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スロバキア🔗🔉

スロバキア (すろばきあ) Slovak Republic 英語 Slovensk? Republika スロバキア語 ヨーロッパ中央部に位置する共和国。東部をウクライナ、北部をポーランド、西部をチェコとオーストリア、南部をハンガリーに囲まれた内陸国である。面積4万9035平方キロメートル。人口538万7650人(1997)。首都ブラチスラバ。→ブラチスラバ  西に隣接するチェコと共に連邦国家チェコスロバキアを構成していたが、連邦を解消し、1993年1月1日にスロバキア共和国として独立した。8県79郡からなる。住民の民族構成はスロバキア人が全体の85.7%を占め、10.6%のハンガリー人のほかにロマ人(ジプシー)、チェコ人、ルシーン人、ウクライナ人などがマイノリティ(少数民族)として居住する。 【自然・地誌】 国土の大部分はカルパティア山系の山々に覆われ、約80%が標高750メートル以上の高地に位置している。西北部にはなだらかな小カルパティア、白カルパティア、中央部から東部にかけては峻険なファトラ、タトラの各山脈が走る。南西部にドナウ川流域平野、南東部に東スロバキア平野が広がる。標高最高地点はゲルラホウスキー山の2663メートル、最低地点はストレーダ・ドナ・ボドロゴム市の95メートルである。主要河川は南西部の国境を形成するドナウ、国土を北から南に貫通するバーフ、フロン、ニトラ、ホルナートなど。気候は大陸性で、全国的に最寒月1月の最低気温は零下10℃〜零下15℃、最暖月7月の最高気温は30℃を上回る。重要な天然資源にマグネサイトがあり、ほかに褐炭、鉄鉱石、アンチモニーや水銀などを産出する。  1960年代以降、工業化が急速に進み、石油化学、製鉄や機械などの重工業が発展した。しかし、89年に起こった東欧各国の政治変動の結果、コメコン(経済相互援助会議)体制が崩壊してからは、国際競争に劣る多くの工業部門で収益が悪化し、失業者増加の原因となった(1995年の失業率15.2%)。一方では、商業、サービス業が都市部で着実に規模を広げつつある。農業は南部の平野を中心に小麦、大麦、トウモロコシほかの穀物に加え、テンサイやジャガイモ、さらにブドウやアプリコットなど果物も栽培されている。独立以降、集団農場の解体、政府補助金の削減と農業を取り巻く環境は厳しさを増し、より効率的な経営を迫られている。中部、東部山岳地帯では林業が伝統的に盛んで、木材加工品はスロバキアの重要な輸出品のひとつになっている。そのほか「チェコスロバキア」の項も参照されたい。 <木村英明> 【歴史】 スロバキア地域への西スラブ人の移住は紀元5〜6世紀とされる。彼らは833年ころ、大モラビア国を形成した。この時期キュリロスとメトディオス兄弟により古代教会スラブ語の導入が図られた。9世紀末ハンガリー人の大ドナウ盆地侵入が始まり、906年大モラビア国が崩壊すると、スロバキア地域はハンガリー王国の版図に組み込まれた。このために同地域に住んでいた西スラブ人は、スロバキア人として固有の民族性を形成した。15世紀末ごろからチェコ語が文章語として用いられ、ボヘミアとの文化的結び付きが生じた。1526年以降スロバキア地域を含むハンガリー王国の領土は、ハプスブルク家の支配下に置かれた。18世紀末に開始された国民国家形成の動きのなかで、スロバキア人のあいだでも民族覚醒{かくせい}運動が起こり、独自の文章語が制定された。1848年革命期にシトゥールを中心としたスロバキアの知識人は、ハンガリー革命に対抗する遠征に参加した。60年代に民族運動が活性化したが、67年のオーストリア・ハンガリー二重帝国成立以降、ふたたびハンガリー化政策が強化された。第一次大戦勃発{ぼっぱつ}後、チェコ人との共同国家構想が浮上し、スロバキア人シチェファーニクはマサリクらのチェコ人独立運動に参加した。1918年5月ピッツバーグ協定は、共同国家でのスロバキア人の自治を約束した。10月28日プラハでチェコスロバキア国家独立が宣言され、30日にはスロバキアでも同国家加盟を支持する宣言が採択された。  チェコスロバキア共和国の成立によって、スロバキア人の政治的、社会的、文化的地位は大きく向上したが、スロバキア人の自治が実施されなかったために、フリンカの率いる人民党を中心に自治要求運動が起こった。1938年9月ミュンヘン協定を契機に、フリンカの後継者ティソは10月6日スロバキア成立を宣言し、39年3月14日自治議会はスロバキア独立を宣言した。独立スロバキア国は枢軸陣営に参加し、41年6月独ソ戦開始とともにロシア戦線に軍隊を派遣した。44年8月末、中部地域を中心に反ファシズム蜂起{ほうき}が勃発したが、ドイツ軍によって鎮圧された。45年春スロバキアはソ連軍によって解放され、チェコスロバキア国家が復興された。48年2月共産党の権力掌握後、強硬な社会主義化政策が実施され、国家は中央集権的性格を強めた。60年代スロバキアで連邦化を求める動きが強まり、68年の「プラハの春」につながった。8月ソ連軍の軍事介入後、10月に連邦法が採択され、69年1月から連邦体制に移行した。4月フサークを頭とする正常化体制が発足し、政治的締付けと沈滞の時期は80年代半ばまで続いた。80年代後半になって体制批判勢力の動きが活発化し、89年11月に始まる急激な体制転換を担った。90年6月選挙の結果成立した第一次メチアル内閣は、91年4月チャルノグルスキー内閣に交代した。政権から排除されたメチアルを中心とするナショナル派は、民主スロバキア運動を組織し、92年6月選挙で大勝して第二次メチアル内閣が組閣された。選挙直後から連邦解体の動きが表面化し、スロバキア国民議会は7月17日に国家主権宣言を可決、9月1日に憲法を採択した。  チェコとの連邦体制は平和裏に解体して、93年1月1日スロバキア共和国が成立した。3月コバーチが初代大統領に就任したが、メチアル首相との政治対立が顕在化し、94年3月モラウチーク内閣に代わった。しかし9〜10月選挙でふたたび民主スロバキア運動が勝利し、第三次メチアル内閣が成立した。コバーチ大統領とメチアル首相の対立、95年8月の大統領次男国外誘拐事件など、不安定な政局が目だつようになり、EU(ヨーロッパ連合)とアメリカから意見書が送られた。97年7月のNATO{ナトー}(北大西洋条約機構)東方拡大の際も、スロバキアの参加は見送られた。 【政治】 〔憲法・政治体制〕 1992年9月に採択されたスロバキア共和国憲法は、同国を「主権を有する民主主義的な法治国家」と規定している。憲法の基本精神は、「われわれスロバキア民族は、民族自決の自然権に立脚しつつ、スロバキア共和国の領土に居住する少数民族と民族グループの構成員たちとともに、民主主義的な統治形態、自由な生活の保障、精神文化の発展と経済的繁栄を適用すべく努める」という前文の一節に、端的に表現されている。本文は9編156条から構成され、第1編―基本規定・国家シンボル・首都、第2編―基本的権利と自由、第3編―経済と最高監査庁、第4編―地方自治、第5編―立法権、第6編―行政権、第7編―司法権、第8編―検事局、第9編―経過規定と最終規定という内容である。 〔立法機関〕 唯一の立法機関は、一院制のスロバキア共和国国民議会(定数150議席)で、議員は直接選挙によって選出され、任期は4年である。投票は政党別の公認候補者名簿によって行われ、各党の得票数に従って議席が割り当てられる比例代表制である。議席獲得のためには、投票総数の5%を超える必要がある。1997年現在の議席配分は1994年9〜10月の総選挙結果に基づいており、民主スロバキア運動(61議席)、スロバキア国民党(9議席)、スロバキア労働者連盟(13議席)の3与党と、共通の選択(民主左派党ほか3党連立、18議席)、キリスト教民主運動(17議席)、ハンガリー人連立(ハンガリー人キリスト教民主運動、共存、ハンガリー人市民党の連立、17議席)、スロバキア民主連合(15議席)の4野党という構成になっている。1997年現在の国民議会議長はI・ガシパロビッチ(1941― )である。 〔大統領〕 大統領はスロバキア共和国の国家元首で、選挙権を有する35歳以上の国民のなかから、国民議会が秘密選挙によって選出する。議員の5分の3(90名)以上の支持が必要で、任期は5年、連続2期を最大限とする。初代大統領は、1993年3月に就任したM・コバーチMichal Kov??(1930― )である。 〔行政〕 行政の最高機関である内閣は、首相、副首相、各大臣から構成され、議会の第一党か、諸政党の連立によって組閣される。首相は大統領が任命し(通常の任期は4年)、その他の閣僚は、首相の提案に基づいて大統領が任命する。閣僚は議会に対して責任を負い、選挙によって新たな議会が選出された時に辞職する。独立後のスロバキアの歴代内閣は、第二次メチアル内閣(1992年6月〜94年3月)、モラウチーク内閣(1994年3月〜12月)、第三次メチアル内閣(1994年12月〜 )である。 〔司法〕 司法機関は、憲法裁判所と通常の裁判所から構成される。コシツェに置かれた憲法裁判所は、立憲制度を保護するための独立した機関で、憲法や法律の合憲性や、内閣・各省・地方自治体の政令や法規などを再審議する。憲法裁判所の裁判官(10名)は、議会の提案に基づいて大統領が任命する(任期7年)。通常の裁判所は、最高裁判所とそのほかの裁判所から構成される。民事問題と刑事問題を処理することを目的とし、裁判官(任期4年)は内閣の提案に基づいて議会が選出する。市民から構成される陪審員制度も導入されている。 〔外交〕 スロバキア共和国は独立後の1993年1月改めて国際連合に加盟した。アメリカやEU(ヨーロッパ連合)諸国をはじめとする諸外国との外交関係の樹立はスムーズに行われ、GATT{ガット}(関税貿易一般協定、95年以降はWTO〔世界貿易機関〕)、IMF(国際通貨基金)、ユネスコなど一連の国際機構への再加盟も順調に実現した。同年6月にヨーロッパ会議に加盟し、10月にはEU加盟に関する連合(準加盟)協定に調印、1994年2月には「平和のためのパートナーシップ」にも参加した。しかし民主スロバキア運動などの与党は、EUとNATO{ナトー}(北大西洋条約機構)加盟の方向性を表明しつつ、ロシアとの政治的、経済的結び付きも重視している。EU側も、スロバキアの政治状況やマイノリティ(少数民族)の置かれた現状が、EU加盟に必要な基準を満たしていないとして、繰り返し意見書を送った。97年7月のNATOの東方拡大の際も、スロバキアの参加は見送られた。 〔防衛〕 チェコスロバキア連邦解体によって、独自のスロバキア共和国軍が誕生した。スロバキア軍は陸軍と空軍から構成され、大統領が軍の最高司令官を兼任している。保有兵力は、職業軍人1万4000人と兵役服務者2万6000人(1993)である。徴兵制(兵役義務は1年)が敷かれているが、憲法によって良心的徴兵忌避の権利も認められている。 <長與 進> 【経済・産業】 GDP(国内総生産)は1994年より回復し始め、前年の4.9%増、95年7.3%増であった。鉱工業生産は、93年には経済改革による経済の落込みから1990年の62%の水準であったが、徐々に回復し、95年80%に上昇した。たとえば、鉄鋼生産は95年400万トン弱と、チェコとの連邦解体前の90年に採択された「経済改革」前の水準に戻った。また、農業生産も低下したが、回復しつつある。  消費者物価の上昇率は1994年に前年比13%増から95年10%増と縮小傾向にある。  産業構造も徐々に変化していて、商業やサービス業の従事者が増大し、鉱工業就業者が減少傾向にある。国営、公営企業の民営化率は増大しつつあり、1995年に国内生産の60%を私企業が占めるようになった。生産の回復は国内産業保護政策によるところが大であるが、エネルギー源の供給を外国に依存する体質や輸出に占める原材料比率の高さ、経済改革テンポの遅れなど今後改善すべき課題が多い。95年までの外国からの直接投資は7億ドルで、チェコの8分の1弱と少ない。  貿易収支は赤字が続き、1995年の輸出は79億ドル、輸入100億ドルであった。輸出は原材料が全体の41%と機械の19%をはるかに引き離し、輸入は機械29%、燃料18%、原材料18%などであった。取引相手国はチェコが輸出入のそれぞれ3分の1(1995)を占め、次にドイツ(輸出入の4分の1前後)が続き、ほかはロシア、イタリアなどである。わが国からの直接投資は少なく(1995年までに5件)、貿易額も96年に日本からの輸出1800万ドル、輸入2200万ドルであった。 <中村泰三> 【社会】 〔住民・言語〕 人口は536万7790人で、男女比は48.7対51.3である。平均寿命は72歳(男性68歳、女性76歳)。人口1000人当りの自然増加率は1.6人で低下傾向にある。人口密度は1平方キロ当り109人と比較的低い(1995)。  民族構成は、スロバキア人が全体の85.7%を占める。少数民族であるハンガリー人(10.6%)は、南部のハンガリーとの国境地域にまとまって居住している。ついで数の多いロマ(かつてジプシーとよばれた)は、東部地域を中心に各地に散在し、統計上は8万5000人(1.6%)になっているが、実数はそれをはるかに上回ると考えられる。さらに首都ブラチスラバと西部地域を中心にチェコ人とモラビア人(1.1%)が、東北部の山岳国境地域にはルシーン人(ウクライナ人に近い東スラブ系の民族。0.3%)とウクライナ人(0.3%)が居住している。少数だがドイツ人、ポーランド人、ロシア人などもいる。  スロバキア人は、西スラブ語グループに属するスロバキア語を母語としている。チェコ語とは近い関係にあり、両語の使用者は、相互に問題なく理解しあうことができる。憲法ではスロバキア語は国語と規定され、1995年には、スロバキア語の優先的地位を定める国語法が可決された。そのほかハンガリー語、チェコ語、ルシーン語、ウクライナ語など少数民族の言語も使用されており、憲法は、これらの言語による出版活動、教育、公用の場での使用を保障している。 〔国民生活〕 スロバキア地域は伝統的に農村社会が中心であったが、第二次世界大戦後に社会構造の近代化が進み、1960年代に農業従事者数と産業従事者数の比率が逆転した。それに伴って、農村から都市へ人口移動が進み、総人口の57%が都市に居住している。全国は2867の自治体に分けられているが、そのうち都市は136である(1997)。大都市としては、首都ブラチスラバ(1996・45万2288)と東部地域の中心地コシツェ(1996・24万1606)をはじめ、プレショフ、ニトラ、ジリナ、バンスカー・ビストリツァ、トルナバ、マルティン、トレンチーン、ポプラト、プリエビザなどがあげられる。96年に新しい地方行政制度が導入され、全国が8県(ブラチスラバ、トルナバ、トレンチーン、ニトラ、ジリナ、バンスカー・ビストリツァ、プレショフ、コシツェ)―79郡に再区分された。  1989年末の社会主義体制からの体制転換によって、スロバキア社会は根底的な変化にさらされている。社会生活の全般的な自由化、民主主義的な複数政党制の確立といった好ましい変化がもたらされた反面、市場経済への移行にともなう生活必要経費と物価の上昇、失業問題の発生(1994年の失業率は6.9%)など否定的現象も顕著になり、国民の多くは生活水準の低下を感じている。平均月収は7000スロバキア・コルナ(約2万5000円、1995)である。犯罪率の上昇(1993年以降の5年間で倍増)も、社会不安を増大させる要因の一つになっている。とくにロマに対する差別意識の先鋭化は、重大な社会問題である。大気汚染や公害などの環境問題もあいかわらず深刻であり、南部地域のガプチーコボに建設された巨大なドナウ河水利施設は、ハンガリーとの間の重大な係争問題になっている。しかしこうした諸問題が山積しているとはいえ、社会の自由化と市場経済への移行プロセスは、スロバキア社会を活性化しており、不可逆的な性格のものであると思われる。 〔教育〕 教育制度は、幼稚園での就学前教育をはじめ、義務制の初等教育(基礎学校)、中等教育(ギムナジウム・中等専門学校・職業技術学校、進学率は約43%)、高等教育(総合大学と単科大学)から構成されている。1990年からは、教会の経営する学校と私立学校の設置も認められるようになった。また中等教育レベルまでは、マイノリティ(少数民族)のためにハンガリー語とウクライナ語による教育施設も設置されている。大学は全国に14校(1995)ある。ブラチスラバのコメンスキー大学とコシツェのP・J・シャファーリク大学のほかブラチスラバに技術大学、経済大学、音楽大学、造形美術大学、コシツェに技術大学と獣医大学、ジリナに交通大学、ニトラに農業大学、ズボレンに林業大学などがある。学生総数は7万4000人(1995)である。 〔マスメディア〕 1989年以降の体制転換によって、マスメディアに対するイデオロギー的制約は取り払われ、検閲が廃止されて言論出版の自由が保障された。従来の国営出版社は民営化され、同時に多数の私営出版社も生まれて、出版界は活況を呈している。95年の新聞雑誌の出版総数は1017点で、89年当時の3倍以上になっている。しかし国家補助の削減による良質な出版物の減少や、通俗出版物の横行といった現象もみられる。  日刊紙は20紙(1995)が刊行されている。購読者数の多いものは、大衆紙『ノビー・チャス(新時代)』、左派紙『プラウダ(真理)』、旧労働組合機関紙『プラーツァ(労働)』、中立紙『ナーロドナー・オブロダ(民族の再生)』、リベラル紙『ズメ』、与党系広報紙『スロベンスカー・レプブリカ(スロバキア共和国)』などである。よく読まれている週刊誌に、一般家庭向けのグラフ雑誌『ジボト(生活)』、女性向けグラフ雑誌『スロベンカ(スロバキア女性)』などがある。  ラジオ放送局は国営のスロバキア第一のほかに、ラジオ・ツイストやロックFMラジオなどの民間放送もある。テレビ放送は、国営のSTV1とSTV2の2チャンネルに加えて、1996年に民間放送局マルキーザが開局した。国境に近い地域ではチェコ、オーストリア、ハンガリーなどの放送も受信でき、衛星放送の受信も一般家庭に広く普及している。 〔宗教〕 社会主義体制下では教会の自由な社会活動は規制されていたが、キリスト教信仰は住民の間に深く根を下ろしていた。1989年暮れの体制転換後、各宗派は国家の束縛から解放されて、社会的影響力を回復した。91年の国勢調査によると、スロバキアにおける最大の宗教勢力はローマ・カトリック教会で、信徒は人口の60.3%を占める。そのほかプロテスタント系のルーテル派(福音派)教会(6.2%)や改革派(カルバン派)教会(1.6%)も、伝統的に一定の影響力を保持しており、ルシーン人とウクライナ人が多く住む東部地域では、ローマ・カトリック教会に従う正教会の一宗派であるギリシア・カトリック教会(東方帰一{きいつ}教会)(3.4%)と東方正教会(0.6%)が根強い地盤をもっている。第二次世界大戦以前はかなりいたユダヤ教徒は、わずか912人となった。また9.7%の国民が無信仰と回答している。 〔福祉〕 全国に5417の病院を含む1万4081(1995)の医療施設がある。医師の総数は1万4447人で、国民371人当り1人の医師がいる計算になる。新たな市場経済のもとでの医療保険の負担増大や、医師と看護婦の慢性的不足などが、深刻な社会問題の一つになっている。ピエシチャニ、トレンチアンスケ・チェプリツェ、スリアチ、バルジェヨウなどは古くから湯治場として知られ、年間約13万人(1995)の湯治客が訪れる。 【文化】 〔概観〕 18世紀末に民族啓蒙{けいもう}家ベルノラークAnton Bernol?k(1762―1813)が、西部方言に基づく文章語を制定したことによって、スロバキア人の民族語による近代文学成立の基礎が築かれた。1843年に民族啓蒙家シトゥールL'udov?t ?t?r(1815―56)は、より広範に流布していた中部方言に基づいた文章語を制定し、現代標準語の規範が確立された。ハルプカSamo Chalupka(1812―83)、スラートコビチAndrej Sl?dkovi?(1820―72)、カリンチヤクJ?n Kalin?iak(1822―71)、クラーリJanko Kr?l'(1822―76)ら一群のロマン主義作家が、この文章語を用いて活発に創作活動を行った。19世紀後半には詩人フビェズドスラフ、作家ククチーンMartin Kuku??n(1860―1928)に代表されるリアリズム世代が育ち、20世紀初頭に批判的リアリズムのイェセンスキーJanko Jesensk?(1874―1945)やモダニズムのクラスコIvan Krasko(1876―1958)など、新たな文学潮流が形成された。両大戦間期には、自然主義文学のフロンスキーJozef C?ger Hronsk?(1896―1960)、シバントネルFranti?ek ?vantner(1912―50)、プロレタリア文学のノボメスキーLadislav Novomesk?(1904―76)、カトリック・モダニズムのディロンクRudolf Dilong(1905―86)らが活躍した。第二次大戦後の一時期は、社会主義リアリズムの導入が試みられたが、1950年代後半以後、作家タタルカDominik Tatarka(1913―89)、ムニャチコ、ベドナールAlfonz Bedn?r(1914―89)らは、社会主義体制下の社会状況を批判的に描く作品を発表するようになった。69年以降では、イデオロギー的締めつけが強化されたため、文学活動は停滞したが、ヨハニデスJ?n Johan?des(1934― )、スロボダRudolf Sloboda(1938―95)など一群のユニークな作家も生まれた。89年暮れの体制転換後、スロバキアの作家たちは政治的束縛から解放された。 〔文化施設〕 図書館は全国に3256(1995)あり、なかでもブラチスラバの大学図書館と技術図書館、マルティンに本拠を置く民族文化団体マチツァ・スロベンスカー付属の民族図書館などが、豊富な蔵書を誇っている。博物館は全国で60を数え、ブラチスラバの民族博物館(考古学・歴史・自然科学)と市立博物館(薬学・時計・ワインなど)、マルティンの農村博物館がとくに有名である。美術館は各地に18あり、代表格は1948年に設立されたブラチスラバの民族美術館である。東部地域のメジラボルツェにはアンディ・ウォーホルを記念するユニークな博物館が開館した。常設の劇場は全国に37あり、年間に通算5000回程度の上演が行われ、140万人の観客が劇場を訪れている。ブラチスラバには、民族劇場、小劇場(マラー・スツェーナ)、新劇場(ノバー・スツェーナ)、国立人形劇場などのほか、高い評価を受けているアマチュアのラドシン・ナイーブ劇団も活動している。 〔映画〕 最初のスロバキア映画『ヤーノシーク』(1921)は、アメリカに移住したスロバキア人の協力を得て制作された。このサイレント映画は、スロバキアの有名な義賊の生涯に取材したものである。第二次世界大戦後に本格的な映画制作が開始され、1944年の民族蜂起に取材したビエリクPal'o Bielik(1910―83)の一連の作品は、わが国でも公開された。60年代にはウヘル?tefan Uher(1930― )、ヤクビスコJuraj Jakubisko(1938― )、ハナークDu?an Han?k(1938― )ら一群の有能な監督がデビューした。とくにハナークの『百年の夢』(1972)は、16年後に初公開されて、国内外で高い評価を受けた。89年の体制転換によって、映画界もイデオロギー的束縛から解き放たれた。国家補助の削減にともなう資金難が大きな問題となり、制作点数は減少しているが、シュリークMartin ?ul?k(1962― )の『庭』(1995)、ハナークの『ペーパーヘッズ』(1996)といった良質な佳作が生まれている。 〔日本との関係〕 スロバキアを含む中欧地域の人々が日本の存在を知ったのは、おそらくマルコ・ポーロの『東方見聞録』(1298)を通じてである。16世紀なかば以降、東アジア地域でのカトリック教会の布教活動を通して、日本についての詳しい情報が入るようになった。1771年(明和8)に流刑先のカムチャツカからヨーロッパに帰る途中で日本沿岸に寄港し、わが国の対ロシア意識に大きな衝撃を与えたM・ベニョウスキーは、ハンガリー人とされているが、出身地は現在のスロバキア領にある。17、18世紀にヨーロッパで流行したシノワズリー(東洋趣味)は、中欧地域の文化にも影響を与えた。チェコとスロバキアの民族復興運動の代表詩人コラールの叙事詩『スラーバの娘』(1832)には、中国と日本に題材を取ったエキゾチックな詩篇{しへん}が収録されている。  日本人の視野のなかに、スロバキアを含む中欧地域が浮かび上がってきたのは、明治維新後のことである。当時スロバキア人が属していたオーストリア・ハンガリーと日本は、1869年(明治2)に修好通商航海条約を締結した。73年にウィーンで開催された万国博覧会は、わが国の中欧認識を広げる契機となった。『澳国博覧会報告書』(1875)にはスロバキア人についての言及もみいだされる。  第一次大戦末期の1918年5月、ロシアでチェコスロバキア軍団事件が起こると、日本政府は軍団支援を口実として、同年8月シベリア出兵を宣言し、9月に在外独立運動組織チェコスロバキア国民会議を承認した。こうした事態に関連して、10〜11月スロバキア人の独立運動家M・R・シチェファーニクがフランス軍事使節団の一員として日本に滞在し、政府・軍部・マスコミにチェコスロバキアの独立と軍団の存在をアピールした。軍団と日本軍はシベリア極東地域で接触し、1919〜20年には約6万7000人の軍団兵士が、日本を経由して帰国した。こうした事件によって、チェコスロバキアの存在は日本でも広く知られるようになり、また滞日した軍団兵士の見聞を通じて、日本に関する知識もかの地に広まった。たとえば作家イェセンスキーは体験記『自由への道で』(1933)のなかで、日本滞在の経験を記している。  日本は1918年10月のチェコスロバキア独立直後に同国を承認し、両大戦間期を通じて、両国のあいだでは比較的活発な文化交流が行われた。39年3月にチェコスロバキアが解体して独立スロバキア国が成立すると、日本は同年6月に同国を承認した。第二次大戦中、両国は同じ枢軸陣営に属する同盟国であり、日本が41年12月に米英に宣戦布告すると、独立スロバキア国も両国との戦争状態を宣言した。  第二次大戦後の1957年、日本とチェコスロバキアの国交が回復し、それをきっかけとして、文化や経済の分野で相互交流が再開された。スロバキア文学からムニャチコとベドナールの作品が日本語に翻訳され、日本文学のいくつかの作品もスロバキア語に訳された。1993年1月にスロバキア共和国が独立すると、日本は即日に同国を承認し、2月に外交関係を樹立した。→ソ連崩壊と東欧の歴史的変革 →チェコスロバキア <長與 進> 【本】大鷹節子著『チェコとスロバキア』(1992・サイマル出版) ▽林忠行著『中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロバキア建国』(1993・中央公論社) ▽V・チハーコヴァ著『新版プラハ幻影』(1993・新宿書房) ▽音楽之友社編・刊『チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド(ガイドブック音楽と美術の旅)』(1995) ▽小野堅・岡本武・溝端佐登史編『ロシア・東欧経済』(1994・世界思想社) ▽小川和男著『東欧再生への模索』(1995・岩波書店) ▽百瀬宏ほか著『東欧』(国際情勢ベーシックシリーズ5)(1995・自由国民社) ▽山本茂・松村智明・宮田省一著『地球を旅する地理の本5―東ヨーロッパ・旧ソ連』(1994・大月書店) ▽沼田充義監修『中欧 ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(1996・新潮社) 【URL】[スロヴァキア共和国〈日本国外務省〉] http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kankei/e_slovak.html

スロバキア語🔗🔉

スロバキア語 (すろばきあご) Slovak スロバキア共和国の国語。西スラブ語群に属する。国内で約460万、世界中で約562万の言語人口をもつ。方言は西部、中部、東部の三つに大別され、現代標準文章語の基礎は、文化的に中立な中部方言を土台として、19世紀の40年代に築かれた。構造上チェコ語にもっとも近いが、子音の破擦音dz、d?の存在、語中で長母音のある音節が連接することを許さない「リズムの法則」など、チェコ語とは異なる独自の特徴をもつ。文字はラテン文字であるが、一連の補助記号とchのような二重字を用いるので、字母の数は46個となる。母音には?―aのように長短の区別があり、流音にも?―rのように長短がある。形態構造は、チェコ語と同様に、名詞類と動詞の語形変化(曲用と活用)の規則性の度合いが高い。しかし、名詞の呼格の消失、形容詞の短語尾形(名詞形)の消失、動詞の大過去の時制の保存などにおいてチェコ語との差異がみられる。→チェコ語 <栗原成郎>

スロバキア山地🔗🔉

スロバキア山地 (すろばきあさんち) Slovensk? Rudohorie スロバキア中央部の山地を総称していう。カルパティア山脈弧の一部であるが、次のような地形からなる。(1)フリッシュ山地。中生代の地層フリッシュからなる山地で、白カルパティア山脈、ベスキド山脈など。(2)バーフ川河谷。カルパティア山脈を貫流して内外両山塊に二分する。(3)タトラ山脈。バーフ川に二分される高タトラ山脈、低タトラ山脈。(4)構造盆地および侵食盆地からなるタトラ山系中の山間盆地。(5)火山性丘陵。→カルパティア山脈 →タトラ山脈 <三井嘉都夫>

スロバキア文学🔗🔉

スロバキア文学 (すろばきあぶんがく) スロバキア語で書かれた文学。スロバキア語による文学創出の試みは18世紀末に始まる。それ以前はチェコ文学と一体化していた。1790年カトリック僧アントン・ベルノラークAnton Bernol?k(1762―1813)が西部方言に基づいて文章語の規範を制定するが、ヤーン・ホリーJ?n Holl?(1785―1849)など一部の詩人が創作に用いるにとどまった。その後1843年に民族運動の指導者リュドビート・シトゥールL'udov?t ?t?r(1815―56)によって中部言語に依拠する文章語が確立されると、ヤンコ・クラーリJanko Kr?l'(1822―76)、アンドレイ・スラートコビチAndrej Sl?dkovi?(1820―72)、ヤーン・ボットJ?n Botto(1829―81)らヨーロッパのロマン主義的思潮、詩法に影響を受けた一群の詩人が陸続と佳作を発表し、スロバキア文学の地歩を固めた。1880年代、90年代になると詩のパベル・オルサーグ・フビェズドスラフ(1849―72)、散文のマルチン・ククチーンMartin Kuku??n(1860―1928)らが農村に生きる人々の姿をリアリスティックに描いた。20世紀初頭には象徴主義の詩人イワン・クラスコIvan Krasko(1876―1958)がモダニズムの扉を開く。  二度にわたる世界大戦の間は、カトリック・モダニズムのルドルフ・ディロンクRudolf Dilong(1905―86)、プロレタリア詩のラジスラフ・ノボメスキーLadislav Novomesk?(1904―76)、また表現主義的な手法を駆使して山間部の生活を綴{つづ}ったミロ・ウルバンMilo Urban(1904―82)、ヨゼフ・チーゲル・フロンスキーJozef C?ger Hronsk?(1896―1960)らさまざまな傾向が並存した。第二次世界大戦中には自然と人間の交歓、対決を叙情的な筆致で物語化したフランチシェク・シバントネルFranti?ek ?vantner(1912―50)、マルギタ・フィグリMargita Figuli(1909―95)などに代表される叙情散文派(ナチュリズム)が台頭する。  第二次大戦後はラジスラフ・チャシキーLadislav ?a?k?(1924― )、ウラジミール・ミナーチ(1922―96)の戦争文学のほか、社会主義体制を批判したドミンク・タタルカ(1913―89)やラジスラフ・ムニャチコ(1915―94)が活躍した。1968年以降の正常化体制のもとでは、ラジスラフ・バレクLadislav Ballek(1941― )、ビンセント・シクラVincent ?ikula(1936― )らの歴史小説、ヤーン・ヨハニデス(1934― )、ルドルフ・スロボダRudolf Sloboda(1938―95)などの内向的、実存主義的な小説が興隆をみる。89年の体制転換以降、イワン・カドレチークIvan Kadle??k(1938― )やマルチン・シメチカMartin ?ime?ka(1957― )などかつての発禁作家が作品を発表している。  日本では『遅れたレポート』(1953)をはじめとするムニャチコの諸作品のほかアルフォンス・ベドナールAlfonz Bedn?r(1914―89)の『時間と分』(1956)など、おもにスターリニズムの影響下における非人間的政治、社会状況を告発したノンフィクションや小説が翻訳紹介されている。→スロバキア語 →タタルカ →チェコ文学 →フビェズドスラフ →ミナーチ →ムニャチコ →モダニズム →ヨハニデス →ロマン主義 <木村英明> 【本】大鷹節子著『チェコとスロバキア』(1992・サイマル出版会) ▽伊東孝之ほか監修『東欧を知る事典』(1993・平凡社) ▽沼野充義監修『読んで旅する世界の歴史と文化――中欧』(1996・新潮社) ▽南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)

スロバキア演劇🔗🔉

スロバキア演劇 (すろばきあえんげき) →東欧演劇

スロバキア映画🔗🔉

スロバキア映画 (すろばきあえいが) →東欧映画

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