であろう。中国渡来の石人・石馬は九州地方に多い凝灰岩製の出土品である。 〔彩りの呪〕 石の彩りにかかわる伝承も多い。柘榴石{ざくろいし}、赤瑪瑙は、その色から、皮膚病の護符として古代ギリシア時代から身に着けられ、たんぱく石(オパール)は不幸をもたらすと伝える。紫水晶(アメシスト)は、酒に酔わぬための呪物{じゆぶつ}ともいうが、悪魔を祓{はら}い、英才を賦与するともいう。琥珀{こはく}の珠{たま}は弱視をよみがえらすとされる。北欧平原では、オパール、碧玉{へきぎょく}など緑色の宝石は、傷害を招く不吉な石とする。妖女{ようじよ}、侏儒{しゆじゆ}の色ともされ、所持者の皮膚までが緑色になるとして嫌う。北アフリカ諸国などでは、山羊{やぎ}の心臓を腑分{ふわ}けすると、青い炎が燃え盛るが、トルコ石の青と同じく生命の徴証であるという。また、赤石に等しく、呪いを防ぎ、魔を追い払うと信ずる。 〔石の供献具〕 わが国の例をあげよう。わが国の天神地祇{ちぎ}や祖霊を祀{まつ}る祭儀は、大陸から渡来したとされる。山・川・島を神体にみなす土地に真向かう地域から、器具・什器{じゆうき}類の供献具の出土がみられる。石斧{せきふ}・石鑿{いしのみ}・石鍋{いしなべ}・石鉢などの工具、供食具、機織{はたおり}具である。さらに祭儀を侵す邪霊を祓う武器、石剣・石盾・石槍{いしやり}も出土する。石製の服装品も数多い。勾玉{まがたま}、彩礫{さいれき}、管玉{くだだま}、切子{きりこ}玉、棗{なつめ}玉、丸玉をそれぞれ一重・二重に連綴{れんてい}したり、さまざまに組み合わせ、頸{くび}・腕頸に巻き付けた。これらを身にまとうと、「マナ」(超自然力)が人々の願いをかなえ、霊威を発揮する。 〔実用具・呪具としての石器〕 いわゆる石の枕{まくら}と称されるものがある。死者の頭をのせる中央のへこみの周囲に孔{あな}をあけ、蝶{ちよう}形の石製飾りを6本ほど挿す。千葉県に多い出土品である。近畿・中部地方では碧玉製品が出土する。『浅草寺観音縁起{せんそうじかんのんえんぎ}』にも石の枕に関する次の説話がある。風のすさぶ一夜、浅茅{あさじ}ヶ原{はら}の一つ家に宿を請う者があった。老婆は宿を供するが、富裕そうな旅人のようすをみるにつけ、邪心を募らせる。ついに老婆はその金品を奪おうと石の枕で旅人を打ち殺す。ところが、老婆に打たれていたのは観音であったという。老婆の石の枕は、へこみのあるつまらぬ丸石だった。  石鏃{せきぞく}は、江戸時代には「星の糞{くそ}」、俗に矢の根石ともよばれ、その神秘性が語られた。鍬{くわ}形・紡錘{つむ}形など種類も多い。長野県一帯では黒曜石製の腸抉{わたぐり}式のものがある。狩りの獲物の鳥の腸を肛門{こうもん}から抜き取るために用いた。  出土品の石刀、石斧、石鏃、石棒、石弾子{せきだんし}などは武器でもあり、呪具でもあった。記紀の俗に剣となす大量{おおはかり}も、邪霊・汚穢{おえ}を祓うのにあずかったものであろう。  北欧の『エッダ』に、トールと巨人ルングニイルが争い、ルングニイルが赤髯{あかひげ}のトールに石棒を投げつける伝説がある。石棒を投げつけられたトールも槌{つち}を投げるのであるが、この二つは空中で激突し、石棒は砕け、その破片がトールの頭に突き刺さる。巨人ルングニイルは敗死したという。石棒はおおむね青石・安山岩・砂岩製である。石理{きめ}をわきまえた彫刻を施し、金精{こんせい}神や族神になぞらえ、広く路傍や小祠{しようし}の神体として祀る。道祖神と同じく豊産・子授けを祈るのである。フランス、ブルターニュ地方では裸祭りに踊る石女{うまずめ}が花崗{かこう}岩製の石棒に肌を触れれば妊娠するという。 〔石と漁労・農耕〕 漁労の歴史は古い。当初は河川・沿岸でのそれが主であった。東北地方に出土する丸形・四角形の、孔や括{くく}りに糸をつける軽石の石錘{うき}は、釣魚に用いられた。牡蠣{かき}・鮑{あわび}を岩からはがしたり、貝の口をこじ開けるのに、珪石{けいせき}・硬砂岩製の、楕円{だえん}、横・縦形の石匙{いしさじ}を使用した。  漁労に石を利用した例は、時代が下ってもある。台湾のアミ族は田植が終わると、コムリッシ祭用の魚とりをする。コムリッシ祭はわが国のさなぶりにあたる。河床の石河原に小屋{タロアン}を設け、石を積み、その上に芋の葉をかぶせ、砂利をのせ、流れをせき止めるのである。魚は網ですくい上げる。オーストラリアにも興味深い伝承がある。北西部、ラグランジュ湾の、雀{すずめ}の一種のズイの漁法である。ズイは海岸の浅瀬を小石で半円形に囲み、潮が引くと中に魚が残るように仕向けた。魚は鰡{ぼら}であるが、ズイはその鰡をつつき殺したという。鰡は石になり、この湾岸は鰡の豊富な漁場になった。  農耕にかかわる石の伝承も少なくはない。沖縄県那覇市の地名起源である。大昔、呉氏宅に野菰{やこ}(俗称は奈波{なば}。茸{きのこ}形の石で、生産をつかさどる神の象徴)があったので、那覇となったというもの。奈波(キノコの方言)は土地神であり、農耕の増殖・生産を地中からの呪力で守り、豊饒{ほうじよう}をもたらす。沖縄の古代生活を多くの事例で語る『遺老説伝』中の一話である。  オーストラリア、ニューギニアの諸部族の伝えもある。ここでは希望の大きさの石を土中にうずめておくと、願いどおりにそれなりのヤムイモやタロイモが増殖するという。感染呪術を示唆するものとみてよい。また雨乞{あまご}いの際には、男たちは水に由縁する動物の踊りを舞いながら、女たちを囲んで石の粉をまきかける。石の粉は、水晶を槌石{つちいし}で粉末にしたもの。水晶は雨の石とよばれる。  石臼{いしうす}にまつわる韓国、台湾その他の説話もある。たとえば、太古から天と地が石臼のように回転していて、善人のみがその孔{あな}の間に残って栄えた。あるいは、大洪水で世界の人類がすべて滅亡したが、ただ2人の兄妹が二つの峰に残り、石臼の重なるのをみて、それを神の啓示として結婚し、人類の祖となった、などである。  農耕用の石製の出土品に石包丁がある。櫛{くし}形、長方形を呈するが、石板の上方に孔を二つあけ、紐{ひも}を通して、刃の部分で稲穂を摘んでいた。福岡県遠賀{おんが}郡水巻町の出土である。弥生{やよい}時代の石包丁には打製と磨製があって、形や刃のつけ方は一様ではない。打製の、サヌカイトを材料にしたものは、中部瀬戸内地域に多い。 【石の民俗と伝承】 〔山の神の石〕 人間の霊魂は動物の腑分{ふわ}けなどの印象から、形は丸形であるとか、三角形であると信じられてきた。丸形・三角形はそれぞれ心臓・肺臓の形である。こうした形の石に霊魂が宿り込むと、その石は成長し、増殖するとされた。小石一つであっても、山へ持って行けば、山の神は喜び、山はそれだけ高くなるという。「山の背競{せくら}べ譚{たん}」には以上のような背景がある。  剣摺鉢{つるぎすりばち}で知られる有明{ありあけ}山(信濃{しなの}富士)は、岩木山(津軽富士)同様、日に日に大きくなると伝えられていた。ある日、それを見ていた孕{はらみ}女が立ち小便をしながら、「毎日、毎日、そんなにせり上がって、どういうつもりなのか」と冷笑したので、山はそれ以来高くなるのをやめてしまった。ここには、山の神、石を祀る者が女性であり、その女性が不浄を行い、禁忌を犯せば、神の天降{あまくだ}りや祭祀{さいし}の中絶されうる事実が示されている。  山の神は石・木の小祠に祀られる場合が多く、炭焼き、杣{そま}、鍛冶{かじ}、木地師、修験{しゅげん}など、霊山の麓{ふもと}から出て漂泊した旅人の、山の神にまつわる口沙汰{ざた}も知られている。高さを誇る山の石を借りてきて、疣{いぼ}をなでさすり取り除く疣とり石・疣石は、鋳物師{いもじ}の足跡を示し、「芋掘り長者譚」を分布させた。 〔試練の石〕 石を抱き上げて、その重さ軽さで病気、失{う}せ物、商売繁盛などを占う伺{うかが}い石がある。力石は、鬼・弁慶・天狗{てんぐ}などが力試しをした石である。佐用姫{さよひめ}・聖徳太子が腰をかけた石の由縁で、力持ちになり、英才を発揮した、また疲れが回復し、病気も治癒した、などという休み石は、人々の尊び敬う祭壇石である。『古事記』中巻に以下の説話がある。麗しい伊豆志袁登売{いずしおとめ}の愛をかちえた春山之霞壮夫{はるやまのかすみおとこ}をねたむ兄秋山之下氷{したび}壮夫を懲らしめるべく、兄弟の母は伊豆志河の石を拾う。石を塩でもみ、竹皮に包み、かまどの上に置き、「この石の沈むが如{ごと}、沈み臥{ふ}せ」と呪うのである。母の祈念に、兄は八年{やとせ}を病みつき、臥した。いわばこの石は、成年戒の試練の石である。これに類する説話は、地境の石による呪術などのほか、地蔵、平将門{まさかど}の武勇、災害を防ぎ止める防圧語りにもみられる。  立場石{たてばいし}の伝承もある。徳島県海部{かいふ}郡志和岐{しわき}浦に玉依姫{たまよりひめ}という娘がいた。娘は嫁に行く際に、生家を離れがたく思い、庭の石を拾って袂{たもと}に隠し、途中山の頂にかかるあたりで、小石をことりと捨てた。やがて3年が過ぎ、慈しみ深い父の死にあう。懐かしさのあまりその場所を眺めると、石はだれの目にもそれとわかるほど大きくなっていた。この石は、その上に石を供えると、良縁を得るといまだに信じられている。玉依姫は、この伝承からすれば、霊魂を招き寄せ、移し込める役割の巫女{みこ}であるらしい。玉依姫を名のる旅渡りの巫女は幾人もいて、祈祷{きとう}、まじない、供養{くよう}も行えば、男女の仲をとりもつための物語、あるいは処女懐胎、神の子の神秘な生誕の語りを、世過ぎの術にしている。 〔赤石・赤色の霊威〕 ブリタニア系の人々は、へこみのある石にバターや蜜{みつ}を入れ、酒や油を塗り清浄に保ち、女陰の形を彫り、赤く彩色して、豊饒{ほうじよう}・妊娠を念じるという。これは、わが国の孕石{はらみいし}、局部を赤く塗られて路傍に立つ庚申{こうしん}石像と同じく、式部、虎{とら}、小町、五郎などの語りと共通の要素がある。二又{ふたまた}の木に石を供えてもよいのである。  ローマの古語り(人狼伝説)がある。ある夜来客があった。所用を思い出し、客に頼む。客はやむなく引き受け、着衣を脱ぎ、狼{おおかみ}となり、森深く入り込んだ。そのとき着衣は石になり、くぼみに血をたたえていたという。  静岡県掛川市の孕石天神は、社殿が赤石の上にある。赤石から、子石が毎日一つずつ生まれ落ち、その石を拾い、寝室に隠しておけば、かならず妊娠すると伝える。記紀にも、赤色にまつわる説話がある。たとえば、男神と人間の女が結婚する際には、男神は丹{に}塗りの矢となる。また、古く大隅{おおすみ}・薩摩{さつま}に住んでいた隼人{はやと}は、神に仕える際に、体中を赤く塗りつぶしたとされる。「天道さん金{かね}の綱譚」にも赤色が出現する。子供たちを襲い、とって食う人食婆{ひとくいばば}が、逃げる子供たちのよじ登る天からの綱に追いすがる。しかし、綱は重さで切れて落ち、婆は石にぶつかり死ぬ。植えてあった近くの畑の唐黍{とうきび}の根は、婆から流れ出る血に染まり、赤くなった。ここでは、石が赤くなったとは説かれないが、天降{あも}るものが赤で表される。  奈良県高市{たかいち}郡真菅{ますが}村小槻{おおづく}(現橿原{かしはら}市)の宮に赤くへこんだ大岩がある。雷の落ちた跡だという。雷は大日様に捕らえられ、褌{ふんどし}を外され、二度とこの村に落ちぬと誓い、天に戻った。大岩のくぼみには褌の縫い目まで残るらしい。これは、赤色に関していえば、人間以外の神・精霊が人間に近づく過程を表し、褌の縫い目は霊威あるものの呪力を示すと思われる。  舟玉{ふなだま}(船の守り神)として祀られる石もある。沖縄県宮古島の伝えである。遠く、長い航海に出た父を慕う子供がいた。子供は父恋しさのあまり、仲間嶽{なかまだけ}の奇石を守護神として舟に乗せ、海の果てに父を追う。波まかせの子供はおぼれ死ぬ。航海から戻った父は子供の死を悲しむが、舟の石を子の魂と思い定め、嶺{みね}に捧{ささ}げる。その後人々はこの山の石をいただき、赤糸を巻き結んで箱に収め、舟に供えた。 〔異形の呪〕 たとえば、石を縄で縛り、神仏に行うように願掛けをする行為がある。かなえば縄を解く。縛り石・縛り地蔵などとも称するが、呪を効果あらしめるための縛りである。サン、シメ、シメボシ、ツツダテ、ウケなどともいい、小枝、草、小石ものせる。異形をことさらに誇示し、神・呪物とするのである。『大和{やまと}物語』の、大宰大弐{だざいだいに}小野好古{よしふる}と歌を唱和した檜垣{ひがき}の御{ご}は、石を祀り、その来由を語り、信仰を説く巫女{ふじよ}であった。福岡県太宰府市の観世音寺裏門前には、檜垣の御の上屋をしつらえた石墓があるが、眼病に効ありと木札を下げたその右わきの石にたまる濁り水は、いまは石はおろか信仰さえ影も形もない。  蛇枕石の伝えは愛知県岡崎市(旧福岡町)にある。夫の妾{めかけ}狂いを恨み、妬心{としん}を募らせ、妻は岬の海に入水{じゅすい}して大蛇となる。大蛇は遊行の途次の蓮如{れんにょ}上人に会い、その説教をひたすらに聞き、彼岸の大石を枕に天女と化し、昇天する。この伝えは、石に憑{よ}る霊魂を招き、眠りを契機に異形・変身を成就する信仰の継承を明示している。 〔夫恋いの石〕 「つまごいのいし」と読む。峠の山道の日なたや、田んぼのあぜ道で抱擁しあい、屈託なげにくつろぐ爺婆{じじばば}石・夫婦{めおと}石はあちこちにある。田の神は爺婆の姿で、山上から田畑を眺め渡し、実りを予祝するが、これは山見・作見の名で知られる。郷土芸能などに存するカマケワザも、豊饒を祈る性交呪術である。『万葉集』にある大伴旅人{おおとものたびと}の歌「とほつ人松浦佐用媛夫{まつらさよひめつま}恋ひに領巾{ひれ}振りしよりおへる山の名」は、以下の伝承を踏まえている。宣化{せんか}天皇の時代、新羅{しらぎ}征討に船出した大伴佐提比古{さでひこ}を、佐用媛が鏡山から見送り、領巾を振り、別離を嘆きながら、そのまま石に化したという。『古今著聞集』にもみえる望夫石である。この望夫石は、佐賀県東松浦{ひがしまつうら}郡呼子{よぶこ}町沖合い2キロの加部島{かべしま}佐用姫神社の社殿下にある。また、他の望夫石は、福井県敦賀{つるが}市曙{あけぼの}町の気比{けひ}神宮にも、社殿下に白々とある。 〔神の石、石の白〕 松浦・松王・松童{まつわらわ}などのマツは、神に侍する意の「まつらう」、すなわち仕えることで、日待{ひまち}・酉待{とりのまち}のマチと同じく祭事を意味している。松童などは、サヨ・サヤと似寄りの、石語りを説き歩く信仰者である。  祭りを執り行う祭壇の石は甑{こしき}石・俎板{まないた}石とよばれる。調理した供え物を捧げる。鮭{さけ}・鯖{さば}などが石の上に跳ね上がったとも言い伝えられる。鯖は「産飯{さば}」に通じ、食物の少量を取り分けて鬼神などに供するもの。関西地方で、盆の生御魂{うぶみたま}のおりに、両親の魂栄{たまはや}しに刺鯖{さしさば}を持参し供える例と同じで、古くは魚類以外をもさした。  神への供物は、祭儀のあとの直会{なおらい}に際し、人々に供される。祭りに加わらぬ人々は、祭壇には登れず、供献の品々に触れることも許されなかった。神の石、祭壇は、清く保たれねばならず、汚穢は忌まれた。  白い石は、子供の夜泣きや女の乳房にかかわる病を癒{いや}すと伝えられている。しかし、白色は、清浄のみを意味するものではなく、恐怖すべき呪力・威力をも象徴した。たとえば、夜更けに、炉端に座り込んだ山姥{やまうば}に、白丸餅{まるもち}のかわりに白丸石を焼き与え、追い払う話は、炉辺に生き続ける数多い口承とともに、村々の子供たちを喜ばせてもいる。 <石上 堅> 【本】石上堅著『新・古代研究』全3巻(1978・雪華社) ▽同著『日本民俗語大辞典』(1984・桜楓社)

石井(町)🔗🔉

石井(町) (いしい) 徳島県北東部、名西{みょうざい}郡にある町。吉野川南岸に位置する。1907年(明治40)町制施行。55年(昭和30)浦庄{うらしょう}、高原{たかはら}、高川原{たかがわら}、藍畑{あいはた}の四村を合併。町の北部は吉野川の沖積地。JR徳島線と国道192号が並行して東西に走る。71年市街化調整区域に指定され、徳島市のベッドタウン化している。藩政時代からアイの栽培地帯であったが、近年、桑園から水田へと変わり、近郊農業地帯として、ダイコン、ニンニクの産も多い。高原地区は乳牛飼育が盛んで食料品工場も立地する。県民野鳥の森、地震観測所があり、石井廃寺跡は出土瓦{かわら}などから奈良時代前期の建立とされ、阿波{あわ}国分尼寺跡は国指定史跡となっている。人口2万5436。 <高木秀樹> 【地】2万5000分の1地形図「石井」「大寺」 【URL】[石井町] http://www.planning21.ne.jp/ishii/

石井菊次郎🔗🔉

石井菊次郎 (いしいきくじろう) (1866―1945)外交官。慶応{けいおう}2年3月10日上総{かずさ}国(千葉県)に生まれる。旧姓大和久{おおわく}。帝国大学法科大学卒業後1891年(明治24)外務省に入り、石井邦猷の養子となる。通商局長、次官、駐仏大使を歴任後、1915年(大正4)第二次大隈重信{おおくましげのぶ}内閣の外相に就任、日露協約の締結に尽力。17年アメリカ特派大使として石井‐ランシング協定を結ぶ。20年駐仏大使となり、ベルサイユ体制下の国際会議で平和条約実施委員長、国際連盟日本代表、同議長、ジュネーブ軍縮会議日本代表などを務め、27年(昭和2)退官。以後29〜45年枢密顧問官、33年世界経済会議日本代表を務め、外交界の長老として重きをなす。昭和20年5月の東京大空襲の際に行方不明となる(5月26日没)。→石井‐ランシング協定 <大森とく子>

石井研堂🔗🔉

石井研堂 (いしいけんどう) (1865―1943)編集者、明治文化研究家。岩代{いわしろ}(福島県)郡山{こおりやま}に生まれる。本名民司。1885年(明治18)上京し、岡千仭{せんじん}の漢学塾に入る。やがて児童雑誌『少国民』の編集に腕を振るい、また『理科十二ヶ月』12冊など少年向きの科学書も刊行した。一方、漂流奇談の編纂{へんさん}や『中村正直{まさなお}伝』の刊行など、多方面の活動をする。とくに1908年(明治41)刊行の『明治事物起原』(1969再刊)は明治文化の総覧的基礎文献であり、以後二度にわたり増補される。その間吉野作造らと明治文化研究会を創設、『明治文化全集』を編纂するなど、明治文化研究に尽力した。また錦絵{にしきえ}や古銭の研究家としても知られ、『釣師気質{かたぎ}』の著もある。 <大屋幸世>

石井十次🔗🔉

石井十次 (いしいじゅうじ) (1865―1914)社会事業家。孤児院の創始者。日向{ひゅうが}国(宮崎県)高鍋に生まれる。1884年(明治17)岡山県甲種医学校在学中にキリスト教に入信。流浪の貧者の子を預かり養育したことを契機に孤児救済を決意、87年岡山孤児院を創設した。医学を断念、孤児をして働きつつ学び独立させるため、活版部、機業部などの作業場を設ける一方、小学校を付設し、児童の成長段階に応じた保護教育体制を整えた。94年には宮崎県茶臼原{ちやうすばる}に開墾農場を設け、1911年(明治44)岡山孤児院を移し、院児の労働によって完全に独立することを宣言した。また「無制限収容」を宣言、1906年には、東北の大飢饉{ききん}による孤貧児800余名を加え、1200人の院児を擁した。晩年には都市スラムでの救済事業として、大阪南部に同情館、夜学校、保育所を開設した。実業家の大原孫三郎は彼の支援者。石井記念友愛社『石井十次日誌』(1956〜64)がある。 <伊藤和男> 【本】柴田善守著『石井十次の生涯と思想』(1964・東京春秋社)

石井鶴三🔗🔉

石井鶴三 (いしいつるぞう) (1887―1973)彫刻家、洋画家、版画家。画家石井鼎湖{ていこ}の三男として東京に生まれる。洋画家石井柏亭{はくてい}は長兄。1910年(明治43)東京美術学校彫刻家選科卒業、翌年第5回文展で褒状、14年(大正3)日本美術院彫刻部に入り、16年日本美術院同人となった。深い自然観照による堅牢{けんろう}な骨格の彫刻で院展彫刻部に指導的役割を果たした。油絵、水彩、木版画でも活躍し、春陽会会員、日本版画協会会長となった。44〜59年(昭和19〜34)東京芸術大学教授を務め、50年に日本芸術院会員となる。代表作に彫刻『母古稀{こき}像』『俊寛』『藤村先生像』など。また、『大菩薩{だいぼさつ}峠』『宮本武蔵{むさし}』など新聞小説の挿絵でも知られている。 <三木多聞>

石井廃寺🔗🔉

石井廃寺 (いしいはいじ) 徳島県名西{みようざい}郡石井町大字城ノ内字岡原に存在する奈良時代前期の廃寺跡。童学寺廃寺ともよばれる。1957年(昭和32)より59年にかけて発掘調査され、金堂{こんどう}、塔、回廊跡が検出され、南面する法起寺{ほっきじ}式伽藍{がらん}配置を有することが判明した。出土遺物には、鐙瓦{あぶみがわら}5種、宇{のき}瓦3種、鬼瓦3種などの屋根瓦、瓦塔{がとう}、土師{はじ}器、鉄釘{てつくぎ}などがある。本廃寺は、伽藍配置および出土瓦の検討により、阿波{あわ}国分寺に先行して建立されたもので、同国におけるもっとも古い寺の一例とすることができる。 <坂詰秀一>

石井漠🔗🔉

石井漠 (いしいばく) (1886―1962)舞踊家。本名忠純。秋田県生まれ。1911年(明治44)帝国劇場歌劇部一期生となり、G・V・ローシーについて古典バレエを学ぶ。15年(大正4)に独立、小山内薫{おさないかおる}、山田耕筰{こうさく}の支援のもとに舞踊詩『物語』『日記の一頁{ページ}』を発表。宝塚少女歌劇の洋舞教師を経て、浅草日本館で浅草オペラの旗揚げ公演を行った。22年から4年間、義妹石井小浪{こなみ}と欧米各地を公演。帰国後は、崔承喜{さいしようき}、石井みどりら多くの後進を育成し、創作舞踊の発展に努めた。代表作『人間釈迦{しゃか}』は、53年(昭和28)芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『舞踊ざんまい』(1947)などがある。 <市川 雅>

石井柏亭🔗🔉

石井柏亭 (いしいはくてい) (1882―1958)洋画家。本名満吉。東京生まれ。幼少から父鼎湖{ていこ}に日本画を習う。浅井忠{ちゆう}について油絵を始める一方、无声{むせい}会の新日本画運動に加わり会員となる。1904年(明治37)東京美術学校洋画科に入学、太平洋画会展に印象派風の『草上の小憩』を出品し、翌年中退。07年『方寸』誌を同志と創刊し、近代版画運動の先駆となり、さらに「パンの会」を創始する。明治末にヨーロッパ各国を巡遊。14年(大正3)二科会の創立に参加。35年(昭和10)帝国美術院会員となり、二科を離れて同志と一水会を創立した。生涯を通じて、日本の風土に即した、平明堅実な自然主義的リアリズムの道を歩み、水彩画の発達にも貢献した。教育、著述の分野の功績も大きい。彫刻家石井鶴三は弟。 <小倉忠夫>

石井部隊🔗🔉

石井部隊 (いしいぶたい) →七三一部隊

石井真木🔗🔉

石井真木 (いしいまき) (1936― )作曲家。舞踊家石井漠{ばく}の三男として東京に生まれる。池内友次郎{ともじろう}、伊福部昭{いふくべあきら}に師事。ベルリン国立高等音楽学校作曲科でブラッハーらに師事し、1961年(昭和36)卒業。翌62年帰国し、自作の発表会を行ってデビューした。十二音技法から偶然性の作法まで、西洋の現代音楽から影響を受けたが、音響に焦点をあてた独自の作風をうちたて、とくに東西の出会いの音楽を発表した。70年以後はベルリンと東京の間を往復し、内外で活躍している。主要作品は『四つのバガテレン』(1961)、『打楽器とオーケストラのための響層』(1969)、『遭遇?番』(1971)、『オーケストラのための序』(1974)などである。 <船山 隆>

石芋🔗🔉

石芋 (いしいも) 自然伝説の一つ。「食わず芋」「大師芋」ともいう。固くて食べられない芋の由来を説明する伝説。ある高僧(その半数以上が弘法{こうぼう}大師)の巡錫{じゆんしやく}の途中に、空腹のために芋を所望し、もらえなかったため(恵まれたため)に、その地の芋(ほかの救荒食物も同じ)は煮ても焼いても食べられない(不自由することがない)、という型は、全国に共通している。芋のかわりに蕨{わらび}、菜などがあるほかに、杖{つえ}を挿して根づかせて二度三度実らす(たとえば、弘法栗{ぐり}、三度栗、不喰梨{くわずなし}、半渋柿、弘法柿、石胡桃{くるみ}、莢{さや}ばかりの大豆など)も型は同じ。またこの型は、弘法が水をもらえなかった(恵まれた)ために罰があたって(恩恵によって)泉がない(よい水が湧{わ}く)、という弘法清水{しみず}と同型である。親切な村人と意地悪なそれとの結果の対比は、昔話「隣の爺{じい}」型と同じで、勧善懲悪を説く文芸的意匠が、異郷人歓待の信仰を変化せしめたものである。救荒食物や自然湧出{ゆうしゅつ}水の恩恵者として弘法がもっとも幅をきかしているのは、中世中末期以降に弘法をかたって全国を歩いた高野聖{こうやひじり}の影響や、それに伴う大師信仰の習俗によるものである。 <渡邊昭五>

石井桃子🔗🔉

石井桃子 (いしいももこ) (1907― )児童文学作家。埼玉県浦和に生まれる。日本女子大学卒業後、文芸春秋社勤務のかたわら翻訳に携わる。第二次世界大戦の激化とともに、同社を退き、敗戦直後から宮城県で農業に従事。その経験が『山のトムさん』(1957)に結実した。1950年(昭和25)「岩波少年文庫」の編集に参加、以後多数の世界名作を紹介した。54年退社し、渡米し図書館活動に触れる。帰国後著述、翻訳、文庫活動に専念。代表作に『ノンちゃん雲に乗る』(1947)、『三月ひなの月』(1963)、翻訳には『クマのプーさん』(1940)、『楽しい川べ』(1963)ほか多数の名訳がある。ほかに自伝『幼なものがたり』(1981)、長編小説に『幻の朱{あか}い実』(1994)がある。97年芸術院会員となる。おもな受賞歴は次のとおり。第1回芸術選奨文部大臣賞―『ノンちゃん雲に乗る』(1951)、菊池寛賞(1953)、伊藤忠記念財団第1回子ども文庫功労賞(1984)、芸術院賞(1993)、読売文学賞―『幻の朱い実』(1995)→ノンちゃん雲に乗る <猪熊葉子> 【本】清水真砂子著『石井桃子』(『講座日本児童文学8 日本の児童文学作家3』所収・1973・明治書院) ▽清水真砂子著『使命感と自己解放のあいだで』(『子どもの本の現在』所収・1982・大和書房)

石井‐ランシング協定🔗🔉

石井‐ランシング協定 (いしいらんしんぐきょうてい) 1917年(大正6)11月2日、日本の特派大使石井菊次郎とアメリカの国務長官ランシングR. Lansingの間で交換された公文による共同宣言。要旨は、アメリカ政府は、日本が中国とくに満蒙{まんもう}地方に「特殊な利益」を有することを承認する、日米両国は中国の領土保全、門戸開放、商工業に対する機会均等主義を支持する、というもの。第一次世界大戦中の対日宥和{ゆうわ}政策の一環としてアメリカは、列国の勢力範囲を撤廃して中国の門戸を開放すれば、中国市場に近い日本は有利な地位にたつと説き、石井もこれに賛成であったが、時の寺内正毅{てらうちまさたけ}内閣は、対華二十一か条要求に盛られている日本の特殊権益の承認を協定に含めるよう訓令し、折衝のすえ協定は成立した。しかし、中国はただちに協定に対する抗議を表明し、また日本は政治的な特殊権益をも認められたと解釈したが、アメリカは経済上の関係の承認であるとし、両国の意見は対立した。1922年(大正11)九か国条約が成立すると協定廃棄が提起され、翌23年4月14日、廃棄の交換公文が取り交わされた。 <大森とく子> 【本】外務省編『明治百年史叢書 日本外交年表竝主要文書 上』(1955・原書房)

石井亮一🔗🔉

石井亮一 (いしいりょういち) (1867―1937)社会事業実践家。とくに知的障害児教育に先駆的役割を果たした。佐賀県生まれ。築地{つきじ}立教学校(現立教大学)在学中に受洗、熱心なキリスト教信者となる。立教女学院の教頭となったが、1891年(明治24)の濃尾{のうび}地震に際し、知的障害児を含む孤児二十余名を引き取り、孤女学院を創設、これがのちに日本最初の知的障害児施設滝乃川学園となる。とくに知的障害児の教育に強い関心をもち、アメリカ各地の知的障害児施設を見学し、その処遇方法、教育実践に専念。その成果は『白痴児、その研究および教育』(1904)として刊行。宗教教育と生理学、心理学の科学的方法を知的障害児教育の理論と実践の両面に生かし、また日本精神薄弱児愛護協会の結成など、一生を知的障害児問題に捧{ささ}げた。 <小倉襄二>

石井露月🔗🔉

石井露月 (いしいろげつ) (1873―1928)俳人。本名祐治{ゆうじ}。秋田県河辺郡戸米川村(現雄和{ゆうわ}町)に生まれる。秋田中学中退。上京して正岡子規{しき}の知遇を得、『小日本』『日本』記者となり、俳句に導かれた。子規は河東碧梧桐{かわひがしへきごとう}、高浜虚子{きよし}と並び「警抜」と評した。1898年(明治31)医師試験に合格し帰郷。『俳星』を創刊して日本派を普及、医業のかたわら青年たちを指導した。死後『露月句集』(1931)、文集『蜩{ひぐらし}を聴きつゝ』(1935)が出た。 <福田清人>  秋立つか雲の音聞け山の上 【本】福田清人著『俳人石井露月の生涯』(1949・講談社)

石臼🔗🔉

石臼 (いしうす) ものを破砕、粉化する石製の道具。中石器時代以来、全世界的に穀物、肉類、顔料をつぶすためのくぼみの深い石皿として使われる。日本の縄文時代の石臼は、厚みのある石を鉢状に深くくぼませたもので、堅果{けんか}類の粉砕に使われ、中部山岳地方の中期文化特有のものである。古墳時代の石臼は赤色顔料の精製に用いたものがある。上臼と下臼が対をなし上臼が回転して磨{す}りつぶす挽{ひき}臼は、古代オリエントのロータリーカーンや中国漢代の石磨{せきま}を起源として、日本には奈良時代に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて普及し、五穀を粉にする農民の必需品であった。下臼に受け皿のある小型石臼は茶臼とよばれ、室町時代以来、抹茶{まつちや}生産に使われた。 <十菱駿武> 【本】三輪茂雄著『臼』(1978・法政大学出版局)

石ヶ崎支石墓🔗🔉

石ヶ崎支石墓 (いしがさきしせきぼ) 福岡県前原{まえばる}市所在の弥生{やよい}時代の墳墓遺跡。平野を分断するように突出する標高30メートルの曽根{そね}丘陵の先端に位置する。1949年(昭和24)に調査され、支石墓一基、甕棺墓{かめかんぼ}23基、土壙墓{どこうぼ}三基が検出されたが、ことに支石墓の存在が著名である。支石墓は縄文時代晩期〜弥生時代中期に属する甕棺墓群の中心に位置するが、時期的にはその大部分より遅れて出現したものと考えられる。花崗{かこう}岩製の上石は傾き、下部構造の石室も盗掘のため一部を破壊されている。石室内から碧玉{へきぎょく}製管玉{くだたま}11個を検出。前原地方は支石墓の群集地の西限をなし、しかもそれらは弥生時代前期までに属する。本支石墓は時期的のみならず構造的にも異質であり、支石墓としての性格に再考の余地がある。 <高倉洋彰>

石けり🔗🔉

石けり (いしけり) 外遊びに属する遊戯で、男女の区別なく行われている。日本におけるこの遊びの歴史は古いものではなく、明治の初年に教育的遊戯として導入された。それが、国内に古くからあった片足跳びの技法と結び付いて急速に発達したものと思われる。石けりの石も、最初は自然の石のなかから丸い平たいものを選んでそれを使ったが、明治中期以後はガラス工業が盛んになって丸い色のついた偏平なけり石が、玩具{がんぐ}店で売られるようになり、子供たちの人気を得た。地面に円形や四角形を描いてそこを石をけり進むのであるが、ろう石、白墨なども使われるようになった。  描く図形はいろいろくふうされて相当複雑なものもあるが、円形と四角の形が基本で、これを多少ずつ変化させ複雑化させている。まずもっとも近い区画の中に石を投げ入れ、片足とびで中から外にけり出す、こんな動作を原形として図形を1回りするのであるが、投げ入れる石が線の上にひっかかったり足のほうが線を踏んだりすると、そこでストップとなり、次の順番を待つのが通例で、区画された部分を過ちなく一周すると、それで上がり。この早さを競うのが石けりの遊びである。もう一つの方法としては、地面の上で行う国とりと同じルールで、スケールを大きくして、足で石をけり込んで領土を広げていくという方法もあった。西欧ではキリスト教と結び付けて、人間の魂の進化に例えて、最後に行き着く部分をパラダイスとよんでいる。 <丸山久子>

石越(町)🔗🔉

石越(町) (いしこし) 宮城県北部、登米{とめ}郡にある町。岩手県に接する。1959年(昭和34)町制施行。JR東北本線が通じ、石越駅から鶯沢{うぐいすざわ}町の細倉までくりはら田園鉄道が走る。町の中央を低い丘陵が走り、迫{はさま}川沿いに水田が広がる。新田開発は江戸時代から進められた。江戸中期には仙台藩の家臣蘆名{あしな}氏が居住した。主産業の農業のほか石材業があり、石越石が生産される。人口6713。 <後藤雄二> 【地】5万分の1地形図「若柳{わかやなぎ}」 【本】『石越町史』(1975・石越町)

石衣🔗🔉

石衣 (いしごろも) 掛け物の半生{はんなま}菓子。アズキの漉{こ}し餡{あん}に水飴{みずあめ}を加えて練り、冷却後にマツタケ、ショウロ、繭玉などの姿にこしらえ、砂糖のすり蜜{みつ}を衣にかけて乾燥させる。餡の色が滑らかな糖衣を透かして品よく映り、保存もきく。家庭でも簡単にできるので、昔は駄菓子屋がそれぞれの自家製を商った。駄菓子としての石衣は、掛け物の砂糖も薄く、煮詰めて干し固めるだけの餡には水飴を使わないので舌ざわりが粗く、淡く黒糖の甘味がつけられていた。仙台駄菓子の兎玉{うさぎだま}などにそのおもかげが残っている。 <沢 史生>

石に立つ矢🔗🔉

石に立つ矢 (いしにたつや) 一心を込めて事を行えばかならず成就するとのたとえ。中国楚{そ}の熊渠子{ようきよし}が、一夜、石を虎{とら}と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いたという『韓詩外伝{かんしがいでん}』巻六や、漢の李広{りこう}が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃{やじり}が石に突き刺さって見えなくなったという『史記』「李将軍伝」の故事による。「虎と見て石に立つ矢もあるものをなどか思{おもい}の通らざるべき」の古歌や、「一念(一心)巌{いわ}をも通す」の語もある。 <田所義行>

石の花🔗🔉

石の花 (いしのはな) 旧ソ連の小説家P・バジョーフが故郷ウラル地方の民話伝説をもとに書き上げた『孔雀{くじやく}石の小箱』(1939)のなかの代表的一編で、1943年にスターリン文学賞を受賞した。野山の花の美しさに勝る花を彫り上げたいという願いに取りつかれた若い石工のダニーラが、恋人の懇願や魔女の誘惑を振り切り、ついに壮麗な石の花をつくりあげるというストーリー。幻想と現実が交錯する豊かな詩情と、民族色にあふれることばが魅力的な作品である。プロコフィエフ作曲によるバレエ(『石の花の物語』???? ? ???????? ??????1954)、また映画、オペラ、交響詩としても広く知られている。 <安井侑子> 【本】神西清・池田健太郎訳『石の花他七篇』(角川文庫)

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(こく) 尺貫法の体積の単位。10斗{と}(100升)をいう。180.39リットルにあたる。古代中国の相当する単位は斛{こく}で、石{せき}は質量の単位であったが、日本では固有の単位[_さか](斛)に近いこの石の音を借りてこの文字が用いられるようになった。石はまた船の積量にも用いられ、この場合の1石は10立方尺である。また木材の材積の場合は、縦横各1尺、長さ10尺をいう。→尺貫法 <小泉袈裟勝>

石英🔗🔉

石英 (せきえい) 重要な造岩鉱物の一種。長石類に次いで産出量が多い。石英には高温型と低温型がある。前者は高温石英high-quartzまたはbeta-quartzとよばれ、一気圧では573から870度Cで安定である。六方晶系に属し、柱面がほとんどなく、等価な六つの錐{すい}面からなる両錐状結晶として産することが多い。おもに流紋岩、石英斑{はん}岩など高温でできた酸性火山岩中にみられる。しかし高温石英も常温常圧に置かれると、外形のみそのままで、結晶構造は低温型に転移する。この転移は、高温型と低温型の結晶構造にわずかな違いしかないので容易におこる。したがって現在われわれが手にとってみる石英は鉱物学的にはすべて低温型のものである。低温型は低温石英low-quartzまたはalpha-quartzとよぶ。三方晶系に属するため、6個の錐面は等価でなく、2種類の錐面が一つ置きに並ぶ。また普通、柱面が長く伸びている。結晶形の明らかなものを水晶とよぶ。普通、塊状ないし粒状で、花崗{かこう}岩、流紋岩など酸性火成岩、片麻岩、石英片岩など広域変成岩、砂岩など堆積{たいせき}岩、それらを切る脈と産状は広範囲に及ぶ。色は普通は無色であるが、種々着色したものや異種鉱物を含有するものにいろいろな名称がつけられている。玉髄、めのう、碧玉{へきぎよく}、虎目石{とらめいし}、血石{けつせき}、アベンチュリン、クリソプレースなどのほか、紅、紫、青、黄、黒、煙、鉄などの冠詞をつけてよぶ。鉄石英は微細な赤鉄鉱や針鉄鉱が分散して赤色もしくは黄褐色にみえる。  石英はガラス原料をはじめ各種窯業原料として重要である。また上質のものは装飾品としたり、物性を利用したりすることも多い。石英の多形としては、鱗珪{りんけい}石、クリストバル石、コース石、スティショバイトがある。コーツの英名の由来はあまり明瞭{めいりよう}にわかっていないが、一説にはサクソン語のquerklufterzからきているとされている。このことばは16世紀の初期に鉱山で使われていたもので、金属鉱物が濃集している部分にある交差した石英脈を意味したらしい。ほかに古代スラブ語説、古代高地ゲルマン語説などがある。→水晶 <松原 聰>

石英安山岩🔗🔉

石英安山岩 (せきえいあんざんがん) dacite / quartz-andesite 〔1〕花崗閃緑{かこうせんりよく}岩に相当する化学組成をもつ火山岩。〔2〕石英の斑晶{はんしよう}を含む安山岩。〔1〕と〔2〕の二つの用い方があって紛らわしいので、〔1〕をデイサイトdaciteとよぶほうがよい。デイサイトは安山岩より無水ケイ酸を多く含み、有色鉱物はすこししか含まない。流紋岩とはカリ長石成分と全長石成分の比によって区別され、この比が3分の1以下をデイサイト、それ以上を流紋岩という。デイサイトは一般に灰色で斑状組織を示す。斑晶として斜長石、石英、ホルンブレンド、黒雲母{くろうんも}、磁鉄鉱、ときには橄欖{かんらん}石やざくろ石などを含む。石英の斑晶を含まないこともある。石基はガラス質または結晶質(斜長石、アルカリ長石、シリカ鉱物を主とする)である。島弧や活動的大陸縁辺域に、カルク・アルカリ系列安山岩に伴って産する。→流紋岩 →火成岩 <千葉とき子>

石英ガラス🔗🔉

石英ガラス (せきえいがらす) quartz glass 特殊ガラスの一つで、石英(二酸化ケイ素)だけの単成分からできている硬質ガラス。シリカガラスともいう。不純物の多少によって性能も異なるが、概して熱膨張係数が5〜6×10[▲-7]と小さく、徐冷温度も1140度Cと高いから耐熱性、耐熱衝撃性とも実用ガラス中で頂点にたち、理化学用器として重要である。珪砂{けいさ}または水晶から電気溶融でつくる。前者は微細な気泡のため不透明だが、後者は透明で品質も高い。光通信などに使う超高純度のものは四塩化ケイ素(液体)、モノシラン(気体)などから気相合成でつくられ、光吸収損失の原因となる遷移元素などの不純物含有率が最低10億分の1以下のものまである。光通信用ファイバーは気相合成法の一種の化学蒸着によってつくられることが多い。→ガラス →特殊ガラス <境野照雄>

石英閃緑岩🔗🔉

石英閃緑岩 (せきえいせんりょくがん) quartz diorite 石英を多く(20%以下)含む閃緑岩。カルク・アルカリ系列の安山岩に相当する化学組成で、粗粒で完晶質の火成岩。トナライトとほぼ同義。一般に半自形粒状の組織をもつ。構成鉱物は斜長石(亜灰長石―中性長石)、石英、アルカリ長石、黒雲母{くろうんも}、ホルンブレンド、磁鉄鉱である。アルカリ長石の量は少ない。石英とアルカリ長石は斜長石の結晶の間を埋める形をとることが多い。輝石、チタン鉄鉱、燐灰{りんかい}石、チタン石、ジルコン、褐簾{かつれん}石などを少量含む。カリ長石の量が多くなると花崗{かこう}閃緑岩とよばれる。岩株などの大きな貫入岩体をなして造山帯に産する。 <千葉とき子>

石英粗面岩🔗🔉

石英粗面岩 (せきえいそめんがん) →流紋岩

石英斑岩🔗🔉

石英斑岩 (せきえいはんがん) →斑岩

石臼所🔗🔉

石臼所 (せききゅうしょ) シーチウスオ 中国、山東省南東部にある鎮。臨沂{りんぎ}地区の日照{じつしよう}県に属する。黄海に面しており、沿岸・沿海漁業を中心とする黄海海区の主要漁港である。近年、養殖漁業も発達している。日照の外港でもあり、小麦、ラッカセイなどを集散、北東の青島{チンタオ}への航路がある。 <駒井正一>

石ろう🔗🔉

石ろう (せきろう) →パラフィンろう

石井良助🔗🔉

石井良助 (いしいりょうすけ) (1907―93)法制史学者。東京都生まれ。1930年(昭和5)東京帝国大学法学部を卒業し、同学部助手となり、33年助教授、43年教授となる。48年『日本法制史概説』、53年『日本史概説』、64年『法制史』、72年『日本国家史』などにより、日本の各時代の諸法分野の分析を積み重ねながら、古代から近代に至る法制史を実証的体系的にまとめた。63年東京大学を定年退官し、同大名誉教授。のち新潟大学、専修大学、創価大学の各教授を務める。77年日本学士院会員。84年文化功労者、90年(平成2)文化勲章を受章。著書に『日本相続法』『家と戸籍の歴史』など。93年1月12日没。

石ノ森章太郎🔗🔉

石ノ森章太郎 (いしのもりしょうたろう) (1938―98)漫画家。本名、小野寺章太郎。宮城県生まれ。高校時代に長編漫画『二級天使』を『漫画少年』に発表し注目される。高校時代、手塚治虫{おさむ}のアシスタントも経験。卒業と同時にプロ作家となる。『ジュン』のような一枚絵作品から『おかしなおかしなあの子』のような短編ストーリー漫画、『サイボーグ009』のような長編コミック、さらには200万部の大ベストセラーとなった『マンガ日本経済入門』のような教養漫画まで幅広い分野をこなし、「萬画家」と称した。作品数は単行本だけでも400冊を超えるという。最初、石森章太郎のペンネームを使ったが、1987年(昭和62)より石ノ森章太郎と改めた。92年(平成4)「コミック表現の自由を守る会」代表、94年ストーリー漫画家を中心に結成された団体「マンガジャパン」の世話人代表となる。代表作は『佐武と市捕物控』『仮面ライダー』『ミュータント・サブ』『さんだらぼっち』『幻魔大戦』『リュウの道』『ロボコン』『HOTEL{ホテル}』『マンガ日本の歴史』など。 <清水 勲>

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