オオアブノメ🔗⭐🔉振
オオアブノメ
(おおあぶのめ)
【漢】大虻眼
【学】Gratiola japonica Miq.
ゴマノハグサ科の一年草。茎は太くて柔らかく、高さ10〜25センチ。葉は披針{ひしん}形で全縁。初夏、葉の腋{わき}に無柄の花をつける。花は白色筒状で長さ4、5ミリ。多くは閉鎖花である。?果{さくか}は球形。水田や湿地に生え、本州、九州、朝鮮、中国、ウスリーに分布するが、農薬の影響で日本ではほとんどみられない。この属は北半球の温帯に20種ほど知られ、日本にはカミガモソウが分布する。 <山崎 敬>
大井🔗⭐🔉振
大井
(おおい)
岐阜県恵那{えな}市の中心地区。旧大井町。古くは東山道{とうさんどう}の大井駅、江戸時代には中山道{なかせんどう}の大井宿で知られる。大井宿の町並みは長さ700メートル余り、六か所で折れ曲がっており、西から五番目の角{かど}に本陣があり、いまは正門などが残る。→恵那(市) <上島正徳>
【地】2万5000分の1地形図「恵那」
大井(町)🔗⭐🔉振
大井(町)
(おおい)
埼玉県南部、入間{いるま}郡にある町。1966年(昭和41)町制施行。武蔵野{むさしの}台地の北東部に位置する。東部に東武鉄道東上線が走るが、町内に駅はなく上福岡駅か鶴瀬{つるせ}駅を利用する。中部を国道254号(旧川越{かわごえ}街道)、西部を関越自動車道がほぼ南北に通る。江戸時代は川越街道の宿場としてにぎわった。ニンジン、ゴボウなどの根菜類の産地であったが、最近は東京まで約1時間の距離的関係もあって、工場や住宅の増加が著しい。人口3万9604。 <中山正民>
【地】2万5000分の1地形図「与野」「川越南部」
大井(町)🔗⭐🔉振
大井(町)
(おおい)
神奈川県西部、足柄上{あしがらかみ}郡にある町。1956年(昭和31)相和{そうわ}、金田の二村と曽我{そが}村の一部が合併して町制施行。中世の大井荘{しょう}を中心とする地域なので町名とした。東名高速道路の大井松田インターチェンジがあり、JR御殿場{ごてんば}線、国道255号が通じる。足柄平野の扇頂部と大磯{おおいそ}丘陵の西部にわたり、丘陵には二次林の緑が残されて野鳥が多い。平野部はもともと酒造米で知られる良質の上郡{かみごおり}米の産地として知られ、ナシも特産。丘陵部はミカン、シイタケの産地、酪農地としても知られる。1968年に第一生命の大井町本社が東京都心部から移転して、新旧両町民が相協力、融和しつつ発展に努め、首都圏の新都市づくりの好例となっている。人口1万5599。 <浅香幸雄>
【地】2万5000分の1地形図「小田原北部」「秦野{はだの}」
【本】福武直編著『大井町――地域社会の構造と展開』(1967・地域社会研究所)
大井川🔗⭐🔉振
大井川
(おおいがわ)
静岡県中央部を南流する川。赤石{あかいし}山脈北部の間{あい}ノ岳(3189メートル)に源流をもち、駿河{するが}湾に注ぐ河川で、延長160キロ、流域面積1280平方キロ。島田市と金谷{かなや}町から下流には扇状地を形成するが、流域の大部分は山間地を流れ、峡谷と曲流に特色をもつ。閉塞{へいそく}河川で上流部の二軒小屋から伝付{でんつく}峠を越えて富士川水系へ、三伏{さんぷく}峠を経て天竜川水系への峠路がある。上流域の旧井川村は接阻{せつそ}峡で閉じられたため大日峠を越えて静岡市と結び付き、現在は静岡市に編入されている。支流の寸又{すまた}川も穿入蛇行{せんにゆうだこう}の峡谷をもち、上流のシラビソ、トウヒ、モミなどの原生林は原生自然環境保全地域に指定されている。年降水量も上流部は3000ミリを超えるため森林資源に恵まれ、その開発のため東俣{ひがしまた}線林道が建設されている。また、水資源も豊富で井川、畑薙{はたなぎ}ダムがつくられ電源地帯となり、大井川水系の10発電所の最大出力は約60万キロワットとなった。また、現在も接阻峡近くに長島ダム建設が進められている。開発に伴う鉄道の敷設もみられ、1931年(昭和6)には千頭{せんず}まで大井川鉄道が開設され、54年(昭和29)にはさらに井川まで河川に沿って軌道が延びた。かつての運材は筏{いかだ}流しであり、谷口の島田市は集材や林産加工を中心に発展した。中流の川根{かわね}地方は曲流と河岸段丘の地形に特色をもち、鵜山{うやま}七曲りはその典型である。下流の扇状地は築堤前には洪水と氾濫{はんらん}が繰り返され、水害に対処した舟型屋敷や千貫{せんがん}堤などの堤防が旧河道とともに残り、水神や川除{かわよけ}地蔵の信仰もみられる。東海道の川越えは徒渉であり、島田宿の川会{かわかい}所(島田宿大井川川越遺跡)は国指定史跡として整備されている。
【大井川の渡し】
大井川を渡る東西交通は、古くから徒渉のための渡船や橋の発達はみられず、江戸初期まで「自分越{ご}し」が原則であった。とくに江戸時代には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海道屈指の荒れ川のほかに、関所川でもある難所であった。幕府は防衛政策上、架橋も渡船も禁じた。1696年(元禄9)島田代官野田三郎左衛門のとき、徒渉制度が確立し、川庄屋{かわしようや}、川会所が設けられた。川越しは島田、金谷宿の両岸に配された川越人足によって行われ、肩車と輦台{れんだい}越しがあった。賃金は水深によって決まり、常水は2尺5寸(約75センチ)で、それから1尺(約30センチ)までの増水には馬だけを歩ませ、2尺(約60センチ)増となれば人を止め、2尺以上増水して4尺5寸(135センチ)の水かさになれば川留{かわどめ}となった。しかし、宿助郷や地域村民の不便は大きく、上流部のたらい舟による往復は黙認されていたといわれる。 <北川光雄>
【本】『大井川――その歴史と開発』(1961・中部電力) ▽野本寛一著『大井川――その風土と文化』(1979・静岡新聞社)
大井川(町)🔗⭐🔉振
大井川(町)
(おおいがわ)
静岡県中南部、志太{しだ}郡にある町。大井川下流左岸に位置する。1955年(昭和30)吉永{よしなが}、静浜{しずはま}、相川の三か村が合併して町制施行。国道150号が通じる。大井川の扇状地上にあり、集落の多くは江戸時代以降の開発による。典型的な散村の形態がみられ、洪水に対処するために川の上流部に舳先{へさき}を向けた型の舟型屋敷はこの地方独特のもの。町の東部に航空自衛隊静浜基地があり、パイロットを養成。南部は伏流水を利用した養鰻{ようまん}業が近年まで盛んであったが、現在は工場誘致が積極的に進められている。また、トマト、イチゴ、バラを栽培。サクラエビ、シラス漁業も営まれる。河口左岸に町営大井川港が築港され、地方商工港の役割を果たしている。藤守{ふじもり}の田遊(3月17日)は国指定重要無形民俗文化財。人口2万3152。 <川崎文昭>
【地】2万5000分の1地形図「住吉」
大井憲太郎🔗⭐🔉振
大井憲太郎
(おおいけんたろう)
(1843―1922)自由民権運動の指導者。天保{てんぽう}14年8月10日生まれ。幼名高並彦六。豊前{ぶぜん}国(大分県)宇佐郡高並村に生まれる。1862年(文久2)長崎で蘭学{らんがく}、舎密学{せいみがく}(化学)を学び、66年(慶応2)幕府開成所舎密局の世話心得となる。68年(明治1)箕作麟祥{みつくりりんしよう}の門に入ってフランス学を学ぶ。このとき大井憲太郎と改める。71年兵部省に出仕、73年陸軍省八等出仕、75年元老院法律調査局少書記官に任命されたが、76年辞職。74年の民撰{みんせん}議院設立をめぐる論争に際し、馬城台二郎の筆名で納税者全員に参政権を与えよという急進論を説き、77年に民権思想普及のため講法学社を設立し、また明法社を開く。80年国会期成同盟に加わり、82年には自由党常議員として関東一円に大きな影響力をもった。高田事件、福島事件、加波山{かばさん}事件の弁護士を引き受け、85年には大阪事件の首謀者として逮捕され、88年に懲役9年の刑を受けたが、89年2月憲法発布の大赦で出獄、ただちに大同団結運動に加わり、大同協和会を組織し、90年2月には板垣退助{たいすけ}とともに自由党を再興し、2月立憲自由党に改組して常議員となる。12月『あづま新聞』を創刊。92年2月第2回総選挙で大阪第6区から立候補したが落選、2月自由党を脱党し、11月東洋自由党を結党し、また普選同盟会を結成した。94年3月の第3回総選挙では、大阪第8区で当選し、対外硬派となる。同年9月の選挙で落選したが、98年7月憲政党の総務委員となる。同年8月の選挙にも落選し、11月には憲政本党に所属し総務委員となったが、99年2月には脱退。同年6月大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織したが、1901年(明治34)5月に解散し、05年渡満、病を得て17年(大正6)に帰国。大正11年10月15日死去。著書に『自由略論』『時事要論』などがある。 <後藤 靖>
【本】平野義太郎著『馬城大井憲太郎伝』復刻版(1968・風媒社) ▽『明治文学全集第12巻 大井憲太郎集』(1973・筑摩書房)
大井才太郎🔗⭐🔉振
大井才太郎
(おおいさいたろう)
(1856―1924)電気工学者。三重県出身。1882年(明治15)工部大学校電信科を卒業、工部省電信局に勤務。電話事業開始に際して欧米を視察(1888〜89)、帰国後「電話交換方法大要」を著し、「電話敷設規則」を起草した。90年、東京・横浜電話交換局創設主管として電話事業開始に尽力。東京、大阪の電話交換局長などを経たのち、93年逓信{ていしん}省通信局工務課長として台湾―鹿児島間、壱岐{いき}―対馬{つしま}間の海底電信線敷設工事に浅野応輔{おうすけ}とともに従事、96年第一次電話拡張計画の原案を起草した。日本の電信電話事業の基礎を技術面から築いた。電気学会創立者の1人で、第六代会長を務めた。 <井原 聰>
大井次三郎🔗⭐🔉振
大井次三郎
(おおいじさぶろう)
(1905―77)植物分類学者。東京生まれ。1930年(昭和5)京都帝国大学農学部を卒業。京大講師。第二次世界大戦中はジャワ島のボイテンゾルク植物園に勤務、ジャワ島の植物調査にあたり、戦後は東京の国立科学博物館に勤務した。とくに、種子植物のなかで問題の多いカヤツリグサ科とイネ科の分類を専攻して国際的にも高い評価を受けた。また維管束植物の分類の大系として『日本植物誌』(1953)、『同 シダ篇{へん}』(1957)を完成、これらは英語版も刊行され(1965)、朝日文化賞を受賞した。 <佐藤七郎>
大磯(町)🔗⭐🔉振
大磯(町)
(おおいそ)
神奈川県中南部、中{なか}郡にある町。1889年(明治22)町制施行。1954年(昭和29)国府{こくふ}町と合併。JR東海道本線、国道1号、西湘{せいそう}バイパス、小田原厚木{あつぎ}道路(国道271号)が通じる。相模{さがみ}湾に臨み、大磯丘陵南部の海岸段丘上に発達、海岸は「こゆるぎの磯」とよばれる景勝地。気候は温暖で、湘南でも休養地として最適。古代、中世からの宿駅の地で、近世には東海道の宿場と湊{みなと}を兼ね、人馬の往来と物資の集散地として栄えた。1885年日本最初の海水浴場が開かれてから京浜の別荘地となり、現在は住宅都市。西部の国府には、平安中期に相模国第三次の国府(淘綾{ゆるぎ}の国府)が置かれ、現在毎年5月初め、そこの神揃{かみそろい}山、六所{ろくしょ}神社、大矢場{おおやば}(ともに六所神社の境内)へ相模国の1〜5宮を招いて国府祭{こうのまち}が行われる。県指定の無形民俗文化財。大磯市街地西辺の鴫立{しぎたつ}沢のほとりの鴫立庵は、西行{さいぎょう}を記念したもので、東海道筋きっての歌塾として知られ、いまも歌道研修場となっている。海岸の大磯ロングビーチは近代的レクリエーション施設。また、大磯駅近くには島崎藤村{とうそん}の墓もある。
市内には民俗芸能も多く、左義長{さぎちょう}、船祭(高来{こうらい}神社)、西小磯の歩射{ぶしゃ}(白岩神社)、祇園{ぎおん}祭のバカ踊(祭りばやし)などが有名。東端の高麗{こま}山は山容が美しくて、古くから東海道旅行者の詩文の題、画材などにされ、そこの海岸のもろこし浜は古代に朝鮮半島からきた渡来人の上陸地で、ここから関東各地へ分散した所とされる。人口3万2285。 <浅香幸雄>
【地】5万分の1地形図「平塚」
【本】『大磯町文化史』(1956・大磯町) ▽池田彦三郎著『大磯歴史物語』(1981・グロリヤ出版)
オオイチモンジ🔗⭐🔉振
オオイチモンジ
(おおいちもんじ)
【漢】大一文字蝶
【学】Limenitis populi
poplar admiral / poplar white admiral
昆虫綱鱗翅{りんし}目タテハチョウ科に属するチョウ。ヨーロッパから東アジアの北部にかけて広く分布し、日本では北海道の山地、本州では中部地方、関東地方のおおよそ1000〜2500メートルの標高の高地に産する。はねの開張120ミリ内外。表面は黒褐色で前ばねに数個の白斑{はくはん}、後ろばねには中央を走る白帯がある。裏面では橙色{とうしよく}斑が現れ、表面よりさらに美しい。年1回発生し、6月下旬から8月中旬にみられるが、その最盛期は7月上旬から下旬である。成虫は花を訪れるほか、雄は吸水のために地上に降りることが多い。幼虫の食草はドロノキ、ヤマナラシなどのヤナギ科植物で、三齢幼虫で越冬するが、その際には食草の葉を食い切って長さ10ミリほどの特異の越冬巣をつくり、その中に潜んでいる。 <白水 隆>
大いなる遺産🔗⭐🔉振
大いなる遺産
(おおいなるいさん)
Great Expectations
イギリスの作家ディケンズの長編小説。1861年刊。孤児ピップが物語るその生涯の物語。寂しい田舎{いなか}で義兄夫婦と暮らしているピップに、ある日突然、名を秘した恩人から多額の財産が贈られ、ロンドンに出て紳士になる機会が与えられる。一躍金持ちになったが、世話になった素朴な義兄を恥ずかしく思うような卑しい根性に堕落する。しかし最後に謎{なぞ}の恩人が姿を現し、思いがけぬ劇的な結末を迎える。推理小説のような緊密なプロットと社会批判がみごとに結び付いた名作である。 <小池 滋>
【本】日高八郎訳『世界の文学13 大いなる遺産』(1967・中央公論社)
大いなる幻影🔗⭐🔉振
大いなる幻影
(おおいなるげんえい)
La Grande Illusion
フランス映画。1937年作品。監督ジャン・ルノアール。第一次世界大戦中の実話をもとに脚本家シャルル・スパークの協力を得て、人間の友愛と平等を訴えた作品。フランス軍の大尉(ピエール・フレネー)と中尉(ジャン・ギャバン)が偵察飛行中に撃墜され、ドイツ軍の捕虜となる。捕虜収容所の所長(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)は自分と同じ貴族階級出身の大尉に親近感を抱くが、機械工上がりの中尉は捕虜仲間のユダヤ人銀行家の息子と脱走を企て、大尉の犠牲によりついにそれに成功する。ルノアールは正確でリアルな描写を通じて(フランス語、ドイツ語、英語の併用もその一つ)、国籍、言語、階級、人種などの違いを超えた大きなヒューマニズムを説いた。フランス、アメリカでは公開当時から大成功を収めたが、ファシズム下のドイツ、イタリアでは上映が禁止され、日本でも第二次世界大戦前は公開されなかった。1949年(昭和24)日本公開。 <武田 潔>
大いなる眠り🔗⭐🔉振
大いなる眠り
(おおいなるねむり)
The Big Sleep
アメリカのハードボイルド推理のチャンピオンといわれるR・チャンドラーの小説。1939年作。作者の出世処女作品。娘が脅迫にあっている、始末をつけてほしいと、私立探偵マーローは、名士スタンウッド将軍から依頼を受ける。彼は脅迫者の家を突き止めてそこに行くと、待ち構えていたものは殺人だった。捜査を進めていくうちに、マーローはその裏に上流階級の複雑で、悲劇的な人間関係があるのを知った。推理小説的構成よりも洗練された都会感覚の文体と、しゃれた会話のなかで、人間模様を浮き上がらせている。 <梶 龍雄>
【本】双葉十三郎訳『大いなる眠り』(創元推理文庫)
大井荘🔗⭐🔉振
大井荘
(おおいのしょう)
美濃{みの}国安八{あんぱち}郡にあった東大寺領荘園{しょうえん}。現在の岐阜県大垣市。成立事情は明らかでないが、東大寺は、756年(天平勝宝8)聖武{しょうむ}天皇から施入されたものと伝える。950年(天暦4)ころまでには50町余の田数が注進され、その年貢絹は花厳{けごん}会、法花{ほつけ}会の料足{りようそく}にあてられた。1069年(延久1)の荘園整理の際の国司側の主張によれば、本免田{ほんめんでん}20町にすぎなかったが、鎌倉初期の1214年(建保2)には見作田{げんさくでん}172町余に拡大されている。当荘の発展に力を尽くしたと伝えられる大中臣信清{おおなかとみののぶきよ}の子孫大中臣氏が下司職{げししき}を相伝し、荘官組織の中心となった。同氏は石包名{いしかねみよう}(下司名)69町余を所有し、在地の事実上の支配者であったが、一族の内部分裂により、13世紀の後半に至り没落した。その後は公文{くもん}、田所{たどころ}、下司代による在地支配が南北朝時代まで続いたが、年貢の重圧、守護や在地の武士層による兵粮米{ひようろうまい}・夫役{ぶやく}の賦課、大洪水による損亡などが相次ぎ、多くの農民が逃亡し、年々の未進年貢数百貫と称する事態となった。室町時代に入ると、1423年(応永30)に地下{じげ}農民の逃散{ちょうさん}がおこり、在地土豪大垣氏信{おおがきうじのぶ}、西尾直教{にしおなおのり}などによる代官請負が行われることとなり、東大寺の年貢収納の能力はほぼ完全に解体した。1543年(天文12)に定使{じょうし}行真{ぎょうしん}が在地に下向したが、収納した年貢はわずか30貫文で、東大寺に届けられたのは18貫300文余にすぎなかった。 <小泉宜右>
【本】『岐阜県史 通史編・中世』(1969・岐阜県)
大宇陀(町)🔗⭐🔉振
大宇陀(町)
(おおうだ)
奈良県中東部、宇陀郡にある町。1942年(昭和17)松山町、神戸{かんべ}村、政始{せいし}村、上竜門{りゅうもん}村が合併して成立。町名は将来の発展を願って郡名をとる。竜門山地南東斜面と宇陀山地の西端を占める。中央部の関戸峠で分水し、宇陀川が北流、津風呂{つぶろ}川が南流する。国道166号、370号が交差する。中心の松山は織田{おだ}氏3万石の城下町であったが、1695年(元禄8)以後は天領。松山西口関門(黒門)は国の史跡に指定され、町並みに往時のおもかげを残している。周辺は農山村地域で、野菜の抑制栽培が行われる。松山の西方には『万葉集』に詠まれ天皇の狩場とされた安騎野{あきの}があり、柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}の歌碑が立つ。また江戸幕府直轄の薬草園の森野旧薬園(国指定史跡)がある。吉野クズを特産する。人口9712。 <菊地一郎>
【地】5万分の1地形図「吉野山」
【本】土井実他編『大宇陀町史』(1959・同書刊行会)
【URL】[大宇陀町] http://www.town.ouda.nara.jp/
オオウナギ🔗⭐🔉振
オオウナギ
(おおうなぎ)
【漢】大鰻
【学】Anguilla marmorata
giant eel
硬骨魚綱ウナギ目ウナギ科に属する魚。別名カニクイ。全長2メートルになる熱帯性のウナギで、主としてインド洋から中部太平洋に分布する。日本では黒潮の影響が強い地方にだけ生息し、千葉県利根{とね}川が北限である。静岡、和歌山、長崎、徳島の各県のおもな生息地は国の天然記念物として保護されている。→ウナギ <多部田修>
大浦🔗⭐🔉振
大浦
(おおうら)
山口県北西部、大津郡油谷{ゆや}町の一地区。油谷湾北岸の海女{あま}集落で、九州鐘ヶ崎系の潜水漁法を伝える約100人の海女がいる。向津具{むかつく}半島沿岸から角{つの}島付近までを漁場とし、アワビ、サザエ、ウニなどを採取する。→油谷(町) <三浦 肇>
大浦🔗⭐🔉振
大浦
(おおうら)
長崎市長崎港の東岸にある1地区。1859年(安政6)の開港とともに長崎市街地の南に居留地が設定され、南山手{みなみやまて}町、東山手町などの台地のほか、前面の海を埋め立てて常盤{ときわ}町、小曽根{こぞね}町、松ヶ枝町、大浦町、浪之平{なみのひら}町を居留地とした。この一帯を俗に大浦とよぶ。エキゾチックな情緒の漂う所で、台地に登る石畳やオランダ風の建築物が残り、グラバー邸、オルト邸、リンガー邸の異人館(ともに国指定重要文化財)や、大浦天主堂(国宝)が著名である。→長崎(市) <石井泰義>
【地】2万5000分の1地形図「長崎西南部」
大浦(町)🔗⭐🔉振
大浦(町)
(おおうら)
鹿児島県南西部、川辺{かわなべ}郡にある町。薩摩{さつま}半島南西部に位置する。1961年(昭和36)町制施行。東シナ海に面し、西は野間{のま}半島、北東に吹上浜{ふきあげはま}が続く。江戸時代、加世田郷の一部であった。北部に広がる大浦干拓地は第二次世界大戦中、食糧増産の必要から着手されたもので、戦後農林省直営の事業として65年に完成した。住民の半数以上が農業に従事する純農村。おもに米、茶、ポンカンを栽培するほか、ブタや肉牛などの畜産も盛んである。県無形民俗文化財に指定された疱瘡{ほうそう}踊は毎年2月に行われる。過疎地で人口3236。 <平岡昭利>
【地】2万5000分の1地形図「野間岳」「加世田」
大浦兼武🔗⭐🔉振
大浦兼武
(おおうらかねたけ)
(1850―1918)明治〜大正時代の官僚政治家。子爵。薩摩{さつま}藩出身。戊辰{ぼしん}戦争に従軍後、東京府邏卒{らそつ}小頭となり、以後警察官僚の道を歩む。台湾出兵、西南戦争にも従軍、1882年(明治15)大阪府警部長となり、大阪事件の関係者逮捕に手腕を発揮した。88年内相山県有朋{やまがたありとも}に抜擢{ばってき}され警保局次長となり、92年の選挙大干渉では民党弾圧にあたった。島根、山口、熊本、宮城各県の知事を歴任、98年に第二次山県内閣の警視総監、1901年(明治34)第一次桂{かつら}太郎内閣の警視総監、さらに03年には逓{てい}相に転じ、鉄道国有法案の立案や京釜{けいふ}鉄道の速成を図った。さらに08年第二次桂内閣の農商務大臣としては帝国農会の設立や工場法の成立に努めた。この間、山県直系の官僚として政党工作に辣腕{らつわん}を振るい、官僚派政党である大同倶楽部や中央倶楽部を支援して、立憲政友会に対抗させた。12年(大正1)には第三次桂内閣の内相となり、立憲同志会の創立にも参画した。14年第二次大隈重信{おおくましげのぶ}内閣に農商務相として入閣、さらに15年内相に転じて選挙干渉を指揮して与党を大勝させたが、前年に増師案実現のため議員買収を図った事実が発覚、7月内相を辞任するとともに政界を引退した。 <宇野俊一>
【本】香川悦次・松井広吉編『大浦兼武伝』(1921・博文館)
大浦慶🔗⭐🔉振
大浦慶
(おおうらけい)
(1828―84)幕末・維新期の女性貿易商で日本茶輸出の開拓者。肥前国(長崎県)生まれ。オランダ通詞品川藤十郎の紹介で、出島{でじま}在留のオランダ人テキストルに肥前嬉野{うれしの}茶の販路開拓をもちかけた。1853年(嘉永6)ついにトランクに身を隠して国外脱出に成功、清{しん}国上海{シャンハイ}に渡り製茶・交易法を学び、帰国後、日本茶の輸出を実現させた。多くの利益を得たが、坂本龍馬{りようま}、高杉晋作{しんさく}らの幕末の志士に援助を惜しまなかったことでも知られている。 <加藤 章>
大浦天主堂🔗⭐🔉振
大浦天主堂
(おおうらてんしゅどう)
長崎市南山手{みなみやまて}町に残るカトリック教会堂。1864年(元治1)フランス人宣教師フューレは、大浦にフランス人居留民のための教会堂を建立し、翌年2月、長崎で殉教した日本二十六聖人に献{ささ}げた。大浦天主堂は当時、俗にフランス寺とよばれた。創建当時は三基の塔をもつゴシックとバロックの混合様式であったが、75年(明治8)改造され、塔は中央の一基のみとなった。開国当初の洋風建築、ことにゴシック様式建造物としてはもっとも古いものである。
1865年(慶応1)三月、浦上{うらかみ}村民の一団が大浦天主堂にプチジャン司教を訪ね、カトリックの信者であることを告白した。これが「信徒発見」とよばれる歴史的事件である。大浦天主堂は、実に250年間のキリシタン弾圧に耐えてひそかに信仰を守り続けてきた潜伏キリシタンが復活した記念の地となった。1945年(昭和20)原爆のために破損し、52年補修再建された。33年に引き続き、53年二度目の国宝指定を受けている。 <宮崎賢太郎>
【本】桐敷真次郎著『大浦天主堂』(1968・中央公論美術出版) ▽村松貞次郎・片岡弥吉監修『長崎の天主堂』(1977・技報堂出版)
大浦半島🔗⭐🔉振
大浦半島
(おおうらはんとう)
京都府北東部、若狭{わかさ}湾に向かって北に突出する半島。西側に舞鶴{まいづる}湾、東側に内浦湾が湾入し、北東端に成生{なりう}岬が突き出ている。山地が大部分で、平地に乏しい。沿岸は急崖{きゆうがい}をなし、海岸美に富み、若狭湾国定公園に含まれる。北岸には冬季、若狭湾を還流する海流にのってブリが回遊し、田井、成生などの漁村ではブリ定置網漁業が行われる。 <織田武雄>
【地】5万分の1地形図「丹後由良{たんごゆら}」
オオカマス🔗⭐🔉振
オオカマス
(おおかます)
【漢】大?・大?
【学】Sphyraena jello
barracuda
硬骨魚綱スズキ目カマス科に属する海水魚。体長は2メートルに達して細長く、頭はとがる。背びれは二基で小さい。前鰓蓋{さいがい}骨の後下縁は丸くて下方に曲がるのが特徴である。琉球{りゅうきゅう}諸島以南、西太平洋、インド洋に分布している。塩焼きなど食用にされる。→カマス <落合 明>
大雲取山🔗⭐🔉振
大雲取山
(おおくもとりやま)
和歌山県南部、新宮{しんぐう}市、那智勝浦{なちかつうら}町、熊野川町にまたがる山。那智山の北側に連なる山塊の総称で、最高965.7メートル。第三紀熊野酸性岩からなり、熊野川の支流赤木{あかぎ}川から北を小雲取{こぐもとり}山という。那智山と熊野本宮を結ぶ熊野街道中辺路{なかへじ}が通り、大雲取越{ごえ}、小雲取越の険路として知られ、峰高く雲をとらえるようなので雲取と称したという。現在参詣{さんけい}者は通らないが、古道として保存されている。 <小池洋一>
【地】2万5000分の1地形図「紀伊大野」
オオジャコガイ🔗⭐🔉振
オオジャコガイ
(おおじゃこがい)
【漢】大??貝
【学】Tridacna gigas
giant clam
軟体動物門二枚貝綱シャコガイ科の二枚貝。二枚貝類のなかで最大となり、殻長1.4メートル、重量230キロに達する。沖縄以南の西太平洋サンゴ礁の潮間帯から水深30メートルぐらいの所に腹縁を上に向けてすんでいる。殻は横長の扇形で、殻表には数本の太い放射肋{ろく}があり、腹縁はそれに従って大きく波打っている。殻表は灰白色で斑紋{はんもん}はなく、成長脈も粗い。幼若期には足糸があるが、老成したものにはない。外套膜{がいとうまく}縁に共生性の単細胞藻類ズーサンテラZooxantellaを寄生させているため、外套膜がカラフルな点は他のシャコガイ類と同様である。肉量は多く、閉殻筋などは食べられる。また殻は深く巨大なため、産地では水盤などの調度に利用されている。 <奥谷喬司>
オオニベ🔗⭐🔉振
オオニベ
(おおにべ)
【漢】大?
【学】Nibea japonica
giant croaker / Japanese croaker
硬骨魚綱スズキ目ニベ科の海水魚の一種。名のとおりニベ類中最大種で、全長130センチ、体重25キロを超す大形魚も珍しくない。→ニベ <谷口順彦>
オオハサミムシ🔗⭐🔉振
オオハサミムシ
(おおはさみむし)
【漢】大??・大鋏虫
【学】Labidura riparia
昆虫綱ハサミムシ目オオハサミムシ科の昆虫。世界各地に分布し、日本では河原や海岸の石やごみの下などにみられる。体長25〜30ミリで、体は赤褐色ないし暗褐色、とくに後頭部や左右の前ばねの合わせ目付近は赤みが強い。後ろばねは乳白色、短翅{たんし}と長翅の二型がある。尾端のはさみは左右相称で、雄のはさみの内縁中央付近に歯が1個ある。 <山崎柄根>
オオハネガイ🔗⭐🔉振
オオハネガイ
(おおはねがい)
【漢】大羽貝
【学】Acesta goliath
軟体動物門二枚貝綱ミノガイ科の二枚貝。大形種で、殻長12センチ、殻高17センチに達する縦長の卵形、左右がやや膨らんでいる。殻は薄質、黄白色で光沢が強く、弱い成長脈がある。前縁は直線的で狭い足糸開口があり、前耳は後耳に比べ著しく小さい。両殻片はかみ合わせ(?板{こうばん})の中央にある大きい靱帯{じんたい}によって連結している。本州の東北地方以南から、西南日本にかけての水深200〜1000メートルぐらいの海底にすんでいる。なお日本海側には、近縁で細い放射肋{ろく}があるスミスハネガイA. smithiがすむ。 <奥谷喬司>
大引け🔗⭐🔉振
大引け
(おおびけ)
(1)遊廓{ゆうかく}で妓楼{ぎろう}がその日の営業を終了すること、またその時刻。1657年(明暦3)に焼失後、江戸・日本橋から移転した新吉原{よしわら}(台東{たいとう}区千束{せんぞく})では、六つ(午後6時)から四つ(午後10時)までの夜間営業が許され、四つには規定どおり大門を閉めたが、張見世(娼妓{しようぎ}が店先で客を待つこと)は九つ(午後12時)の引けまで行われて、くぐり門を通行することが黙認された。それ以後も営業する場合は、九つを中引けというのに対し終業時を大引けとよび、店や季節により午前1時または午前2時のことが多かった。(2)市場用語の大引けは、証券取引所や商品取引所での午前と午後のそれぞれ最後の立会い(取引)をいう。 <佐藤農人>
大みそか🔗⭐🔉振
大みそか
(おおみそか)
大晦日と書く。年越{としこし}、大つごもり、大年{おおとし}などともいい、1年の最後の日。今日では、商家でも一般家庭でも、新年を迎える準備に忙しいが、本来、1日が夕方から始まるという思想から考えると、この日の夕方からは、新年を意味するものであった。大みそかの夜は正式な食事をするものだといい、これをオセチとよんでいる地方もある。セチは正式な食事のことであるから、この夜の食事が1年中でもっとも重要な食事とみなされていたのである。「年越そばは他所{よそ}で食べるな」とか「年越をともにしない者はあてにならない」といわれるのも、新年を迎える、すなわち新しい生命力を身につけるとき、一族一家がともにいなければならぬと信じていたからである。東北地方では、この夜ミタマノメシといって握り飯12個(閏{うるう}年は13個)に箸{はし}を立てて箕{み}に入れ、仏壇や神棚の下に供えた。これは先祖祭りを意味するもので、大みそかが新しい年を迎える日であるとともに、祖霊祭であったことを示している。「大年の客」といって、昔話のなかに、この夜訪れてくる人々のいる話があるが、これも新しい年をもたらしてくれる来訪神の存在を伝えるもので、この夜が他のみそかと異なり、1年の境という意識だったことを表している。全国の寺院ではこの夜、除夜の鐘といって108回鐘をつき、百八つの煩悩{ぼんのう}を覚醒{かくせい}するためといわれているが、一般家庭ではこの鐘を新年を迎える合図にしている。長崎県五島では鶏の鳴き声を年の境としたというが、寺院の鐘より古風な習俗であろう。 <鎌田久子>
【西洋】
敬虔{けいけん}なクリスマスに対し、欧米各国では大みそかの夜は、にぎやかなダンス・パーティーが行われる。パリやベルリンでは、12時の鐘とともにだれとキスしてもよい。また、静かにこの日を過ごす所も多い。オーストリアやスイスの一部では、頭にヤドリギの冠をのせた醜い者が、若者や娘に乱暴なキスをする。この仮装人物は12時になると、モミの枝で家の外に追い出される。一般には古い年の悪霊は、鉄砲、ホルンとか、花火、爆竹といった大きい音で追い出される。この日は年迎えも行われ、いまでも南ドイツなどでは、若者や子供が家々を回って歌い、新年を迎える。ポーランドでは夕食に鯉{こい}を食べ、うろこを財布に入れて新年の幸運を願う。このように、この日の食べ物や飲み物が決まっている地方もある。また、タマネギを12個に切り、その湿りぐあいによって新年の天候を占ったり、粥{かゆ}を皿に移すときの形によって結婚の運勢を占う所もある。 <飯豊道男>
【本】植田重雄著『ヨーロッパ歳時記』(岩波新書) ▽谷口幸男・遠藤紀勝著『仮面と祝祭』(1982・三省堂)
大安殿🔗⭐🔉振
大安殿
(おおやすみどの)
飛鳥{あすか}・奈良時代の宮城(大内裏)にあった重要な殿舎。「おおあんどの」とも読む。しかし具体的な殿舎の姿はあまりよくわからず、685年(天武14)飛鳥浄御原宮{きよみはらのみや}で初めて記録に現れ、文武{もんむ}天皇の藤原宮、聖武{しょうむ}天皇の難波宮{なにわのみや}、恭仁宮{くにのみや}、紫香楽宮{しがらきのみや}、および平城宮にみえ、孝謙{こうけん}天皇の754年(天平勝宝6)を最後に、それ以後は記事がみえなくなる。天皇が出御{しゆつぎよ}して正月の踏歌の宴、斎会{さいえ}、朝賀などの儀式が行われた。本居宣長{もとおりのりなが}らは、大極殿の和風の名称であろうとの説をたてたが、その後史料の検討の結果、大極殿とは別の殿舎であることが判明した。行われた行事の重要さからみて、内裏の正殿(平安宮の紫宸殿{ししんでん}にあたる)とする説もあったが、現在では、大極殿院の一郭にあり、大極殿に匹敵する公的な儀式の場となりうる殿舎ではないかと考えられている。 <吉田早苗>
オオヨシキリ🔗⭐🔉振
オオヨシキリ
(おおよしきり)
【漢】大葦切
【学】Acrocephalus arundinaceus
great reed warbler
鳥綱スズメ目ヒタキ科ウグイス亜科の鳥。コヨシキリとともに単にヨシキリとよばれることがある。全長約18センチ。上面は淡い褐色、下面は黄白色。淡い眉斑{びはん}がある。ユーラシアの温帯、アフリカ北部、日本で繁殖、冬は南へ渡る。アシの茎に巣をかけ、4個から6個ぐらいの淡い青緑色地に褐色の斑のある卵を産む。昆虫を捕食し、ギョギョシ、ギョギョシ、カイカイシと大きな声でさえずる。 <竹下信雄>
大悪党🔗⭐🔉振
大悪党
(だいあくとう)
Historia del gran taca?o
スペインの作家ケベードの長編小説。正式の題名を『放浪児の手本、大悪党の鏡、ドン・パブロスとよばれる騙{かた}りの生涯』というピカレスク(悪漢)小説。出版は1626年だが、1603年ころの起筆と思われる。床屋で泥棒の子に生まれたパブロスが、貴族の子弟の従者、ならず者、役者、乞食{こじき}などの生活を経験したすえ、新しい生活を求めてアメリカ渡航を考えるまでの話が、ことば遊びと奇想に満ちた文体で描かれている。ピカレスク小説としてはもっとも完成度の高い作品の一つ。主人公の語る遍歴談は同種の作品に比べて、きわめて冷笑的でペシミスチックである。 <桑名一博>
【本】桑名一博訳『大悪党』(『世界文学全集6 悪漢小説集』所収・1979・集英社)
大アジア主義🔗⭐🔉振
大アジア主義
(だいあじあしゅぎ)
アジア諸民族の連帯・団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗し、新しいアジアを築こうという思想と運動。アジア主義、汎{はん}アジア主義とほぼ同義に用いられ、〔1〕日本の大アジア主義の系譜、〔2〕孫文の大亜州主義、〔3〕ネルーの第三勢力論の三類型がある。
日本の大アジア主義は、ともに西洋列強の圧迫下にあるアジア諸民族との連帯論とアジア大陸への膨張侵略論が交錯しながら展開した。アジア連帯論は民権左派から発し、西洋列強への共同防衛のため日韓両国の対等合邦を説いた樽井藤吉{たるいとうきち}の大東合邦論、国内立憲政治樹立と朝鮮改革の結合を企図した大井憲太郎らの大阪事件が代表例であるが、自由民権運動衰退のもとで民権論から国権論への傾斜を強めたことは否めず、この傾斜を鋭角的に示したのが玄洋社であり、国権拡張主義的アジア主義を鮮明にしたのが黒竜会である。黒竜会の綱領には天皇主義、海外への発展が掲げられ、日本を盟主としたアジア大陸保全論を導出した。しかし、内田良平が日韓合邦論者であり、フィリピン独立運動や中国革命運動に関与するなど一方的な侵略主義とはいえない面もあった。
天皇制国家の確立と帝国主義的侵略の本格化のもとで、宮崎滔天{とうてん}は孫文の中国革命を終始一貫した同情と犠牲的精神をもって支援し、「アジアは一つ」と唱えた岡倉天心は人間の本性たる美の破壊者として西洋帝国主義を批判し、日本、中国、インドとその多様性を認めつつ西洋とは異質のアジア文明を称揚しロマン主義的アジア連帯論を唱えた。しかし、大アジア主義の大勢は日本主義や皇道主義と結び付き、右翼団体に担われた独善的な連帯論となり、日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序、大東亜共栄圏の思想となっていった。
このように政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギーになった大アジア主義を、中国革命勢力は、吸収主義であると痛烈に批判、李大?{りたいしょう}はアジア諸民族の解放と平等な連合によるアジア大連邦の結成を説き、孫文は西洋の覇道主義に対して東洋文化は仁義道徳に基づく王道主義であるとし、アジア諸民族はこの主義のもとに一致団結して植民地化に抵抗し独立を全うするよう大亜州主義を唱えた。
第二次世界大戦後には、インドのネルー首相が中立主義・第三勢力論を提唱、米ソ両陣営の対立激化のもとで、アジア諸民族はいずれの陣営にも偏らず、国連安全保障理事会の権威を高めながら独立を守り、世界政治の安定勢力としての役割を果たすよう訴えたが、南北問題に象徴されるような経済的自立と発展の方策など大きな試練に直面することになった。 <和田 守>
【本】「日本のアジア主義」(『竹内好全集 第八巻』所収・1980・筑摩書房)
大安🔗⭐🔉振
大安
(たいあん)
陰陽道{おんみようどう}の六曜日の一つ。この日は旅立ち、移転、開店、契約など万事に吉日とされ、六曜の最良の日としていまも婚礼などにこの日を選ぶ人が多い。旧暦1月と7月の5・11・17・23・29日、2月と8月の4・10・16・22・28日、3月と9月の3・9・15・21・27日、4月と10月の2・8・14・20・26日、5月と11月の1・7・13・19・25日、6月と12月の6・12・18・24・みそか。 <井之口章次>
大安(町)🔗⭐🔉振
大安(町)
(だいあん)
三重県北部、員弁{いなべ}郡にある町。員弁川中流右岸に位置する。1959年(昭和34)梅戸井{うめどい}町と三里{みさと}村が合併して成立。63年石加{いしか}村を編入。町名は古代、奈良の大安寺領であったことに由来する。西は鈴鹿{すずか}山脈で、竜ヶ岳(1100メートル)の山麓{さんろく}から宇賀{うが}川が流れ、その扇状地、段丘、河谷平野は水田地帯となっている。町の東端を三岐{さんぎ}鉄道が貫き、四日市{よっかいち}市富田{とみだ}へ通じる。また国道306号、365号、421号も走る。近年、住宅化、工業化が進み、82年には従業員数5000人を目標とする日本電装大安製作所が立地した。町の西部は鈴鹿国定公園の一部で宇賀渓がある。人口1万4873。 <伊藤達雄>
【地】2万5000分の1地形図「阿下喜{あげき}」「菰野{こもの}」「竜ヶ岳」
大安寺🔗⭐🔉振
大安寺
(だいあんじ)
奈良市大安寺町にある高野山{こうやさん}真言{しんごん}宗の別格本山。南都七大寺のうち東大寺に次ぐ大寺で、古来、百済大寺{くだらおおでら}(百済寺)、大官大寺{だいかんたいじ}、大寺{おおでら}、南大寺{なんだいじ}とも称せられた。現在は癌{がん}封じの寺としても知られる。617年(推古天皇25)に聖徳太子の発願{ほつがん}により、平群{へぐり}郡熊凝{くまごり}村(大和郡山{やまとこおりやま}市)に一宇を建立し熊凝精舎と称したのがその初めと伝える。639年(舒明天皇11)に百済{くだら}川のほとりに移り百済大寺と称したが、やがて火災にあい、以後修復に努め、673年(天武天皇2)伽藍{がらん}を高市{たけち}郡に移し、高市大寺{たけちのおおでら}と称し、さらにのちに大官大寺と改めた。710年(和銅3)の平城遷都とともに当寺も新都の左京六条四坊に移された。平安前期に編まれた『続日本紀{しょくにほんぎ}』に当寺のことが記されている。718年(養老2)に唐から帰朝した道慈{どうじ}はここで三論{さんろん}宗を講説し、721年(養老5)には行基{ぎょうき}が100人の僧を度した。815年(弘仁6)最澄{さいちょう}は当寺において天台を講じ、829年(天長6)空海が別当に補された。当寺は三論・成実{じょうじつ}・華厳{けごん}・律{りつ}の諸宗を兼学したが、とくに三論宗の根本道場として重きをなし、その所伝を大安寺流という。壮大な伽藍配置は大安寺式とよばれるが、数次の火災などにより鎌倉期以後は衰退し、わずかに残っていた金堂も延享{えんきょう}年間(1744〜48)崩壊した。1889年(明治22)橿原{かしはら}神宮造営に際し、当寺の礎石の大部分が運び去られて荒廃したが、1912年(大正1)に至ってようやく堂舎再建の運びとなり、現在の堂宇が建てられた。本堂には秘仏十一面観世音菩薩{かんぜおんぼさつ}像が安置され、嘶{いななき}堂には秘仏千手観音{せんじゅかんのん}立像(馬頭{ばとう}観音像とも)、収蔵庫(讃仰殿{さんごうでん})には不空羂索{ふくうけんさく}観音立像、楊柳{ようりゅう}観音立像、聖{しょう}観音立像各一体、および四天王立像(以上いずれも国の重要文化財)を蔵している。これらは日本彫刻史上、大安寺様式と称せられ、いずれも天平{てんぴょう}末期から平安初期につくられた一木造の貴重な遺品である。なお当寺には空海が将来したと伝える周尺が保存されていて、古来これを大安寺尺と称している。寺の南約1キロの所に大安寺の塔跡がある。→百済寺 <祖父江章子>
大安寺🔗⭐🔉振
大安寺
(だいあんじ)
大阪府堺{さかい}市南旅籠{みなみはたご}町にある臨済{りんざい}宗東福寺派の寺。山号は布金山。本尊は釈迦如来{しゃかにょらい}。1394年(応永1)聖一{しょういち}国師円爾弁円{えんにべんえん}五世の法孫である徳秀士蔭{とくしゅうしいん}によって開かれた。本堂(国の重要文化財)はもと堺の豪商納屋助左衛門{なやすけざえもん}の書院と伝え、七宝{しっぽう}をちりばめ華美を尽くした結構を戦国時代の武将松永久秀{ひさひで}が見て驚き、「物は満つれば欠けるもの」といって刀で切りつけた跡をそのまま残している。内部には西湖{せいこ}図の襖{ふすま}4枚、同貼壁{はりかべ}3か所があり、また腰高障子は金沙{きんしゃ}、あるいは金箔{きんぱく}を押したもので、狩野元信{かのうもとのぶ}の筆。藤{ふじ}の図、枝添松{えだそえまつ}の図、檜{ひのき}の図、猿猴{えんこう}の図、梅の図、鶴{つる}の図などの絵襖は金箔押し。障壁画76面が国重要文化財に指定されている。 <菅沼 晃>
大アンティル諸島🔗⭐🔉振
大アンティル諸島
(だいあんてぃるしょとう)
Greater Antilles
西インド諸島の西部および中部を占める諸島。メキシコ湾湾口から東方へ約2000キロにわたって連なり、小アンティル諸島に続く。キューバ島、イスパニョーラ島、ジャマイカ島、プエルト・リコ島とその付属島からなる。地質的にはキューバ島の大部分が石灰岩台地からなり、他の島にはグアテマラから続く高峻{こうしゆん}な山脈が東西に連なり、火山島の小島の多い小アンティル諸島とは対照的である。1492年のコロンブスの新大陸発見以後、スペインのラテンアメリカ征服の根拠地となり、17世紀からはイギリス、フランス、19世紀にはアメリカが進出して、黒人奴隷を使ったプランテーションを開拓した。そのため住民は黒人が多く、言語、文化、宗教もきわめて多様な社会を形成し、先住民のインディオはほとんどみられない。主要産物はモノカルチュアを基礎とする輸出用農産物で、サトウキビ、コーヒー、タバコ、バナナが中心となっている。 <栗原尚子>
大威徳明王🔗⭐🔉振
大威徳明王
(だいいとくみょうおう)
五大明王の一つ。西方に配する。八大明王の一尊でもある。サンスクリット語でヤマーンタカyam?ntaka(閻曼徳迦威怒王)という。現図{げんず}両界曼荼羅{まんだら}の胎蔵{たいぞう}界では持明{じみょう}院に配する。像容は六面六臂{ぴ}六足で水牛に乗じ、三つ目で髑髏{どくろ}を瓔珞{ようらく}とする。『勝軍{しょうぐん}大威徳明王法』では戦勝を祈願する。唐招提{とうしょうだい}寺蔵の画像は水牛の背上に立つ異形。牛伏{ごふく}寺(長野県)、石馬{いしば}寺(滋賀県)には独尊の彫像がある。→五大明王 <真鍋俊照>
大尉の娘🔗⭐🔉振
大尉の娘
(たいいのむすめ)
ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年発表。プーシキンは18世紀に起こったプガチョフの反乱(1773〜75)に深い関心を抱いて熱心に研究したが、その研究の文学的成果がこの作品である。プガチョフ事件を背景に、要塞{ようさい}司令官ミロノフ大尉の娘マリヤ、士官グリニョフとシバーブリン、そして当のプガチョフらをめぐるさまざまの事件がグリニョフの手記の形で描かれる。イギリスの作家W・スコット流の歴史小説と近代的な家庭小説とがみごとに融合している。文体は簡潔かつ正確で、プーシキンの散文作品の代表作の名に恥じない。また、プガチョフを極悪人としてでなく、きわめて人間的な、多分に同情に値する人間として描いたことも特筆される。 <木村彰一>
【本】『大尉の娘』(中村白葉訳・新潮文庫/神西清訳・岩波文庫)
大院君🔗⭐🔉振
大院君
(だいいんくん)
(1820―98)李{り}氏朝鮮第26代王高宗の父で政治家。姓名は李?応{りしおう}。1863年、第25代王哲宗が死ぬと、哲宗に実子がなかったので、自分の第2子を高宗として即位させた。国王に直系の王位継承者がないとき、王族内から次の王を選ぶが、大院君とは、その王の実父の尊称。固有名詞ではないが、今日では一般に李?応をさす。大院君自らは摂政{せつしよう}として政権を握り、解体しつつあった封建体制を建て直し、王朝の危機を打開しようとした。まず60年続いた外戚{がいせき}安東金氏の勢道{せどう}政治を廃し、広く人材を登用する一方、47か所の賜額書院を除いて、党争の根源となっていた書院を撤廃し、「六典{りくてん}条例」「大典会通」などを刊行して法律制度の確立を図るなど、中央集権的な政治機構を樹立した。さらに備辺司{びへんし}を廃止して行政権と軍事権を分離する一方、税制の改革にも着手、農民の負担を軽くし、国庫の充実をも図ろうとした。しかし同時に、李王家の威厳を誇示するために、炎上したままになっていた景福宮の再建に着手、不足な財源を調達するために願納銭を強制し、民衆の生活苦を加重させた。また外国に対しては徹底した鎖国政策をとり、キリスト教徒には大弾圧を加えた。66年、アメリカの商船シャーマン号が大同江をさかのぼって侵入したのを撃退。さらに同年9月、「キリスト教徒弾圧への復報」を名目としたフランス艦隊の江華島侵入をも撃退した。全国に「斥和碑{せきわひ}」を立て、ますます鎖国を強化した。
しかし大院君によって権力を奪われた両班{ヤンバン}勢力は、高宗の妃である閔{びん}妃を中心に結集。1873年には国王親政を名目に、大院君から政権を奪い、閔妃一族が権力を握り、以後両者の対立は深まった。82年、壬午{じんご}軍乱で一時権力を握ったが、閔妃の策動で清{しん}国軍が出動し、清国から派遣された馬建忠らによって捕らえられ、天津{てんしん}保定府に4年間幽閉された。85年帰国し、雲?{うんけん}宮に蟄居{ちつきよ}して再起の機会をうかがっていたが、95年閔妃が殺害されると、日本公使三浦梧楼{ごろう}の後押しで政権を掌握した。しかし、すでに彼の政治的使命は終わっており、日本の傀儡{かいらい}にすぎず、三浦の召還で大院君も隠退した。高宗は大院君の葬儀にも出席しないほど父子関係は悪化したまま終わった。 <宮田節子>
大雲院🔗⭐🔉振
大雲院
(だいうんいん)
京都市下京{しもぎょう}区寺町通四条下ルにある浄土系の単立寺院。龍池{りゅうち}山と号する。本能寺の変によって討たれた織田信長とその嫡子{ちゃくし}信忠{のぶただ}の供養のため、正親町{おおぎまち}天皇より御池御所を賜り、かねてより信長の帰依{きえ}を得ていた貞安{ていあん}を開山として、1587年(天正15)に創建された。大雲院は信忠の戒名である。その後豊臣{とよとみ}秀吉により現在地に移建。境内には信忠塔や石川五右衛門{ごえもん}の墓があり、正親町帝宸翰{しんかん}、前田玄以{げんい}画像(以上は国重要文化財)などの寺宝を蔵する。 <森 章司>
大運河🔗⭐🔉振
大運河
(だいうんが)
万里の長城とともに旧中国の残した二大土木事業といわれ、南の経済圏と北の政治圏とをつなぎ歴代王朝の基盤を養った重要施設。戦国時代以来、諸王朝が、西から東へ流れる黄河、淮水{わいすい}、揚子江{ようすこう}の本流・支流を巧みにつなぎ、深くさらって、営々としてつくりあげた大水道。現在の北京{ペキン}と浙江{せっこう}省杭州{こうしゅう}を結ぶ総延長おおよそ1800キロ。
まず、紀元前5世紀、江蘇{こうそ}省淮安{わいあん}付近と揚州付近とで、淮水と揚子江とを連絡する?溝{かんこう}が開かれ、約1世紀後に河南省?陽{けいよう}付近から黄河を分流し、開封{かいほう}を過ぎ淮水に至る古?河{こべんが}が開かれた。これらはおもに軍糧輸送を目的としたが、漢代からは租税収入の一部(漕糧{そうりょう})を首都へ運ぶために用いられ、漕運{そううん}という制度がつくられた。三国から南北朝時代(3〜6世紀)には江南の開発が進み、その経済力は江北をしのいだので、589年全国を統一した隋{ずい}は、江南の経済力を首都に結び付け、加えて旧南北両朝勢力を交流融和させるために、運河を全国的視野にたって整備した。初め、584年西安と黄河との間に広通渠{こうつうきょ}(富民渠)、587年淮安―揚州間に山陽涜{さんようとく}(?溝の改修)、605年黄河畔の河陰から開封、商邱{しょうきゅう}を経て宿遷付近で淮水に至る通済渠{つうせいきょ}、610年儀徴の対岸から蘇州を過ぎ杭州に至り、揚子江と銭塘{せんとう}江とを連ねる江南河を開き、この四河によって江南と関中(陝西{せんせい})とを直結した。この間、608年高句麗{こうくり}征討の軍糧輸送のため永済渠(衛河の改修)を開いたので、黄河畔から北京への路もでき、ついに杭州―北京間が水路で結ばれた。いわゆる大運河はこうしてできあがった。
この大事業を完成したのは隋の煬帝{ようだい}である。しかし、このために重税、苛役{かえき}を課せられ、兵役に駆り立てられた農民が反抗し、隋はその後10年にして滅んだ。煬帝は人君の資に欠けると酷評されるが、大陸における経済の重心が江南に移動した大変動期に、300年にわたる南北抗争を終結統一する政治課題を解決するため大運河を完成させたことの歴史的意義は大きい。唐が華麗な文化を創造し、史上まれな盛時を現出したのは、大運河が内外の交通に大きな活力を与え、海港に連なってイスラム商人を迎えるなど、シルク・ロードにはるかに勝る機能を発揮したためである。
宋{そう}代には、黄河水運の難所である三門峡の険を避け、大運河に連なる南海貿易の隆盛に対応するため、首都を?京{べんけい}(開封)に移し、通済渠を改修して?河と改称し、江南からの距離を短縮したので、漕糧の輸送額は、唐代の年間約300万石(一石は約60リットル)よりも、100万〜200万石も多かった。
元{げん}以後、首都は大都(北京)となり、江南からは北東へ遠く離れた。そこで元は、初め御河{ぎょか}(永済河)を利用したが、迂回{うかい}が甚だしく、ついで淮河と大清河とをつなぐ済州河{さいしゅうか}、大清河と御河とを結ぶ会通河{かいつうか}を開いて、大運河を東方寄りのルートに短縮した。しかし舟行困難のため、運河輸送をいっさい断念、上海{シャンハイ}付近から天津{てんしん}に至る海上輸送によらざるをえなかった。明{みん}代には、元代の会通河の改修に成功し、1411年、ほぼいまみるような大運河が機能を発揮し、年400万石(一石は約170リットル)の漕糧を安定的に輸送し続け、清{しん}代もこれによった。しかし、20世紀初め汽船、汽車による輸送の発達によって本来の役割は終わった。
1911年の辛亥{しんがい}革命後の国内の混乱もあって運河の復旧は行われず、また河道の変化もあり、現在は不通となっている部分が多い。しかし、全面復旧の計画もあり、また1949年の解放後の改修により3000トン級の汽船の航行可能な部分もあり、部分的には水運に利用され、また農業用水としても利用されている。→漕運 <星 斌夫>
【本】星斌夫著『大運河』(1971・近藤出版社) ▽同著『大運河発展史』(平凡社・東洋文庫)
大雲寺🔗⭐🔉振
大雲寺
(だいうんじ)
中国唐代、則天武后{そくてんぶこう}によって設置された仏教寺院。大雲経寺ともいう。『長安志』第10巻によれば、隋{ずい}の584年(開皇4)に文帝が僧法経{ほうきよう}をしてこの寺を建てさせた。ところが、延興寺の僧曇延{どんえん}が蝋燭{ろうそく}の炎を自然に発火させるという不思議な業を行ったので、文帝はこれを奇とし、この寺の名を光明寺{こうみようじ}と改めさせた。武大后のときこの寺の沙門宣政{しやもんせんせい}が『大雲経』を進上したが、経のなかに「女主之符」(まじないの文字)があったので寺名を大雲経寺と再度改めて、690年(載初1)10月天下の州ごとに大雲経寺を置いたという。日本でも奈良時代に国分寺が全国に設置されたが、これを模したとするものもある。
なお、大雲寺は、実はウイグルのマニ教徒の寺院であるとする説もあるが、強い異論もある。→マニ教 <加藤 武>
【本】松本清張著『清張通史6 寧楽』(1983・講談社) ▽鎌田茂雄著『中国仏教の寺と歴史』(1983・大法輪閣)
大雲寺🔗⭐🔉振
大雲寺
(だいうんじ)
京都市左京区岩倉上蔵{あぐら}町にある単立寺院。もとは天台宗寺門派。山号は紫雲山{しうんざん}。俗称を岩倉観音{かんのん}という。本尊は十一面観音。971年(天禄2)円融{えんゆう}天皇の勅により日野中納言{ちゅうなごん}文範が真覚{しんがく}を開山として建立。その後、寺運甚だ盛んで、993年(正暦4)に叡山{えいざん}で円珍・円仁{えんにん}の両門徒が争った際、余慶{よけい}はじめ円珍の門徒1000人が山を下って当寺に住し、僧房を建てて三塔に分かれた。その後も天台宗寺門派の中心寺院として栄えたが、天文{てんぶん}年間(1532〜55)兵火のために炎上した。1633年(寛永10)実相院門跡{もんぜき}義尊{ぎそん}がこれを再興し、以後実相院の兼務所となって今日に至る。金色の本尊十一面観音像は行基{ぎょうき}の作という。ほかに天安{てんあん}二年(858)八月の銘がある梵鐘{ぼんしょう}(国宝)一口が伝わる。 <平井俊榮>
大栄(町)🔗⭐🔉振
大栄(町)
(たいえい)
千葉県北部、下総{しもうさ}台地上の香取{かとり}郡にある町。1955年(昭和30)昭栄{しょうえい}村と大須賀{おおすが}村が合併して町制施行。町名は旧村から一字ずつとった合成地名である。台地を大須賀川が刻み、畑地と水田が展開する。国道51号が町を横断するほか、東関東自動車道のインターチェンジがある。国道51号から東総有料道路が発して栗源{くりもと}町、山田町方面と結ぶ。中世、千葉氏の一族大須賀氏が松子{まつこ}城を築いたが、江戸時代に佐倉藩堀田{ほった}氏の領地と旗本領、町与力の給知が錯綜{さくそう}し、6〜7給に及ぶ村もあった。町域の南半分は幕府の放牧地・矢作{やはぎ}牧であり、十余三{とよみ}地区は明治末期に開拓された。農業就業者が過半数を占め、野菜・いも類の栽培、米作、養豚などの複合経営が行われる。南西部は新東京国際空港(成田)に接するため、臨空型の工業団地が造成され、空港関連の企業が進出している。吉岡の大慈恩寺を中心とする森林は歴史の森公園となっており、同寺の梵鐘{ぼんしょう}と宝物類73点は県指定有形文化財。人口1万2877。 <山村順次>
【地】2万5000分の1地形図「佐原西部」「新東京国際空港」
【URL】[大栄町] http://www.portland.ne.jp/~taiei/
大映(株)🔗⭐🔉振
大映(株)
(だいえい)
映画会社。1942年(昭和17)、戦時下の映画産業統合案により、日活(製作部門のみ)、新興、大都の三社が合併、大日本映画製作株式会社として発足。翌年から菊池寛{きくちかん}を初代社長に迎え、当時の時代劇四大スター、阪東{ばんどう}妻三郎、片岡千恵蔵{ちえぞう}、嵐寛寿郎{あらしかんじゅうろう}、市川右太衛門{うたえもん}を擁し、男性的色彩の強い作品を製作した。第二次世界大戦後、大映株式会社と改称、自主配給を始めたが、直営館をもたない悩みは最後までついて回った。47年(昭和22)から永田雅一{まさいち}が社長となり、一時はGHQの時代劇製作制限で苦境にたったが、探偵活劇や母もの映画などのヒットで乗り切り、51年には『羅生門{らしょうもん}』がベネチア映画祭でグランプリを受賞したのをはじめ、溝口健二監督作品などが海外で受賞し、日本映画を広く海外に認識させた。61年には日本最初の70ミリ大作『釈迦{しゃか}』を発表して話題をよび、長谷川一夫{はせがわかずお}の「銭形{ぜにがた}平次」、市川雷蔵の「眠{ねむり}狂四郎」、勝新太郎の「座頭市{ざとういち}」シリーズなどの安定した興行作品もあったが、71年12月、映画界の不況により倒産。その後、労働組合による東京・多摩川と京都・太秦{うずまさ}の撮影所の維持などで大映の名は残り、75年から不定期に自主製作を再開したが、配給は他社に依存している。 <長崎 一>
【URL】[大映HOMEPAGE] http://www.daiei.tokuma.com/
大栄(町)🔗⭐🔉振
大栄(町)
(だいえい)
鳥取県中央部、東伯{とうはく}郡にある町。1955年(昭和30)大誠{たいせい}、栄{さかえ}の二村が合併して成立。59年由良{ゆら}町と合併。JR山陰本線、国道9号が通じる。北は日本海に臨み、南部は大山東麓{だいせんとうろく}の丘陵地。北流する由良川中流域の六尾{むつお}、島{しま}はかつては沼沢地であったが、江戸中期の干拓で水田化した。河口の由良は江戸時代に鳥取藩の藩倉が置かれ、港町として発達した。1863年(文久3)築造の砲台場跡を残す。六尾には幕末に瀬戸{せと}の大庄屋{おおじょうや}武信{たけのぶ}一家が築いた反射炉跡がある。北条{ほうじょう}砂丘は人工灌漑{かんがい}による砂丘ナガイモや葉タバコ、ブドウの集団産地で、南部の畑地帯は大山スイカの栽培中心地。東高尾{ひがしたかお}の観音{かんのん}寺には千手観音立像、十一面観音立像(ともに国の重要文化財)のほか多くの仏像を蔵する。人口9416。 <岩永 實>
【地】2万5000分の1地形図「倉吉{くらよし}」「伯耆浦安{ほうきうらやす}」
【本】『大栄町誌』(1980・大栄町)
【URL】[大栄町] http://www.apionet.or.jp/daieicho/
大カフカス山脈🔗⭐🔉振
大カフカス山脈
(だいかふかすさんみゃく)
ロシア連邦南西部とグルジア、アゼルバイジャン両共和国にまたがり、黒海とカスピ海の間を走る大山脈。日本では一般にカフカス山脈といえば大カフカス山脈をさす。→カフカス山脈
大?🔗⭐🔉振
大?
(たいきん)
テーグム
朝鮮の伝統的楽器で、竹製の横笛。『三国史記』に中?、小?とともに記載された新羅三竹{しらぎさんちく}の一つで、三国時代(4〜7世紀中期)からすでに存在していた。長さ約80センチ、径約3センチ、吹口{ふきぐち}と6個の指孔のほか、管端に七星孔という音律調律用の穴が数個ある。また、指孔と吹口の間に清孔とよばれる穴があり、ここに竹紙(タケやアシの内皮膜)を貼{は}る。二オクターブ半の音域をもち、低音域の音色は柔らかく荘重、高音域は竹紙の微妙な振動により、澄んだ多様な音色を出す。正楽{せいがく}(広義の雅楽)大?と、制度は同じで筒音{つつね}が長二度高い民俗楽用の散調{さんじょう}大?の2種があり、器楽合奏、歌曲や舞踊の伴奏、また独奏楽器としても広く用いられている。 <志村哲男>
大サンディー砂漠🔗⭐🔉振
大サンディー砂漠
(だいさんでぃーさばく)
→グレート・サンディー砂漠
大サン・ベルナール峠🔗⭐🔉振
大サン・ベルナール峠
(だいさんべるなーるとうげ)
→グラン・サン・ベルナール峠
大スンダ列島🔗⭐🔉振
大スンダ列島
(だいすんだれっとう)
Greater Sunda Islands
インドネシア、スンダ列島西半部の列島。スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェシ島およびその付属島からなる。面積133万4000平方キロ。アルプス造山帯に属するスマトラ、ジャワ両島と、環太平洋造山帯に属するスラウェシ島には多数の火山がそびえる。これらに対してスンダ海棚{かいほう}上のボルネオ島は、地盤の安定した島で、新期の火山は存在しない。農産物、林産物、地下資源などに富む。 <上野福男>
大セルビア主義🔗⭐🔉振
大セルビア主義
(だいせるびあしゅぎ)
第一次世界大戦前のバルカンにおける民族主義の一つ。セルビア公国の政治家ガラシャニンIlija Gara?anin(1812―74)は、1844年にセルビア外交政策の指針として「ナチェルターニエ」Na?ertanijeを発表した。このなかで、「セルビアの使命は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国に対する南スラブ人の民族解放闘争の準備をし、率先してそれを進めることだ」と説いた。この考えが大セルビア主義の基礎となる。1904年にセルビア王国の首班となったパシチは、外交方針としてセルビア人の居住する地域すべての統一を掲げ、大セルビア主義的政策を推進した。このため、ハプスブルク帝国内のセルビア人にも多大な影響を与え、セルビアとオーストリアとの対立関係を強めた。そして、両国の対立は、第一次世界大戦の直接的な原因となった。 <柴 宜弘>
大ドイツ主義🔗⭐🔉振
大ドイツ主義
(だいどいつしゅぎ)
Gro?deutschtum ドイツ語
19世紀なかば、オーストリアを中心としてドイツの政治的統一を実現しようとした立場。当時なお30余の領邦諸国家に分裂していたドイツでは、一刻も早く統一を実現し、近代的国民国家に脱皮することが焦眉{しょうび}の課題であった。その際、統一の方法をめぐって、大ドイツ主義と小ドイツ主義とが対立した。前者は、旧神聖ローマ帝国の栄光をとどめるオーストリアを盟主として中欧に大ドイツ連邦を建設しようとし、後者は、オーストリアを除外し、プロイセンの指導を主張するものであった。しかし、多民族国家として多くの民族の独立運動を内包し、すでに崩壊の危機に瀕{ひん}していたオーストリアにとって、ドイツの国民的統一運動を指導する大ドイツ主義の実現は、事実上不可能に近く、「一八四八年の革命」(三月革命)に際してドイツ統一問題を審議したフランクフルト国民議会では、小ドイツ派の現実路線が多数を制した。60年代に入ってからも、大ドイツ主義は、プロイセンの専横に反感をもつ南西ドイツ諸邦の間で根強い支持を得ていたが、66年のプロイセン・オーストリア戦争でプロイセンが圧勝したことにより、終止符を打たれた。→小ドイツ主義 <良知 力>
大ブリテン王国🔗⭐🔉振
大ブリテン王国
(だいぶりてんおうこく)
→グレート・ブリテン王国
大ブリテン島🔗⭐🔉振
大ブリテン島
(だいぶりてんとう)
→グレート・ブリテン島
大?口文化🔗⭐🔉振
大?口文化
(だいぶんこうぶんか)
紀元前四千年紀から前二千年紀の間、黄河下流域で栄えた中国新石器時代晩期の文化。山東省泰安{たいあん}市大?口鎮と寧陽{ねいよう}県堡頭{ほとう}村にまたがる大?口遺跡の墓葬を標式とする文化で、竜山{りゅうざん}文化に先だち仰韶{ぎょうしょう}文化より新しい。1950年代初期にすでにこの文化の遺跡は発見されていたが、竜山文化との類似性から、その位置づけが定まらず、60年代になって山東竜山文化とは別系統の文化とされ、続いて70年代後半に入って、山東竜山文化は大?口文化を継承したものであることが確認された。この文化は山東省中部を中心に山東半島および江蘇{こうそ}省北部と河南省の一部にも分布し、山東竜山文化の分布と完全に重なっている。大?口遺跡では、仰臥{ぎょうが}伸展葬を中心に成人男女合葬がみられ、また抜歯、頭骨の人工変形や墓にブタの頭骨の供献、手に獣牙{じゅうが}を持ち腰部に亀甲{きっこう}を置く埋葬が注目されている。
この文化は早・中・晩期の三段階に区分されており、早期と晩期では社会的発展に顕著な差違がみられる。早期の墓葬は、小さな竪穴土壙{たてあなどこう}墓が中心で副葬品も少ない。土器は手作りを主とする紅陶{こうとう}が大多数を占める。中期の墓は、中型・大型の土壙墓と木槨{もっかく}墓が登場し、規模と構造上の差と副葬品の量的差違が顕著となる。晩期になると大型墓はたいてい木槨を使用し、大量の土器のほかに玉{ぎょく}・トルコ石製品、精巧な彫刻のある象牙{ぞうげ}製品の副葬やブタの頭骨の供献などが特定の墓葬に限られ、社会階層に不平等が発生して、貧富の差が生じたことを示している。また、土器も紅陶が少なくなり黒陶や灰陶が増加し、ろくろの使用が始まって、土器製作における専業化がかなり進行していることをうかがわせる。彩陶は早期から存在するが、全体からみると各段階の出土は少なく、晩期には特定の墓葬にのみ限られ、最後には消失してしまう。江蘇省北部に分布する青蓮岡{せいれんこう}文化の江北類型の文化内容は、大?口文化のそれと基本的に一致するものが多く、大?口文化に帰属させる見解が有力である。 <横田禎昭>
大ベルト海峡🔗⭐🔉振
大ベルト海峡
(だいべるとかいきょう)
Store B?lt
デンマークの海峡。シェラン島とローラン島に対し、フュン島とランゲラン島の前に横たわる海峡をさし、カテガット海峡とバルト海を結ぶ海域をいう。フュン島西岸の小ベルト海峡に対応する。長さ約115キロメートル、幅11〜35キロメートル。バルト海への航路として戦略的に重要な位置を占める。デンマーク国内ではコアセア―ニューボー間などのもっとも重要なフェリー連絡航路がある。1998年には、グレートベルト橋(フュン島−シェラン島6.8キロメートル、吊橋{つりばし}1624メートル、明石{あかし}海峡大橋に次いで世界で二番目)が開通、2000年夏には人工島を経由してトンネルと吊橋で、コペンハーゲンとスウェーデンのマルメを結ぶ橋(全長16キロメートル)も開通する。→小ベルト海峡 <村井誠人>
大モラビア国🔗⭐🔉振
大モラビア国
(だいもらびあこく)
Velkomoravsk? ???e チェコ語
9世紀前半、フランク王国に臣従していた西スラブ人が独立してつくった大国。その版図は現在のチェコ、スロバキアを中心に、ハンガリー、ポーランドの一部を含んだ。第2代の王ロスティスラフRostislav(在位846〜870)の治世がとくに有名で、ローマ教会支配に伴う西方からの侵略を防止するために、ビザンツ(ビザンティン帝国)との同盟を考え、ビザンツ教会の布教を懇請し、テッサロニキの高僧キリル(コンスタンティノス)、メトディオスの兄弟を招いた。その後さらに領土を拡大したが、強大化を恐れたフランク王国がハンガリーと結んで干渉したため、9世紀末から衰え始め、10世紀初頭にはハンガリー人の攻撃で滅亡した。→コンスタンティノス →スロバキア →チェコ →ビザンティン帝国 →フランク王国 →メトディオス <稲野 強>
大ルーマニア主義🔗⭐🔉振
大ルーマニア主義
(だいるーまにあしゅぎ)
Rom?nia Mare ルーマニア語
Greater Rumania 英語
ルーマニア人の居住する全地域を国家的に統合せよという主張。ルーマニア人国家モルダビア、ワラキアはトルコに従属したが、ワラキアのミハイ勇敢王(在位1593〜1601)はトルコ支配を離脱し、モルダビアなどを併合、後の大ルーマニア主義の原型をつくった。その後これらの地はすべてトルコとハンガリーに支配されたが、ルーマニアの政治家は大ルーマニアの再現を夢み続けた。第一次世界大戦前後にルーマニアはトランシルバニア、ベッサラビア、ブコビナ、南ドブルジア、東バナートを併合し、その夢を実現したが、少数民族が人口の4分の1に達し、近隣民族からの圧力に苦しんだ。 <木戸 蓊>
大ロンドン🔗⭐🔉振
大ロンドン
(だいろんどん)
Greater London
イギリスの首都ロンドン33区(The City and 32 boroughs=区)全体をさす名称。1888年に誕生したロンドン州London County(現在のInner London)に、新たに都市化が進んだ周辺大都市圏(現在のOuter London)を加え、1965年に創設されたロンドン大都市圏33区全体を統括する自治体の広域行政が及ぶ範囲に相当する。しかし広域自治体そのものは、86年サッチャー保守党政権の地方行政効率化政策により廃止された。ただし行政区としての名称は存続している。ところで、労働党政権復活翌年の98年5月に実施された住民投票で約4分の3の賛成を得たのを受けて、20世紀中に大ロンドンを統括する広域自治体が再登場することになった。なお新しい自治体の首長は公選される予定。従来は自治体議会の議長が首長を兼任していた。これを東京に例えれば、各区市役所と各町村役場の上に都庁を復活させるのに似る。面積1616平方キロメートル、人口696万(1994)、人口密度1平方キロメートル当り4307人(東京都は面積2187平方キロメートル、人口1177万、人口密度1平方キロメートル当り5382人、1996年)。→ロンドン <久保田武>
大宇グループ🔗⭐🔉振
大宇グループ
(だいうぐるーぷ)
デウ
Daewoo group
韓国の巨大企業グループ。大宇財閥を構成していた。現代グループ、三星グループと並んで韓国三大企業グループの一つに数えられていたが、1999年7月、財政悪化のため事実上解体した。
1967年、大邱{たいきゅう/テグ}出身の金宇中{きんうちゅう/キムウジュン}(1936― )が従業員数5人でスタートした大宇実業Daewoo Industrial Co., Ltd.が大宇グループの第一歩で、68年に最初の繊維プラントを釜山{ふざん/プサン}に建設。繊維の加工・貿易が経営の中心で、75年、総合商社として政府から指定を受け、76年には新しく大宇重工業を設立、78年には大宇造船重機が政府の要請に応じて造船業に進出し、国内の船舶建造量の30%を占めるに至った。
この大宇グループの躍進の背景には、創業者と同じ慶尚道{けいしょうどう/キョンサンド}出身で開発独裁政権の典型といわれ、「漢江の奇跡」とよばれる高度成長政策を推し進めた朴正煕{ぼくせいき/パクチョンヒ}政権との緊密な連携関係があった。
グループは、1982年に大宇実業がグループの建設部門を合併して株式会社大宇Daewoo Corp.と改称し、グループの親会社としての態勢を整えたころから発展の第2期を迎え、韓国経済が金融破綻{はたん}に見舞われた97年時点で、世界65か国に計93の現地法人を設立し、380件以上の投資プロジェクトを手がけていた。
1990年代中盤まで順調な経済成長を遂げた韓国経済であったが、財閥企業の過剰な規模拡大や設備投資による外債の膨張に加え、おりからの東南アジアの経済危機にも直撃され、97年10月、ついに金融破綻{はたん}に直面した。その後政府は国際通貨基金(IMF)などから支援を受け、当面の危機は脱した。しかし98年2月、経済再建をスローガンに発足した金大中{きんだいちゅう/キムデジュン}政権は、それまでの政経癒着の体質にメスを入れ、財閥系のものを含め、業績不振の銀行や企業の整理・統合の方針を打ち出した。
現代グループや三星グループに比べて歴史の浅い大宇グループは、急激な拡大路線によって成長を遂げてきたが、そのため負債額も増大し、1999年4月には59兆ウォンにまで膨らんだ。またリストラクチャリングによる企業財政の改善も思うように進まず、ついに同年7月、韓国の金融監督委員会は大宇グループについて系列会社の売却などを債権銀行団が主導して進めることを決め、グループは事実上解体されることとなった。
解体前の1998年のグループの売上げは重化学・電子70%、土木・建築10%、海外建設6%、その他14%で、売上高は36兆8940億ウォン(305億4650万ドル)であった。
【大宇証券】
英語表記はDaewoo Securities Co., Ltd.。大宇証券は、大宇グループ系列最大の証券会社で韓国を代表する金融機関であった。1970年の設立。97年3月の営業総収入3529億7600万ウォン(2億9000万ドル)に及んだが通貨危機で赤字に転落した。99年7月のグループの解体後は、債権銀行団がグループから大宇証券の株式を買い取り、さらにその株式を売却する方針が打ち出された。
【大宇自動車】
英語表記はDaewoo Motor Co., Ltd.。韓国の大手自動車メーカーであった大宇自動車は、1972年にGM社との折半出資で設立された。92年に業績悪化でGMが撤退、商用車部門を大宇重工業に移し大宇グループの単独経営となった。98年の資本金3546億7000万ウォン(2億9400万ドル)、従業員数1万7129人であった。グループ解体後は、国際入札による同社の売却が計画されており、2000年2月現在、アメリカのGM、フォード、ドイツのダイムラー・クライスラー、イタリアのフィアット、韓国の現代自動車の5社が入札参加を表明している。
【大宇重工業】
英語表記はDaewoo Heavy Industries Co., Ltd.。造船、自動車、建設重機械、鉄道車両工作機械などを手がける大手総合メーカーであった。設立は1976年。96年の売上高は5兆1485億1300万ウォン(42億6300万ドル)。グループ解体後の2000年1月、国内債権団が海外債権団のもつ同社の債権を買い取り、債務処理を進めることが決められた。
【大宇電子】
英語表記Daewoo Electronics Co., Ltd.。大宇電子は、大手総合家電メーカーで、創業は1972年。大宇グループの主力会社であった。96年時点で、大宇自動車の37%、大宇重工業の30%、大宇開発の39%の株式を保有していた。96年の売上高は3兆5700億ウォン(29億6000万ドル)。グループ解体後は、大宇重工業と同じく、2000年1月に国内債権団によって海外債権の買い取り交渉が合意され、債務処理の前進がみられた。→開発独裁 →現代グループ →三星グループ →朴正煕 <上川孝夫>
【URL】[Daewoo Corporation(朝鮮語・英語)] http://www.dwc.co.kr/
大イスラエル主義🔗⭐🔉振
大イスラエル主義
(だいいすらえるしゅぎ)
離散したユダヤ民族がユダヤ国家を建設して復興と存続を目ざすシオニズムのなかで、社会主義シオニズムに対し、「エレツ・イスラエル」(イスラエルの土地)を最重要視する非主流派、修正シオニズムの流れ。1920年代にウラジミール・ヤボチンスキーによって組織化され、当時はヨルダン川東岸(現在のヨルダン)を含むユダヤ国家の建国を目ざした。31年にヤボチンスキーらが設立した民族武装組織イルグンは、彼の死後、第二次世界大戦中からメナヘム・ベギン(後の首相)を指導者として反イギリス独立闘争を展開した。
イスラエル建国後のイルグンの後継政党や右派政党が1973年に結成したリクードのほか、ヨルダン川西岸への入植地建設を支持する諸勢力が大イスラエル主義の流れを汲{く}む。基本的には和平交渉で占領地返還や領土的妥協を拒むが、現状では占領地問題についてある程度の妥協もやむをえないとする現実派からいっさいの妥協を拒否する強硬派まで幅がある。95年11月のラビン首相暗殺は、宗教的大イスラエル主義の過激派の青年による犯行であった。96年5月、イスラエル初の首相直接選挙で労働党のペレスを破って誕生したネタニヤフ首相はリクード内でも右派といわれる。ネタニヤフ政権の強硬な姿勢がパレスチナやアラブ諸国の反発と不信を募らせ、アメリカ政府内ですら批判の声があがるなど、和平交渉が停滞する一因ともなっている。 <勝又郁子>
大リーグ🔗⭐🔉振
大リーグ
(だいりーぐ)
Major League
アメリカのプロ野球における最上位のリーグ。ナショナル・リーグ(1876年創設)とアメリカン・リーグ(1900年創設)で構成される。
【プロチーム誕生までの歴史】
1845年、ニューヨークの技師アレクサンダー・カートライトによって、初めて塁間距離27.44メートル、9イニング攻守交代など、現在のゲームの原型となる野球規則が制定された。そして、そのカートライトが最初の野球チーム、ニッカーボッカー野球クラブを結成、翌46年6月19日にニュージャージー州ホボーケンのエリジアン・フィールドで初めて野球規則に基づいて試合を行い、大いに人気を博した。
その後、初の野球記者ヘンリー・チャドウィックがボックススコアを考案し、新聞に野球コラムを掲載した。それによって、野球のプレーに興味をもつ人がしだいに増え、チーム数も急増していった。試合ごとに多くの観衆が入場するのをみてとり、球団関係者はゲームに必要な経費を観客に入場料として課し、球場施設を完備し、よい野球用具を用意し、選手たちに給料を支払えば、さらにすばらしい試合をみせることができるのではないかと考えた。当時、すでに一般大衆は野球のゲーム観戦に喜んで入場料を支払うほど、ゲームの魅力に取りつかれていた。
こうして、1869年に最初のプロ野球チームとして、シンシナティ・レッドストッキングスが誕生。かつてニッカーボッカー野球クラブに所属し、母国イギリスではクリケットの名選手だったハリー・ライトが監督兼中堅手になった。最初の年にレッドストッキングスは全米各地へ遠征に出かけ、地元のアマチュア野球チームと対戦、翌70年にかけて69連勝と無敵の強さを誇った。その後、レッドストッキングスは財政上の理由から解散したが、その無類の強さが引き金となって各都市にプロ野球チームが急増していった。
【大リーグ創設】
1871年には最初のプロ野球リーグ、ナショナル・アソシエーションが9球団で創設された。同リーグは、もめ事や不正事件などのためわずか5年で消滅したが、大衆の野球への愛着と時代の要請とは、優良なプロ野球チームのためにリーグ結成を求めてやまなかった。こうして、76年2月にニューヨークなど大都市を背景として、フランチャイズ制度による新しいプロ野球リーグ、ナショナル・リーグ(ナ・リーグ)が誕生した。ナ・リーグは8球団で構成され、それによって取り残された球団はインターナショナル・リーグ、アメリカン・アソシエーションなどを結成した。これらがマイナー・リーグの元祖であるが、ナ・リーグの実力と権威は他のリーグを引き離し、ついに大リーグとよばれるようになった。
【2リーグ制スタート】
さらにナ・リーグに対抗すべく、92年に元新聞記者のバン・ジョンソンが中心となり、当時レッドストッキングスの監督を務めていたチャールズ・コミスキーらの協力を得て、ウェスタン・リーグを結成。当時はマイナー・リーグの一つにすぎなかったが、ナ・リーグと同じようにアメリカ東部の都市に本拠地を設け、1900年に名称もアメリカン・リーグ(ア・リーグ)と改めた。それによって、前年まで12球団で組織されていたナ・リーグが8球団に戻り、新興のア・リーグも8球団でスタート。ここに2大リーグ時代を迎えた。
ア・リーグの創設にあたって、最初のうちナ・リーグはまったく協調せず、また主力選手たちも引き抜かれたため、大リーグ球界は混乱した。しかし、ア・リーグの発展をみるにつけ、結局両リーグは争いの愚を悟り、共存の道をとるようになった。その結果、1903年にナショナル・コミッションができ、両リーグから委員が選ばれ、球界一般の指針となるような諸規則や申合せを決定したので、野球界は安定的に発展するための基礎を得た。また、シーズン終了後に両リーグの優勝チームどうしが対戦し、真の優勝チームを決めるワールド・シリーズが実現した。後年、全米で人気を集める一大イベントに発展した発端であり、05年以来毎年シリーズが開催されるようになった
ナ・リーグ創設当時は、強豪チームのほとんど全部がその傘下に集まっていたが、後にア・リーグが組織されるに及んで、大都市に本拠をもち、名実ともに備わったチームのすべてが両リーグに集中し、取り残された他球団は実際に実力が低いものとなってしまった。両リーグ以外のマイナー・リーグはアメリカの中小都市に本拠を置き、実力順にAAA、AA、A、B、C、Dの6階級に分かれ、その後AAA、AA、A、ルーキー・リーグの4階級に縮小された。
【名プレーヤーの登場】
アメリカで野球が「ナショナル・パスタイム」(国民的娯楽)とよばれ、大リーグがアメリカ最大のプロスポーツとして発展するまでには、さまざまなできごとがあった。
まず、1919年にワールド・シリーズで八百長事件が起こった。その年、ワールド・シリーズはシカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズの対戦となり、ア・リーグ優勝のホワイトソックスが圧倒的に有利といわれた。しかし、意外にもナ・リーグ優勝のレッズに3勝5敗で敗退した(1919〜21年は9回戦制で実施)。後にケネソー・マウンテン・ランディス初代コミッショナーが調査した結果、ホワイトソックスのシューレス・ジョー・ジャクソン外野手をはじめ、主力8選手が八百長事件に関与したとして、球界から永久追放処分を受けた。世にいう「ブラックソックス事件」である。
この大リーグ史上最大の汚点ともいうべき事件によって、アメリカの国民的娯楽であるはずの大リーグは社会的な信用を失い、観客動員数も激減していった。しかし、その名誉を回復させたのが、のちに国民的ヒーローとなるベーブ・ルースだった。20年にボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、ピッチャーから打者へ転向した。それ以来、ルースは豪快なホームランを量産し、それまで飛ばないボールの時代には見たこともない大きな打球にファンは熱狂し、大リーグは華やかになり、黄金時代を迎えることになった。
第二次世界大戦が終わって、47年に大リーグ史上初の黒人選手として、ジャッキー・ロビンソンが登場した。彼がブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースの選手として人種の壁を破ったことによって、それまで社会の底辺で苦しい生活を続けていた人々に大きな勇気を与えた。これによって大リーグは黒人選手たちに門戸を開き、黒人だけのリーグから優秀な選手たちが次々に大リーグの世界に入った。こうして、大リーグは国境や人種、ことばの壁を越えて、だれもが実力さえあればプレーできる時代となり、中南米諸国をはじめ、いろいろな国々から一流プレーヤーたちが参加するようになった。
【フランチャイズの拡大】
そのころ、まだ大リーグ各球団の本拠地はアメリカ東部から中部に密集しており、最西部でミシシッピ川流域のセントルイスまでだった。50年代に入って飛行機など交通機関が発達してくると、チームの本拠地移転ラッシュが始まった。まず、53年にボストン・ブレーブスがミルウォーキーへ移転して大成功を収めると、54年にセントルイス・ブラウンズがボルティモアへ、55年にフィラデルフィア・アスレチックスがカンザスシティへと相次いで移転した。そして、58年にブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツがロサンゼルスとサンフランシスコへそれぞれ大陸横断し、アメリカ全土へとフランチャイズが広がった。
本拠地移転によって人気回復の兆しがみられると、今度は第三のリーグ設立の解決策として、60年代から従来の8球団ずつから球団数を拡張、いわゆるエクスパンションの時代を迎えた。まず、61年にア・リーグ、62年にナ・リーグが2球団ずつ増えて10球団、69年に両リーグとも2球団ずつ増えて12球団となり、同時に東西2地区制を採用した。さらに77年にア・リーグ、93年にナ・リーグが2球団ずつ増えて14球団となり、94年から東中西の3地区に再編成された。そして、98年にア、ナ両リーグとも1球団ずつ増やし、同時にミルウォーキー・ブリュワーズがア・リーグからナ・リーグへ移動した。それによって、ア・リーグが14球団、ナ・リーグが16球団となり、両リーグあわせて30球団となった。
大リーグでは球団数拡張の過程において、69年に史上初めてアメリカ合衆国以外のカナダに本拠地を置くチームとして、モントリオール・エクスポズが誕生。続いて、77年にはトロント・ブルージェイズも誕生し、国際的なスケールへと発展していった。
大リーグは例年3月下旬から4月上旬にシーズンが開幕し、9月下旬から10月上旬まで26週間にわたってペナントレースが繰り広げられる。その一定の期間に各球団は162試合の公式戦を行い、ホーム、ロードで81試合ずつを消化する。また、7月上旬には各球団の持ち回りによって、1933年以来オールスター・ゲームが1試合だけ行われる。ところで、両リーグとも同一地区だけでなく、各地区のチームとも公式戦を行う。さらに97年から人気回復のためにインターリーグも始まり、両リーグ間の交流試合が初めて公式戦として行われるようになった。また、96年に大リーグ史上初めてアメリカ合衆国以外のメキシコで公式戦が行われた。
毎年10月になるとプレーオフ、そしてワールド・シリーズが行われる。まずは両リーグとも東、中、西各地区の優勝チームと、それ以外に2位のなかで最高勝率チーム、いわゆるワイルドカードの4球団でプレーオフが行われる。その対戦方式は、まずディビジョン・シリーズ(5回戦制)を行い、続いてリーグ優勝チームを決めるためのチャンピオンシップ・シリーズ(7回戦制)を行う。そして、最後にワールド・シリーズ(7回戦制)が行われ、先に4勝したチームが優勝、文字どおり世界一の座につく。→ナショナル・リーグ →アメリカン・リーグ <福島良一>
【URL】[Major League Baseball(英語)] http://www.majorleaguebaseball.com/
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