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大ルーマニア主義🔗🔉

大ルーマニア主義 (だいるーまにあしゅぎ) Rom?nia Mare ルーマニア語 Greater Rumania 英語 ルーマニア人の居住する全地域を国家的に統合せよという主張。ルーマニア人国家モルダビア、ワラキアはトルコに従属したが、ワラキアのミハイ勇敢王(在位1593〜1601)はトルコ支配を離脱し、モルダビアなどを併合、後の大ルーマニア主義の原型をつくった。その後これらの地はすべてトルコとハンガリーに支配されたが、ルーマニアの政治家は大ルーマニアの再現を夢み続けた。第一次世界大戦前後にルーマニアはトランシルバニア、ベッサラビア、ブコビナ、南ドブルジア、東バナートを併合し、その夢を実現したが、少数民族が人口の4分の1に達し、近隣民族からの圧力に苦しんだ。 <木戸 蓊>

大礼服🔗🔉

大礼服 (たいれいふく) 明治時代、宮中の盛儀や饗宴{きようえん}に列席する人たちが着用する最高の礼装をいう。文官をはじめ非役有位者、有爵者、宮内官たちが着装した。わが国では古来より朝儀に列席する場合は束帯、衣冠などを着用していたが、1872年(明治5)装束類を廃止して、新たに洋風の大礼服を定めた。この服制は、のちにしばしば改定されたが、86年(明治19)12月になって、改定文官大礼服ができた。これによると、文官を勅任と奏任の両官に分け、それぞれ帽子、上衣、下衣、帯剣などについて細かな規定が設けられた。また陸海軍人の武官の制服にも、大礼服に相当する正装ができた。女子の服制を洋装に規定したのは1886年6月で、大礼服をマント・ド・クールmanteau de courとした。これら大礼服の規定は1947年(昭和22)皇室令とその付属令の廃止のおりになくなった。現在では燕尾服{えんびふく}、モーニングコート、女子はローブ・デコルテrobe d?collet?e、ローブ・モンタントrobe montante、あるいは白衿{しろえり}紋付などが用いられている。→礼装 <遠藤 武>

日本大百科 ページ 38671