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石坂泰三🔗🔉

石坂泰三 (いしざかたいぞう) (1886―1975)経営者、財界人。東京出身。1911年(明治44)東京帝国大学独法科卒業。逓信{ていしん}省に入ったのち、第一生命の矢野恒太{つねた}の知遇を得て1915年(大正4)同社に入社。支配人、専務を経て社長(1938〜46)となる。第二次世界大戦後は公職追放解除後、東京芝浦電気(東芝)に迎えられ1949年(昭和24)社長、57年会長となり同社再建に手腕を発揮した。1955年日本生産性本部(現、社会経済生産性本部)初代会長、56年経団連会長に就任(68年まで在任)し、代表的財界人となり、60年代の高度成長をリードした。→矢野恒太 <浅野俊光>

石坂昌孝🔗🔉

石坂昌孝 (いしざかまさたか) (1841―1907)明治時代の自由民権家。天保{てんぽう}12年4月22日、武蔵{むさし}国南多摩郡野津田{のつだ}村(東京都町田市野津田町)に農業石坂吉恩の三男として生まれる。しかし、生後まもなく母ほんの実家である名主石坂昌吉家の養子となる。幼名は高之助{たかのすけ}。16歳で石坂家を継ぎ、22歳で義理の妹ヤマと結婚。維新後は戸長、区長、県属を歴任し、小野郷学{おのごうがく}を設立するなど地域の青年教育にも力を注いだ。1879年(明治12)神奈川県会が発足し、県会議員、議長に選ばれる。81年には武相懇親会を設立。このころより民権思想の普及に精力的に取り組み、82年自由党に入党。のち大井憲太郎派に近づき大阪事件(1885)にも連座。90年に多摩から衆議院議員に選出され、96年には群馬県知事に就任した。三多摩壮士の統領ともいえるこの豪農民権家は明治40年1月13日、病を得て東京・牛込{うしごめ}の寓居{ぐうきよ}で死去した。長女美那{みな}は北村透谷{とうこく}の妻、長子は透谷と同年の自由民権家で、アメリカで客死した公歴{まさつぐ}である。 <色川大吉> 【本】渡辺奨著『石坂昌孝の生涯』(『多摩文化』21号所収・1969)

日本大百科 ページ 3603