歌舞伎🔗⭐🔉振
歌舞伎
(かぶき)
歌舞伎という表記は当て字であるが、歌(音楽)、舞(舞踊)、伎(伎芸)をそれぞれ意味し、日本独自の様式的演劇の特質を巧まずして表現しているため、今日では広く用いられている。かつて江戸時代には「歌舞[_妓]」と書かれるのが普通であったが、もっと古くは「かぶき」と仮名で書かれた。漢字では「傾奇{かぶき}」であり、傾{かぶ}くという動詞の名詞形で、異風異装の者、したがってまた、流行の先端を行くとっぴな者などをさすことばであった。江戸時代の初め京洛{きょうらく}の巷{ちまた}に出現した新奇異風の芸能が「かぶきおどり」「阿国{おくに}かぶき」「女かぶき」などとよばれ、のちに「歌舞妓(伎)」の字があてられたのである。
歌舞伎は、ある種の民俗芸能が社会の表面に浮かび上がり、能狂言や人形浄瑠璃{じょうるり}(文楽{ぶんらく})の要素を吸収消化して、複雑な内容と様式をもつに至った庶民演劇で、一口にいえば、日本の伝統芸能を集大成したものといえる。それは、江戸時代という鎖国時代の町民文化の一つとして、町民の生活に密着した特殊な美を生み、歓楽の場として自由で雑多な成長発展を遂げた。歌舞伎は初めから市民の芸能として発生したため、舞楽や能のように整然と形象化、式楽化された芸術とは異なり、時代とともに変化し新しいものを加えてつねに生成発展する柔軟な生命力をもち、かつ現代にも受け入れられる普遍的な魅力も備えている。今日では、能、狂言や文楽と同じく、伝統演劇または古典芸能とよばれているが、明治以後も生きた演劇としての活力を失わず、現在なお大劇場で安定した興行価値をもっている点で、ほかの伝統演劇とはまったく違う。またこれを西洋演劇に比べるなら、ギリシア劇から近代写実劇に至る古典主義演劇の系譜とは別の、シェークスピア劇やスペイン劇、ロマン主義演劇ないし表現主義あるいはブレヒト劇のような、いわゆる非古典主義的バロック演劇に通ずるものということができよう。
【歌舞伎の歴史】
歌舞伎の発達は、次の5期に分けてみることができる。
〔第一期・源流と創生〕 歌舞伎の始まりは1603年(慶長8)出雲{いずも}大社の巫子{みこ}と称する阿国{おくに}という女性が京都で演じた、念仏踊{ねんぶつおどり}とよばれる歌舞だとされ、これがまもなく当時巷{ちまた}にみられたかぶき者やキリシタンの風俗を取り入れた結果、「かぶきおどり」とか「阿国かぶき」といわれるようになる。その源流は、応仁{おうにん}の乱(1467〜77)以後の、「夢の浮世じゃ、ただ狂え」といった不安騒擾{そうじょう}の民心に迎えられて大流行し始めた「風流{ふりゅう}」である。これは、祭礼にちなむ民間芸能の一種で、女猿楽{おんなさるがく}、女曲舞{おんなくせまい}、白拍子{しらびょうし}など、平安時代から中世にかけて民間に流布した女性の諸芸能も影響していたと思われる。彼女らの一部は売春を兼ねて諸国を巡るいわゆる「あるき巫子{みこ}」でもあったろう。天鈿女命{あめのうずめのみこと}の岩戸舞のような神話時代は別として、女性芸能は仏教渡来以後、もっぱら庶民の底辺にだけ存在を許されていた。それが、北野神社や四条河原{しじょうがわら}など京都目抜きの地に、能と同じく社寺や仏像の建立を目的とした勧進{かんじん}興行として堂々と行われたということは、中世の呪禁{じゅごん}と戦乱から解放されたこの時代にして初めて可能なことであった。その意味で、芸能史上だけでなく、阿国かぶきの日本文化史上の意味はきわめて大きい。
阿国かぶきは能の舞台様式を踏襲し、道具や音楽も能に似て簡素で、初期には三味線も用いなかった。しかし、能とは本質的に異なっていた。たとえば念仏踊とはいっても宗教性は薄く、あらゆる流行、風俗、流行唄{はやりうた}を取り入れた即興的な歌舞だったこと、女性主体で仮面を用いず肉体的魅力を売り物としたことなどである。また歌舞のほかに猿若{さるわか}とよばれる男の道化{どうけ}役が出て滑稽{こっけい}な寸劇をしたりもしている。とりわけ市民の心を奪ったのは、阿国が自ら男装して、当時はやりだした「茶屋の女」に「戯る体{たわむるてい}」をみせたり、当時随一の伊達{だて}男といわれ惜しまれつつ死んだ名古屋山三{さんざ}の亡霊を登場させるなど、大胆な発想で最新のトピックスを取り上げ、濃厚な官能描写を試みたことである。この新奇な芸能は市民に受け、「かぶきおどり」とよばれるに至り、遊里の女たちもこれに追随して、類似の歌舞団が輩出し、女歌舞伎は全国に広まった。
しかし、この「女歌舞伎」は官能本位で遊女も兼ねていたため、「遊女歌舞伎」とも称されるに及び、幕府は風紀上の弊害を恐れて、1629年(寛永6)、音曲を演奏する地方{じかた}を含む女芸人いっさいが公衆の前で舞台に立つことを禁じた。阿国が出現してわずか26年で、それ以後1891年(明治24)新派で「男女合同改良演劇」が行われるまでの262年の間、日本の公認劇場には女優不在が続く。
女歌舞伎禁止によって隆盛をみたのは、若衆{わかしゅ}歌舞伎、すなわち前髪立ちの美少年による歌舞伎であった。すでに女歌舞伎と並行して存在していたものだが、かつて武家・僧侶{そうりょ}が稚児{ちご}猿楽や稚児延年{えんねん}を愛好したことからみれば、むしろこの若衆歌舞伎のほうが伝統的だったともいえよう。女歌舞伎の新鮮さの陰に隠れていたのが急に開花したのであったが、彼らも華美な風俗で官能本位の歌舞を主体とする点では女歌舞伎と大差なく、男色趣味のため社会的弊害はむしろ大きかったので、幕府は1652年(承応1)ふたたび禁令を発した。こうして一時歌舞伎はまったく姿を消す。しかし、すでに1615年(元和1)には京都に7か所の芝居小屋が許可されていたし、24年(寛永1)には江戸に猿若座が創立されていたので、彼らは幕府に再開許可嘆願を続けた。その結果、1653年3月4日「再御免」となったが、風紀上の弊害を抑えるために二つの条件がつけられた。前髪を切ることと、歌舞を控えて「物真似{ものまね}狂言づくし」をやることである。そこで、前髪を切って月代{さかやき}を剃{そ}った頭にちなんで、これ以後を「野良{やろう}(野郎)歌舞伎」という。
〔第二期・科白劇の確立時代〕 この期は、元禄{げんろく}期(1688〜1704)を中心として享保{きょうほう}(1716〜36)中期までである。野郎歌舞伎に与えられた2条件は、結果的には歌舞伎に演劇としての飛躍的発展をもたらした。必然的にドラマ内容の充実、写実芸つまり科白{かはく}(せりふとしぐさ)演技の熟達、女優や若衆にかわる女方{おんながた}美の創造などを促す条件だったからである。その現れの一つは、歌舞伎再御免から2年後の1655年(明暦1)の大道具師長谷川{はせがわ}勘兵衛の創業であろう。ついで1664年(寛文4)江戸と大坂で「続き狂言」すなわち多幕物の上演と、これに伴う引幕{ひきまく}の発明があった。1666年、花道の嚆矢{こうし}というべき中央「歩{あゆ}み板」が客席を貫いて設置され、その後急速に整備された。1717年(享保2)には、それまで半野外だった劇場が完全に屋根で覆われ、二階桟敷{さじき}も生まれ、歌舞伎独自の劇場の原型ができた。
狂言も当初は「口立{くちだ}て」式といって、口頭で大筋を打ち合わせて演ずる即興的なものだったが、1683年(天和3)になると完全な脚本形式が生まれる。1680年(延宝8)には富永平兵衛が「狂言作り」として名のりをあげ、ついで近松門左衛門に至って専業の作者道が確立した。近松には『傾城仏{けいせいほとけ}の原』『傾城壬生大念仏{みぶだいねんぶつ}』などがあるが、ほかに初世市川団十郎(筆名三升屋兵庫{みますやひょうご})や中村七三郎らの俳優も作者を兼ね、狂言も著しく発達した。演技術の基礎が定まり、江戸と上方{かみがた}の芸風が定まったのもこの時代である。江戸では1673年に初世団十郎が『四天王稚立{おさなだち}』の坂田金時役で「荒事{あらごと}」を創始、79年には大坂で坂田藤十郎{とうじゅうろう}が『夕霧名残正月{ゆうぎりなごりのしょうがつ}』の藤屋{ふじや}伊左衛門役で「和事{わごと}」の芸を確立、元禄年間には芳沢{よしざわ}あやめ、水木辰之助{みずきたつのすけ}らにより女方芸の基礎が固められた。その後、荒事、和事、女方を基本として役柄はさらに分化して、立役{たちやく}(男の善人)では荒事、和事のほか実事{じつごと}、武道事{ぶどうごと}、丹前{たんぜん}、辛抱{しんぼう}役など、敵{かたき}役には実悪{じつあく}、色悪{いろあく}、公家悪{くげあく}、半道敵{はんどうがたき}など、女方には傾城のほか若女方{わかおんながた}、娘方、女武道{おんなぶどう}、悪婆{あくば}などができた。ほかにも若衆方、道化{どうけ}(外)、花車{かしゃ}方、親仁{おやじ}方など、いずれも原則として各役柄専業制で、二つ以上の役柄を「兼ねる」ことは例外ないしは邪道とされた。
この期はあらゆる面で科白劇としての確立期だったが、近松が浄瑠璃{じょうるり}作者に転じて世話物に名作を続出する元禄後期ごろになると、人形浄瑠璃優勢の兆しがみえ始め、やがて次の文楽吸収期を迎えるのである。また1716年に初めて河東節{かとうぶし}が劇場で出語りをしたことも、浄瑠璃界との交流、ひいては以後の歌舞伎の準音楽劇化への一環として注目される。
〔第三期・人形浄瑠璃摂取・拡大時代〕 この期は、全盛の人形浄瑠璃に圧倒されながらも、浄瑠璃の名作や演出を吸収消化して義太夫{ぎだゆう}狂言(丸本物{まるほんもの})という一大ジャンルを確立し、舞台機構も歌舞伎独自の複雑な完成を遂げ、やがて江戸世話狂言の花を開くまでの拡大時代で、享保末から寛政{かんせい}(1789〜1801)中期までである。この間に、一般社会と同じく演劇の中心も上方から江戸へ、人形浄瑠璃から歌舞伎へと移行していく。近松と竹本義太夫により文学的、音楽的に飛躍的成長をみた人形浄瑠璃は、近松の死後10年の1734年(享保19)人形遣い吉田文三郎{ぶんざぶろう}により三人遣い式が完成され、また竹田出雲{いずも}、並木宗輔{そうすけ}(千柳)、三好松洛{みよししょうらく}らが規模雄大でリアルな名作を次々に発表した。その頂点が『菅原伝授手習鑑{すがわらでんじゅてならいかがみ}』『義経千本桜{よしつねせんぼんざくら}』『仮名手本忠臣蔵{かなでほんちゅうしんぐら}』という三大時代物初演の1746年(延享3)から48年(寛延1)であった。この前後約30年間は「歌舞伎はあれどもなきがごとし」といわれ、浄瑠璃の名作・名演出を追い、輸入消化するのに精いっぱいだった。しかし歌舞伎はここで、浄瑠璃のもつ高い文学性と三味線音楽を基調とする音楽的・様式的演出を確立した。荒事や遊女・遊客を描く傾城買{けいせいかい}狂言に加えて、主君のために親子・夫婦といった肉親関係を犠牲に供するという、徳川封建社会独特の近世悲劇が確立され、智{ち}仁勇兼備の英雄(『忠臣蔵』の由良之助{ゆらのすけ}、『菅原』の松王丸など)の演技、すなわち実事、ことに大立役の系譜などが歌舞伎に広く深く根を下ろしたのもこのころであった。
18世紀後半になると、浄瑠璃の制度に倣い脚本の合作が制度化され、作者の序列づけ、劇場内の作者部屋設置などが行われる。この期に浄瑠璃作者から転向した並木正三{しょうざ}(初世)は、その構想や手法を歌舞伎に生かし、『三十石?始{さんじっこくよぶねのはじまり}』で回り舞台を完成した。これより以前、1736年(元文1)には花道が完成され、江戸では狂言により名乗り台の仮設も行われていた。
脚本の面では、正三の弟子の並木五瓶{ごへい}が1794年(寛政6)江戸へ下り、上方の合理的な作風を移入してリアルな江戸世話狂言の成立を促した。また、一つの作品のなかで時代と世話を混合して新しい狂言の筋をつくる「綯{な}い交{ま}ぜ」という従来の作劇上の不文律を破って、一番目狂言(時代物)と二番目狂言(世話物)を独立作でよしとする風を打ち出したのも五瓶である。一方、江戸生粋{きっすい}の桜田治助{じすけ}も同時代に活躍し、晩年は五瓶と対抗して江戸劇壇隆盛の基礎を固めた。作者にはほかに津打治兵衛{つうちじへえ}、藤本斗文{とぶん}、壕越二三治{ほりこしにそうじ}、金井三笑、2世並木正三、奈河亀輔{ながわかめすけ}らがいる。
この期はまた三味線音楽、舞踊劇の興隆期でもあった。ことに一中{いっちゅう}節から独立して一派をたてた宮古路豊後掾{みやこじぶんごのじょう}の豊後節は、哀艶{あいえん}な心中物で江戸庶民を魅了し、情死が急増したため、風紀上有害として幕府から1739年に禁止されたほどである。しかし、この流れから常磐津{ときわず}、富本{とみもと}、下って文化{ぶんか}年間(1804〜18)には清元{きよもと}が生まれ、豊後系三浄瑠璃とよばれて長唄{ながうた}とともに劇場音楽として栄え、今日の邦楽・邦舞の基をなすのである。
この期のおもな俳優には次の人々があった。荒事を洗練し『助六{すけろく}』で新境地を開いた2世市川団十郎、丸本物の大立役の芸を確立した4世と、広い芸域を完成した5世団十郎。写実を得意とした2世と3世の沢村宗十郎、下級役者の出ながら立役主体の舞踊の芸脈を開いた初世中村仲蔵、色立役や踊りの名手4世松本幸四郎、実悪の初世中村歌右衛門{うたえもん}。女方に舞踊『娘道成寺{どうじょうじ}』を創演した初世中村富十郎、江戸・京都・大坂の三都にその美貌{びぼう}をうたわれた初世・2世・3世(仙女路考)の瀬川菊之丞{きくのじょう}、「七変化{へんげ}」を踊って次代の変化舞踊流行の源をなした4世岩井半四郎らである。
総じてこの期は、完全に前時代的なものから脱却して、今日みる歌舞伎の複雑多様な特質を確立した時代といえる。
〔第四期・江戸歌舞伎の大成爛熟時代〕 この期は、歌舞伎の大勢がまったく江戸に移り、下町の庶民生活をリアルに描く生世話{きぜわ}狂言と変化舞踊が栄えた、寛政末から明治維新までの時代である。この時代には、せり、すっぽんなどのほか、がんどう返し、田楽{でんがく}返し、引道具、引割{ひきわり}などの舞台機構が発達し、弘化{こうか}年間(1844〜48)には「蛇の目{じゃのめ}」とよぶ二重の回り舞台も発明され、これらをフルに活用する変幻奔放な狂言が続出する。早替り、けれん、濡{ぬ}れ場、強請{ゆす}り場、責め場、殺し場など、変化趣向に富み、エロチシズムと暗黒面の描写の濃厚さが特色になった。それは、この期の頂点であり江戸文化後期のピークでもある化政{かせい}期、すなわち文化{ぶんか}・文政{ぶんせい}年間(1804〜30)前後の爛熟{らんじゅく}退廃した世相の反映でもあった。登場人物も、近松物や義太夫狂言におけるような、義理と人情の板挟みになって自己を犠牲にする生き方とは違うタイプが登場する。刹那{せつな}享楽の現世的生活を追い、しかも因果の糸に操られて破滅していくという、実は孤独な小悪党や毒婦のたぐいが多い。その情緒を感覚的に裏づけるのは清元の音色であった。作者には、『四谷怪談』『お染の七役』など怪談物を含む生世話狂言を確立した4世鶴屋南北{つるやなんぼく}(大{おお}南北)、『切られ与三{よさ}』『佐倉義民伝』など白浪{しらなみ}物や農民劇で新風をたてた3世瀬川如皐{じょこう}、『宇都谷{うつのや}峠』『三人吉三{さんにんきちさ}』『村井長庵{ちょうあん}』『弁天小僧』などで白浪作者とよばれ、七五調と下町情緒の詩的描出を洗練完成した2世河竹新七(黙阿弥{もくあみ})がある。
俳優には、役柄豊かな中村歌右衛門の3世(俳名{はいみょう}・梅玉{ばいぎょく})および4世(同・翫雀{かんじゃく})、和事・実事・所作事の名手3世坂東{ばんどう}三津五郎、実悪で名高い5世松本幸四郎(容貌{ようぼう}から鼻高{はなたか}幸四郎とよばれた)、『勧進帳』の弁慶や『四谷怪談』の伊右衛門を初演し諸役に優れた7世市川団十郎、世話物ことに怪談狂言の宗家{そうけ}といわれる3世尾上{おのえ}菊五郎、女方で生世話物ことに悪婆{あくば}役を創演した5世岩井半四郎(俳名・杜若{とじゃく})、上方風の音楽的な台詞{せりふ}・演出と写実芸ともに優れ黙阿弥の生世話物を主演して泥棒役者と異称された4世市川小団次(俗に名人小団次)らが活躍した。しかしこの期は、文化・文政の頂点を過ぎたとき、大きな屈折、すなわち天保{てんぽう}の改革による変容がおこる。1840年(天保11)に7世団十郎は能『安宅{あたか}』の作・演出を忠実に模した『勧進帳』を創演、やがて明治の松羽目{まつばめ}物や活歴{かつれき}劇につながる高尚優雅な歴史舞踊劇の一脈を創立し、続いて歌舞伎十八番を制定して江戸劇壇における市川団十郎宗家の権威を確定した。が、その翌年に起こった天保の改革は劇界にも波及し、まず1842年には、団十郎が本物の武具を芝居に用いたのはぜいたくでまた僭上のふるまいであるとの罪科で、江戸十里四方追放を申し渡された。この取締りは他の俳優にも及び、ことに風紀上の規律は峻厳{しゅんげん}を極めた。
さらに同年、現在の中央区にあった江戸三座に対して、当時へんぴな田んぼにすぎなかった浅草猿若町{さるわかまち}へ立退き移転が命じられた。古くから俳優は河原乞食{こじき}とよばれ、低い地位に甘んじた歌舞伎ではあるが、このときに至って遊廓{ゆうかく}と並ぶ「悪所場{あくしょば}」(悪所、悪場所とも)という扱いが決定的になったともいえる。それ以後は、1872年(明治5)に守田座が都心に進出するまでの30年間、この猿若三座時代が続く。しかし改革後も天保の取締りの余波を受けていた。黙阿弥の作風が南北に比べて様式化され、徹底した悪や奔放な描写に乏しいのも、こうした時代の風潮が大きく作用している。しかも1866年(慶応2)には4世小団次に対して、生世話物の描写を淡白にせよとの通告があり、その小団次がまもなく没したのを機に、黙阿弥の作風、ひいては歌舞伎界の空気はいっそう美化、様式化への傾向を強めた。そしてその方向は明治維新により決定的になっていく。
〔第五期・近代現代の百年〕 明治維新後のこの期は、文明開化・欧化改良の嵐{あらし}のなかで歌舞伎が新時代に順応する努力を試み、社会的地位向上を実現したが、しだいに庶民から浮き上がり、やがて新派、新劇などの発生により、逆に古典ないし伝統演劇として保存継承の道を定めてゆく過程である。
明治維新当時、歌舞伎は唯一の庶民の現代劇として生きており、維新後も数年間は幕末の猿若三座時代のままであった。新風のおこるのは1872年(明治5)で、その第一は12世守田勘弥{かんや}が守田座を都心に進出させたこと、第二は新政府が干渉を始めたこと、第三は西洋種{だね}の新作狂言が生まれたことであった。勘弥は現中央区の新富{しんとみ}町に進出して新しい観客をとらえ、そのうえ興行面でも改良を加え、少数だが外国人用椅子{いす}席を設けるなど、劇場および興行の近代化の第一歩を踏み出した。6年後にはさらに洋化を進めた改築を行い、ガス灯を点じ、洋楽・洋装による純洋式の開場式を催すなど新機軸を試みた。一方、政府の干渉は、歌舞伎を市民の教化と上流人の社交観光とに適合させようとするもので、旧幕時代の生世話物の濡れ場や殺し場の生々しい描写と、時代物における荒唐無稽{こうとうむけい}さを排し、史実第一主義の高雅な演劇、すなわち活{い}きた歴史劇「活歴劇」の創造を促した。これを積極的に受け入れ主演して、腹芸{はらげい}といわれる心理描写の系譜を樹立したのは9世市川団十郎であった。また西洋種の芝居の嚆矢は、スマイルズ著『西国立志篇{さいごくりっしへん}』による京都所演(1872)の2作『其粉色陶器交易{そのいろどりとうきのこうえき}』と『鞋補童教学{くつなおしわらべのおしえ}』だったが、翌年東京でも開化風俗を扱った黙阿弥作『東京日{にちにち}新聞』が大当りで、以後、断髪した人物が登場するなど新しい風物を描く散切{ざんぎり}狂言(散切物)の分野が5世尾上菊五郎らにより開拓されていく。活歴劇はいわば明治の時代物、散切物は明治の世話物で、ともに黙阿弥作品が多い。また彼の作による『紅葉狩{もみじがり}』『土蜘{つちぐも}』『船弁慶{ふなべんけい}』など能を忠実に摂取した新舞踊も、活歴と同じ精神によるものといえる。
明治10年代から20年にかけては、政府の欧化改良政策を反映して、劇界の洋化はさらに進み、政財学界人の介入も目だってくる。こうして外部の力が芝居に作用するのが明治の特色である。改良運動は、1886年の演劇改良会設立で頂点に達したが、翌年の天覧劇製作主催のほかはみるべき成果はなく、第一次伊藤博文{ひろぶみ}内閣退陣(1888)とともに消滅した。しかし、この会において国立劇場建設が具体的に企画され、女優やリアリズム演劇の導入、劇作家・俳優の地位向上など、多くの問題を提供した点で、近代演劇史上の意義が認められる。この会の消滅後、福地桜痴{ふくちおうち}らが歌舞伎座を建て、団十郎と結んで単独で活歴劇による改良を進めようとしたが、無味乾燥で不評に終わった。一方の散切物も、新派の日清{にっしん}戦争劇などに圧倒されて、これまた衰退、結局は活歴劇・散切物とも新派・新劇への過渡的存在にとどまり、歌舞伎改良も不徹底のまま終わった。
作者では黙阿弥が新時代順応の限界を悟ってすでに1881年に引退を声明していたが、その後もほかに人なきために執筆を続け、活歴劇、散切物、新舞踊劇のほか『河内山{こうちやま}と直侍{なおざむらい}』『髪結新三{かみゆいしんざ}』その他の名作を残した。門弟に3世河竹新七、竹柴其水{たけしばきすい}、河竹能進{のうしん}らがいたが、師の発展的継承はできず、やがて坪内逍遙{しょうよう}、松居松翁(松葉)、岡本綺堂{きどう}らの文学者による新歌舞伎にとってかわられる。すなわち、黙阿弥の死(1893)は生粋{きっすい}の江戸狂言作者の絶滅を意味し、さらに10年後(1903)の団十郎と菊五郎の死、翌年の市川左団次の死は、江戸歌舞伎役者の終焉{しゅうえん}であった。1904年(明治37)逍遙の『桐一葉{きりひとは}』が初演されたが、これ以後を近代歌舞伎とみてよいであろう。しかし新歌舞伎は、近代思想、近代的人間像を伝統歌舞伎の劇術で表現しようとする一つの分野として加えられたもので、もはや古典歌舞伎を変革改良しようとするものではない。これはその後今日まで貫かれてきた大原則である。
団菊左の死後は、歌舞伎座の盟主5世中村歌右衛門、帝国劇場の頭領6世尾上梅幸をはじめ、7世松本幸四郎、15世市村羽左衛門、7世市川中車、関西の初世中村鴈治郎{がんじろう}、11世片岡仁左衛門、2世実川延若{じつかわえんじゃく}らがあり、新しい演劇運動にも意欲を示した2世市川左団次、6世尾上菊五郎、初世中村吉右衛門{きちえもん}、13世守田勘弥、2世市川猿之助(のちに猿翁{えんおう})らが活躍した。その動向は6世中村歌右衛門、中村勘三郎、尾上松緑、7世梅幸、13世仁左衛門その他に及んでいる。なお、明治末から大正・昭和にかけての著しい動きとしては、2世左団次の自由劇場運動、菊五郎・吉右衛門の二長町{にちょうまち}(市村座)時代、勘弥や猿之助による文芸的戯曲(菊池寛・山本有三・谷崎潤一郎ら)の上演、河原崎長十郎・中村翫右衛門{かんえもん}らの前進座独立、6世菊五郎の俳優学校などがあるが、芸術としての歌舞伎の大きな流れは変わらなかった。1910年に関西から進出した白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の松竹合名社は、新富座をはじめ次々に東京の劇場を買収し、近代企業的経営により興行法を一変、未曽有{みぞう}の歌舞伎王国を築いた。しかし、スター本位で、見せ場中心羅列主義の傾向が助長されたことも否定できない。
第二次世界大戦直後には、占領軍当局の弾圧により歌舞伎の危機が叫ばれた。仇討{あだうち}物や残酷場面は上演禁止となり、一時は滅亡が伝えられたが、関係者(主軸俳優、大谷竹次郎、河竹繁俊{しげとし}ら)の努力の結果、1947年(昭和22)11月『忠臣蔵』の完演許可をもって全面的に解禁となった。現在は明治以来の検閲もなくなり、自由な演出が可能となっているが、1966年11月の国立劇場開場は、古典としての伝承という方向を打ち出している。開場当初は古い作品の発掘復活も含めて通し狂言一本立ての方針をとり、スペクタクルのみならずドラマとしての歌舞伎の生命の回復を試みたが、しだいに松竹の興行と大差ない狂言の配列に転じてきた。また2世左団次の訪ソ(1928)に始まる海外公演も、第二次大戦後、アメリカ、ソ連(当時)、ヨーロッパ、中国、オーストラリアなど各地を回り、日本の伝統的演劇としてのみならず、世界の文化財としての評価も高まってきている。
【歌舞伎の内容と様式】
〔劇場・舞台・観客〕 歌舞伎の劇場や舞台は能の模倣に始まり、前述のように18世紀末には完全にこれを脱却、独自の諸機構を備えるに至った。
舞台はまず花道と回り舞台を第一の特色とする。花道は「纏頭{はな}」(祝儀)を贈る道の意味から転訛{てんか}したとされるが、その機能は単なる役者の登退場口ではなく、客席を貫き、観客との至近距離における共感交流を実現するところにある。観客は一桝{ます}4人か6人の桝席に、たばこ盆を中にして座り、酒肴{しゅこう}を楽しみ、ひいき役者の屋号を大声で呼びながら芝居を見たのである。当時のプレイガイド兼料理屋であった芝居茶屋から、俗に「かべす」と呼び習わした[_菓]子、[_弁]当、[_す]しなどを取り寄せ、長い幕間{まくあい}には茶屋で休んで衣装をかえ、二の膳{ぜん}付きの料理を食べるという習慣もあった。芝居小屋は単なる観劇の場ではなく、人気役者との交歓の場であり、供宴の場であった。それは遠く阿国{おくに}歌舞伎や若衆{わかしゅ}歌舞伎の時代に、役者が売色を兼ねたことと無関係ではない。遊廓{ゆうかく}とともに「二悪所」として幕府の取締りの対象になった大きな理由も、そこにあった。しかし、明治以後の近代化の結果、花道は残ったが、茶屋制度は漸減し、やがて消滅、桝席も関東大震災(1923)後は椅子{いす}席にとってかわられ、現在2、3の劇場の桟敷{さじき}におもかげをとどめる程度である。これは歌舞伎本来の機能からみれば退化といわねばならない。回り舞台は単に場面転換が早いという実用目的だけでなく、舞台を明るいまま回して場面の推移そのものや、変化する場面の対照による劇的効果にも大きな意味がある。たとえば『四谷怪談』における伊右衛門{いえもん}の貧家と、隣の喜兵衛邸の華やかな奥座敷との回り舞台による再三の対照が、お岩悶死{もんし}の陰惨な局面をいかにも際だたせている。
花道と回り舞台は、ともに自然主義リアリズムとは別系統の、いわばバロック的な演劇性、劇場性の現れといえる。上手{かみて}(観客席から見て舞台の右手)のチョボ(義太夫{ぎだゆう})床{ゆか}、下手{しもて}(同じく左手)の黒御簾{くろみす}(お囃子{はやし}部屋)の常設は、さらに歌舞伎の音楽劇的性格を示している。ほかに大小数個のせり上げ装置、花道に付設した「すっぽん」とよぶ小さい[_せり]、早替り用の仕掛け、舞踊劇のときに音楽奏者のために本舞台上に仮設される出語り・出囃子のための山台{やまだい}・雛壇{ひなだん}など、歌舞伎の舞台は多くの細部機構からなる。中世武家の感覚で洗練された能が万事に象徴化を旨としたのに対して、歌舞伎舞台は庶民の求めた現実性や即物的な感覚を反映している。舞台も客席にやや張り出し、公認の大劇場ではもっぱら3色(黒・暗緑色・柿{かき}色)染分けの引幕{ひきまく}を用い、今日の額縁舞台で緞帳{どんちょう}(カーテン)も併用されるのは明治以後のことである。
〔作品〕 本来、歌舞伎は歌舞に発したもので、文学的戯曲が先に存在したのではない。したがって、初めは簡単な口立{くちだ}て式で、やがて荒事{あらごと}や傾城買{けいせいかい}狂言が成立、さらに浄瑠璃{じょうるり}が導入されて発展し、後期江戸世話物と所作事{しょさごと}で大成された。これらの狂言を分類すると、義太夫狂言(丸本物{まるほんもの})と純歌舞伎狂言とに分けられる。『忠臣蔵』『菅原{すがわら}』『千本桜』『妹背山{いもせやま}』『一の谷』などは前者、『助六{すけろく}』『鳴神{なるかみ}』『暫{しばらく}』その他の歌舞伎十八番や『五大力{ごだいりき}』『四谷怪談』『弁天小僧』などは後者にあたる。しかし、普通はそのおもな登場人物の属する時代、世界、事件の展開する環境などから、時代物と世話物に分け、さらに舞踊劇と新歌舞伎のジャンルを加えるのが便宜である。
〔時代物〕公家{くげ}や武家の世界を描いたもので、さらに細分すれば次の三種となる。(1)王代(王朝)物 平安末までの貴族・公家の世界(妹背山、菅原、芦屋道満大内鑑{あしやどうまんおおうちかがみ}、伊勢{いせ}物語など)
(2)狭義の時代物 源平から戦国にかけての戦乱武将の世界(義経千本桜、一谷嫩軍記{いちのたにふたばぐんき}、絵本太功記、俊寛、ひらかな盛衰記、廿四孝{にじゅうしこう}など)
(3)御家物 江戸時代の御家騒動の世界(先代萩{せんだいはぎ}、加賀見山、忠臣蔵など)。なお明治に生まれた活歴劇も時代物に加えてよい。
〔世話物〕江戸・京坂の庶民を扱ったもの。細分して、普通にいう世話物と生世話{きぜわ}物となる。前者には『曽根崎心中{そねざきしんじゅう}』『心中天網島{てんのあみじま}』『梅川忠兵衛』など近松系のものや、まっとうな世界を扱ったもの。生世話物は、化政{かせい}期(1804〜30)以降の江戸の下層社会をリアルに描いたもので、『四谷怪談』『お染の七役』や『三人吉三{さんにんきちさ}』『村井長庵』『弁天小僧』のような白浪物が大きな部分を占める。『霜夜の鐘』や『島ちどり』のような明治風俗を扱った散切{ざんぎり}物も新世話物としてここに加えられよう。
〔舞踊劇〕所作事。長唄{ながうた}、常磐津{ときわず}、富本{とみもと}、清元{きよもと}、あるいは竹本{たけもと}(義太夫節)など、三味線曲によって分類することができる。原拠からみれば、まず『娘道成寺』『紅葉狩{もみじがり}』のような能取り物、そのなかには『土蜘{つちぐも}』『船弁慶{ふなべんけい}』のような松羽目{まつばめ}物や『身替座禅{みがわりざぜん}』『棒しばり』のような松羽目狂言舞踊がある。次に長い劇の舞踊場面を独立させたもの、たとえば『道行初音旅{みちゆきはつねのたび}』(千本桜のなか)、『道行旅路花聟{たびじのはなむこ}』など、さらに純歌舞伎舞踊の『関の扉{と}』『六歌仙{ろっかせん}』などに分けることもできる。
〔新歌舞伎〕前に述べたように明治以後の、劇場の内部にいる座付狂言作者でない近代作家の作をさす。おもな作家と作品は、坪内逍遙{しょうよう}(桐一葉{きりひとは}・沓手鳥孤城落月{ほととぎすこじょうのらくげつ})、松居松葉(悪源太)、岡本綺堂{きどう}(修禅寺物語・鳥辺山心中・番町皿屋敷・権三{ごんざ}と助十)、岡村柿紅{しこう}(身替座禅)、榎本虎彦{えのもととらひこ}(名工柿右衛門)、岡鬼太郎{おにたろう}(今様薩摩{いまようさつま}歌・御存知東男{ごぞんじあずまおとこ})、池田大伍{だいご}(名月八幡祭{はちまんまつり}・西郷と豚姫)、長谷川伸{はせがわしん}(一本刀{いっぽんがたな}土俵入・瞼{まぶた}の母)、真山青果(玄朴と長英・江戸城総攻{そうぜめ}・元禄{げんろく}忠臣蔵)などである。これらは明治・大正から昭和の戦前にかけての新歌舞伎で、2世左団次のために書き下ろされたものが多い。ほかに大正後期には、のちに小説家として大成する作家の文学的戯曲がかなり上演された。菊池寛(父帰る・屋上の狂人)、山本有三(同志の人々・坂崎出羽守{でわのかみ})、谷崎潤一郎(お国と五平・恐怖時代)などで、6世菊五郎、13世勘弥、2世猿之助(猿翁{えんおう})らがこれらの作に活躍した。なお昭和期には、戦前6世菊五郎のために書き、戦後も最近まで作家活動を続けた宇野信夫{のぶお}(巷談宵宮雨{こうだんよみやのあめ}・柳影沢蛍火{やなぎかげさわのほたるび})のほか、戦後に舟橋聖一(源氏物語)、大仏{おさらぎ}次郎(若き日の信長)、北条秀司{ひでじ}(狐{きつね}と笛吹き・浮舟)、三島由紀夫(鰯売恋曳網{いわしうりこいのひきあみ})などの作品が加えられている。以上の多くは現在なおときおり復演され、新歌舞伎という一ジャンルをつくっているが、歌舞伎のための新しい作家はなかなか現れず、現在では野口達二(富樫{とがし}・陸奥{みちのく}の義経{よしつね})以外にめぼしい新進作家がいない。
〔作劇の特質〕 古典作品は明治以降、西洋の合理的尺度からは荒唐無稽{こうとうむけい}であると非難された。確かに花川戸の助六が実は曽我{そが}の五郎であったり、史実で死んだはずの平知盛{とももり}が船問屋の主人になって生き延びていたりする。また大石内蔵助{くらのすけ}は大星由良之助{ゆらのすけ}、浅野内匠頭{たくみのかみ}は塩冶判官{えんやはんがん}、羽柴{はしば}秀吉は真柴久吉{ましばひさよし}という名で現れ、その久吉が石川五右衛門と京都の南禅寺で出会ったりする。しかし、これにはそれぞれ理由があった。助六は江戸の町人だが、当時は、町人の芝居は時代狂言ことに御家騒動物の世界の一部として書くべしという不文律があったのである。そこで、いわゆる「綯{な}い交{ま}ぜ」の手法が用いられた。2世並木正三は著書『戯財録{けざいろく}』のなかで、「世界は竪筋{たてすじ}、趣向は横筋」と述べ、例として「太閤記の世界に石川五右衛門の趣向を横筋として入れる」ことをあげている。並木五瓶{ごへい}が二番目を独立させたのちにも、随時この方法は使われた。『四谷怪談』が化政(文化・文政)期の世相人心を扱いながら、劇的世界としては『忠臣蔵』の世界に設定されているごときである。また、名を変え、時代を変えるのは、幕府の取締りを逃れるためであった。
綯い交ぜ式はことに江戸市民の夢幻や奇想天外を好む気風の反映でもあり、上方{かみがた}は浄瑠璃にみられるように、より合理的な構成をもつ。それでも西洋の三単一(時・所・筋の単一性)を基調とする近代自然主義的なリアリズム戯曲などに比べれば、荒唐無稽というべき一面をもっている。しかし、江戸時代の民衆にとっては、その合理性よりもフィクションがたいせつで、さらに役者の芸を中心とする演劇としてのダイナミックなおもしろさ、舞台とともに遊ぶ供宴性、各局面ごとに発散される人情の真実と官能の陶酔のほうがはるかに貴重だったのである。それは、歌舞伎脚本が、ト書{がき}にせよドラマ自体にせよ、細部までは書ききっておらず、多くを役者の演技にゆだねていることにもうかがえる。
〔俳優〕 とくに歌舞伎では、役者すなわち俳優の比重が非常に大きい。社会的には河原者{かわらもの}、河原乞食{こじき}とよばれ、士農工商の下に甘んじたが、江戸庶民にとってはあこがれの的であり、流行の源泉でもあった。役者絵や芝居絵が遊女の絵と並んで江戸美術の中心をなし、役者の名をとった吉弥{きちや}結び、市松{いちまつ}模様、三升格子{みますごうし}、路考茶{ろこうちゃ}、芝翫香{しかんこう}から現代の扇雀飴{あめ}に至るまで、その風俗的な広がりは大きい。
各時代の名優や芸統などは歴史の項で記したとおりだが、古くはいずれか一つの役柄を専業とするのが原則であった。これは西洋でもギリシアやローマのミモス(職業的大衆劇)の流れをくむといわれるイタリアのコメディア・デラルテなどにもあり、即興劇的起源をもつ職業劇団には一般にみられることである。役柄には立役{たちやく}(和事{わごと}・実事{じつごと}・武道事{ぶどうごと}・ピントコナなど)、女方{おんながた}(女形)、敵役{かたきやく}(実悪{じつあく}・実敵・色悪・立敵・平敵・端敵{はがたき})、若衆方(二枚目)、道化{どうけ}方(道化・半道敵{はんどうがたき})、親仁{おやじ}方、花車{かしゃ}方、継母方などがある。のちには「加役{かやく}」と称して本来の専門のほかに「兼ねる」ことが行われるようになった。6世菊五郎は近代の代表的な兼ねる役者である。なお、歌舞伎の女方の芸は、いったん阿国などの女性芸能が普及し禁令を受けたのちに発達したところに特徴がある。日本・西洋とも、中世末までは宗教的な理由で、公認の演劇はもっぱら男優が演じていた。シェークスピア劇さえも女役は少年俳優が演じたくらいで、男が女に扮{ふん}すること自体はごく一般的なことであった。しかし、歌舞伎の女方は、すでに女性の官能的魅力とリアリティーを享受したのちの江戸の庶民を観客にもち、その嗜好{しこう}に投ずべくくふうしなければならなかった。名女方の芳沢{よしざわ}あやめが芸話集『あやめぐさ』のなかで、女方は日常生活でも女性であれと教えたのは、そうした要請によるものであり、女性以上の女らしさをとらえ、強調し、典型的に表現する女方の演技が訓練された。
俳優は世襲的で、役柄もまた世襲のケースが多く、芸名のほかに歌舞伎独特の屋号をもつ。これは、士族でないのに姓を名のることに対する憚{はばか}りに基づいている。屋号にはそれぞれゆかりがあり、代々の団十郎が成田{なりた}(不動尊)信仰にちなんで成田屋というごとくである。ほかに俳号や筆名ももち、たとえば初世団十郎は、芸名と屋号成田屋、俳号才牛{さいぎゅう}に作者名三升屋兵庫{みますやひょうご}と四つの呼び名をもっていた。世代数としては現在、中村勘三郎と市村羽左衛門の17世がもっとも多い。なかには初世中村仲蔵や4世市川小団次、初世左団次、初世中村吉右衛門のように、さしたる名家でなくて座頭{ざがしら}級の名優になった例もある。今日では、主として興行政策から襲名披露が華々しく行われるが、一方で脇役{わきやく}や馬の脚{あし}その他、歌舞伎演技の底辺を支える俳優の重要性が叫ばれている。国立劇場では、中学卒業を資格とする一般応募者を求めて、俳優養成機関を開設しているが、これは世襲制とともに将来の重要課題とされ、成果が注目されている。
〔演出〕 歌舞伎は演目により演出様式が異なる。義太夫狂言はチョボの語りによって音楽化され、世話物はせりふとしぐさ主体で、はるかに写実的である。同じ世話物でも江戸と上方では情調が違うし、時代物でも江戸の荒事と義太夫狂言とではまたまったく異なる。しかし、そうした個々の差を越えて歌舞伎演出の特色といえるのは、いわゆる「様式性」ということである。舞台機構にもみられるように、自然主義的写実でなく、三味線を基調とする複雑多彩な音感と、絵画的構成と色彩感を重視する視覚性とによって、一種の表現主義的ともいうべき準音楽的総合芸術をなすことである。荒事における隈取{くまどり}の誇張された化粧法、見得{みえ}という静止的演技、その瞬間を強調するために打ち込む「ツケ」という木片の激しい音などは、その現れといえる。リアルを本領とする江戸の生世話物でさえも徹底した写実でなく、肝心のところや幕切れなどはかならず様式化されている。『三人吉三』大川端のお嬢吉三の七五調の台詞{せりふ}や、出会いの場の3人の見得、あるいは『弁天小僧』稲瀬川勢揃{いなせがわせいぞろ}いの場などはその例である。
音楽的ということは、台詞もメロディーをもち、動作も舞踊を基礎としたある律動と形容をもつことにも示されている。この音楽性と舞踊性は、阿国や若衆歌舞伎の時代から貫かれている歌舞伎の芸の本質といえるであろう。濡{ぬ}れ場、口説{くどき}などはもちろん、極端な場合として、殺伐なる立回り(乱闘)や殺し場でさえ、音感と様式的動作によって美化されているのである。主役を浮き出させることも歌舞伎演出の重要な一面である。豪傑が見得を切ると、敵方の兵卒たちが口をそろえて「でっけえ」とほめたり、花道に立つ主人公に「面明{つらあか}り」(差出し)という蝋燭{ろうそく}を用いてスポットの役を果たしたり、厄{やく}払い・つらねなど長い独白を朗々と述べることが局面の中心をなすなど、役者の柄と芸をもっとも有効に見せることにくふうが払われる。
音楽は、義太夫狂言における床{ゆか}の語りを除くと、二つに大別される。一つは所作事のときに雛壇や山台に乗って舞台に姿を見せて演奏する三味線音楽と鳴物連中で、それぞれ「出語り」「出囃子{でばやし}」という。他は陰囃子{かげばやし}で、普通、下(外)座{げざ}音楽というが、黒御簾{くろみす}の中で演奏するので「黒御簾音楽」ともいわれる。これには「踊り地」「めりやす」「陰」の3種がある。ここには三味線のほか、大太鼓、各種の鼓、笛、釣鐘、鉦{かね}、銅鑼{どら}、双盤{そうばん}、木魚、四つ竹、木琴、胡弓{こきゅう}、拍子木その他、あらゆる楽器が備えられている。そして歌舞伎の即物的様式性は、大太鼓一つで攻め太鼓はもちろん、雨、風、波、深山幽谷のような自然現象の、擬音的でしかも象徴味の濃い表現や、音のない雪とか幽霊出現の予兆のような、情景や雰囲気をかもしだす音響効果などまで、何十種もの音を使い分けることにもうかがえる。そして上手の幕の陰で打つ拍子木の響きが開幕と閉幕を告げるのである。
様式性ということとともに、歌舞伎の演出構成上の重要な特質は、見せ場(局面、趣向といってもよい)を主体として、これが筋によって運ばれていくという形をとることである。たとえば「縁切り物」といわれる芝居なら、見染{そ}め、恋慕から遊里での愛想{あいそ}づかし(縁切り場)、殺し場……と展開するのが定法である。見せ場には、これらの縁切り場や殺し場のほか、濡れ場、責め場、強請{ゆす}り場、愁嘆場などいろいろあり、だんまり、髪梳{かみす}き、切腹、道行、仇討{あだうち}、対決などの局面もやはり見せ場の典型である。歌舞伎の演技演出の様式も、実はこうした見せ場を核としてくふう、洗練が重ねられて成立したのであって、極言すれば、筋は、これらの見せ場をつなぐ団子の串{くし}のようなものといってもよい。
音楽・舞踊をふんだんに盛っての様式性、花道・回り舞台ほかさまざまの舞台機構や仕掛け物を用いての変幻自在さ、けれんや妖怪{ようかい}出現まで駆使しての奇想天外なスペクタクル的おもしろさなど、これらの特質を総合して世界演劇のなかに歌舞伎を置いてみれば、前述のようにコメディア・デラルテやドイツ・バロック、スペイン劇、シェークスピア、ないしは近代ではラインハルト、クレイグ、メイエルホリド、ブレヒトなどに通じる反古典主義・反自然主義の演劇、いわゆるバロック的演劇の系譜に入れられるべきものであろう。自然主義リアリズムに行き詰まった西洋近代演劇が、歌舞伎に新鮮な驚異を感じたのは、日本の風土的エキゾチシズムだけではなく、このような演劇性に前衛性をみたからと思われる。
〔歌舞伎と社会〕 歌舞伎と近世社会の密接な関係についてはすでに述べたが、歌舞伎は町人の生活の一部であった。それは、歌舞伎にみられる季節感、それに関連して行われていた「芝居年中行事」としての興行制度にも端的に示されている。各座の俳優雇用契約期間は1年で、更新は旧10月の座元たちの合議により行われた。新しい座組{ざぐみ}で開場するのは11月で、これがすなわち「顔見世{かおみせ}狂言」であった。顔見世の初日は、暗いうちから舞台を清め、座元が「翁渡{おきなわた}し」と称して三番叟{さんばそう}を舞い、1年間の繁盛を祈願する。そこで「顔見世や一番太鼓二番鶏{どり}」の句も生まれた。団十郎の出演するときは、かならず『暫{しばらく}』が上演された。次は1月の初春狂言(関西では二の替りという)で、『曽我{そが}の対面』などの祝儀物がかならず一つは出た。3月が弥生{やよい}狂言で、『助六由縁江戸桜{ゆかりのえどざくら}』のように桜にちなむ狂言や、御殿女中の宿下りを当て込んでの『加賀見山{かがみやま}』『先代萩{せんだいはぎ}』のような局{つぼね}・腰元の出る御家物がよく上演された。5月は皐月{さつき}狂言とよばれるが、向暑の季で、そう重要ではなく、梅雨{つゆ}があけて盆になると盆狂言、また夏狂言として怪談物や水狂言(本水{ほんみず}を使う芝居)が出る。立作者や高級役者は休み、値安興行だが、若手や下級の人々の技量の見せ所、登竜門でもあった。9月は秋狂言で、1年間の最後の興行なのでお名残{なごり}狂言ともいう。しっとりと重厚な義太夫狂言を出し、名残にちなんでの「子別れ」物、たとえば『葛の葉{くずのは}』『重の井{しげのい}』などが演じられた。このような年中行事は民間の祭礼や季日に並行したもので、庶民生活との関係の深さが知られる。幕末も嘉永{かえい}(1848〜54)ごろからは騒然とした社会情勢に伴って民間行事も乱れがちとなり、興行のたて方も前記のような秩序が崩れていった。まして冷暖房の完備した今日は、顔見世、初春といっても興行政策上のタイトルにすぎない。なお、興行は、各座元(座主)が金主(金方)からの借金によって行ったが、赤字が続くと名義を変更し改めて借り入れて挽回{ばんかい}を図り、清算が済むとまた元の名に戻るという方法がとられた。その別名義を控櫓{ひかえやぐら}といい、中村座の控櫓は都座、市村座のは村山座または桐{きり}座、守田(森田)座のは河原崎座であった。
〔歌舞伎と現代〕 歌舞伎は明治維新以来の日本の近代化のなかで、複雑な曲折をたどったすえ、今日ではまず第一に古典的様式を保存継承さるべき伝統演劇として位置づけられている。その経緯は「歴史」の項で述べたとおりだが、他面において歌舞伎は、新作の上演、観客の質や上演時間の変化に対応しての古典の添削補綴{ほてい}などにより、生きた現代演劇としての発展にも努めている。さらに近年は新劇・前衛的演劇などの現代演劇とも交流を深め、また国際交流の活発化を背景として、演技演出のうえでも西洋演劇に影響を及ぼすなど、著しく貢献しつつあり、世界的価値を認められるに至っている。
日本においては、明治の演劇改良運動以来、歌舞伎は急速にその社会的地位を高めたが、第二次世界大戦後は文化国家としての日本の政策にも促されてその傾向は進んだ。俳優のなかから芸術院会員、文化勲章受章者が続出し、伝統歌舞伎保存会が設立され、音楽まで含めて人間国宝(重要無形文化財保持者)の国家指定を受けるなどはその現れである。国立劇場の設立、その機能の一つとしての俳優その他の養成機関の設置などにも、文化的役割の重要性の認識が反映している。戦後いち早く発足して現代も続けられている東京都教育委員会・都民劇場・松竹主催の「子供かぶき教室」や、国立劇場の「学生のための歌舞伎教室」、文化庁主催の青少年芸術劇場や移動芸術祭における歌舞伎地方巡演、NHKの学校放送や舞台中継なども、若い観客の育成による伝統歌舞伎の発展的継承に大きく寄与している。
現代演劇への寄与としては、明治以来シェークスピアはじめ西洋演劇の翻案・翻訳上演などにより、新派・新劇への橋渡しの役割を担ったが、近年はさらに積極的に現代演劇の世界に関与・参加するようになった。9世松本幸四郎のミュージカル進出、故17世中村勘三郎・故2世尾上松緑・15世片岡仁左衛門・5世坂東{ばんどう}玉三郎らのシェークスピア劇や現代劇への出演などはその一例にすぎない。多くの人気俳優のテレビ出演も盛んで、それが歌舞伎の現代観客獲得に役だっている面もある。一方、新劇・前衛演劇の側からの歌舞伎評価、摂取への動きも見逃せない。たとえば、俳優座、青年座、早稲田{わせだ}小劇場などによる『四谷怪談』など南北作品の実験的上演は、近代リアリズムにはなかった歌舞伎の手法に新しい光をあて、未来の演劇にとっての歌舞伎の意義を改めて認識させた。
近代リアリズム、西洋演劇と違う歌舞伎の特質は、明治以来、部門的には外国に注目され、摂取もされていた。ラインハルトによる回り舞台の応用と発展、メイエルホリドによる花道式の演出などはその例で、エイゼンシュテインを通じ映画にも影響を与えた。しかし歌舞伎の特質が全体としてとらえられ、総合演劇あるいは全体演劇{トータル・シアター}の一つの典型として評価されるようになったのは、1960年(昭和35)以降である。この年実現した史上初のアメリカ公演以来頻度を増した海外公演と、それに伴って外国人研究者が急速に増しつつあることが、その要因である。ことに海外で『忠臣蔵』『俊寛』などのドラマものが絶賛されたことは、独自な美とともに、人間の劇としての普遍性、質の高さを自他ともに認識させた。1980年代に入ってからは、単に鑑賞だけでなく、深く研究し実践的に習得摂取しようとする姿勢が強まっている。現(3世)市川猿之助による西欧演劇人対象の研修教室の盛況、1983年ウィーン大学演劇学研究所におけるヨーロッパ日本演劇研究センターの創立、ヨーロッパ歌舞伎研究会議の発足などは、その現れである。また西欧の舞台におけるせり上げ・せり下げ、黒衣{くろご}の実験的使用、立回りや落入り(死)場面における様式的演技などに、回り舞台や花道応用以来の歌舞伎劇術摂取も、近年とみに活発になっている。
このように歌舞伎は現在、能・狂言・文楽{ぶんらく}と並ぶ伝統演劇としての地位を確立するとともに、内外において現代・未来の演劇に寄与する演技演出の様式の宝庫としても、重要な意義をもつ舞台芸術となっている。 <河竹登志夫>
【本】戸板康二他編『名作歌舞伎全集』全25巻(1969〜72・東京創元社) ▽戸板康二著『歌舞伎への招待』正続(1950、51・暮しの手帖社) ▽郡司正勝著『かぶき――様式と伝承』(1969・学芸書林) ▽河竹繁俊著『歌舞伎史の研究』(1943・東京堂出版) ▽守随憲治・秋葉芳美著『歌舞伎図説』(1931・万葉閣) ▽伊原敏郎編『歌舞伎年表』全8巻(1956〜63・岩波書店) ▽役者評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』(第2期)10巻・別巻1(1987〜95・岩波書店) ▽服部幸雄他編『歌舞伎事典』(1983・平凡社) ▽河竹登志夫著『比較演劇学』正続(1967、74・南窓社)
日本大百科 ページ 12886。