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大槻磐渓🔗🔉

大槻磐渓 (おおつきばんけい) (1801―78)幕末の儒者。蘭学{らんがく}者大槻玄沢{げんたく}の次子。字{あざな}は士広{しこう}、名は清崇{きよたか}、通称は平次、号は磐渓。江戸にあって昌平黌{しようへいこう}に学ぶこと10年、のち東海、畿内{きない}、長崎に歴遊。32歳で仙台藩に抜擢{ばってき}されて儒員に列し、別に家をたて江戸藩邸の侍講となる。1853年(嘉永6)ペリー来航のとき、開国の意見をとり、62年(文久2)仙台に移って藩校養賢堂の学頭となる。戊辰{ぼしん}戦争では奥羽軍のため軍国の文書をつかさどり、事敗れて獄に下る。恩赦にあってのち東京に居を定め、漢詩文界の老将と目された。明治11年6月13日没、78歳。東京・芝高輪{たかなわ}東禅寺に葬られる。著書に『近古史談』『寧静閣詩文集』など数十種がある。『新撰日本洋学年表』の著者如電{じよでん}、『大言海』の著者文彦{ふみひこ}はその子息。 <平 重道>

日本大百科 ページ 8558