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ロンドン🔗🔉

ロンドン (ろんどん) London イギリスの首都。イングランド南東部、テムズ川河口から約60キロ上流に位置する。このテムズ川のもっとも下流部の渡河地点という立地条件に加え、温暖な気候、大陸への近さなどの自然条件がロンドンを生み、現在の大都市としての発展を促した重要な要因となっている。  イギリスの長年にわたる首都として、政治、経済、文化などのあらゆる活動が集中するだけでなく、イギリス連邦の中心として、また世界経済、とくに金融・保険業、海運業等の中枢として重要な役割を演じてきた。このため、ここで日夜営まれる各種活動に従事し生活する人々の数は膨大な量に達する。大ロンドン県(自治体機能は1986年廃止)とよばれた市街地部分は、面積1580平方キロ、人口669万6008(1981)。これは全国人口の12%にあたり、東京、ニューヨークと並び世界の三大都市の一つに数えられている。市内には近年急速に高層ビルが増え、高速道路が中心部に乗り入れるなど、ロンドンの景観は変わりつつあるとはいえ、裏通りにはなお19世紀の雰囲気も残っている。植民地からの富で築き上げられた19世紀のロンドンは、一方ではフランスのナポレオン3世にパリ改造を決意させる直接のきっかけとなった壮麗さを誇るとともに、他方では「この世の地獄とはロンドンのような町のことだ」という詩人シェリーの嘆きが示すように、すでに過大化による大都市の弊害に悩まされ、そのいくつかを20世紀に持ち越すことになったのである。古さと新しさの調和・融合は現在のロンドンに大きな魅力を与えているが、反面、このような多くの性格を同時に抱え込むことで、他の大都市にはみられない複雑な問題の解決も迫られている。 〔市街〕 ロンドンとよばれる地域は単一ではなく、ロンドンの名をもつ地域には次の三つがある。 〔1〕もっとも内側の政治、経済、文化など、ロンドンを代表する活動が集まる都心地区はセントラル・ロンドンとよばれ、その核となるのがシティである。 〔2〕セントラル・ロンドンの外側にも連続市街地が広がるが、この両地域をあわせて大ロンドンGreater Londonとよぶ。旧大ロンドン県の行政区域はほぼこの範囲と一致していた。旧大ロンドン県には、シティ・オブ・ロンドン(これを通常シティとよび、中世以来の自治特権の一部が残されている)と、その周辺にシティ・オブ・ウェストミンスターなどのバラboroughとよばれる32の行政体がある。これら計33の行政体のうち、都心部に相当する14行政体をインナー(内部)・ロンドン、その外側を囲む19の行政体をアウター(外部)・ロンドンとよぶ。 〔3〕大ロンドンは周りを取り巻くグリーン・ベルトで外側の市町村と遮断されているが、ロンドンの通勤圏はグリーン・ベルトの外側にまで広がる。このため、通勤圏も含む中心市街地と一体となって活動する広い範囲は一般にロンドン大都市圏London Regionとよばれ、面積は1万621平方キロ、人口1207万(1981)に達する。→都市計画  以下、セントラル・ロンドンとイースト・エンドについて、市街の概要を述べる。中心市街地の主要鉄道ターミナル駅を結んだ線の内側がセントラル・ロンドンで、経済の中心シティと、政治の中心ウェストミンスター地区およびロンドン第一の繁華街を含むウェスト・エンドからなる。 〔シティ〕 シティはロンドン発祥の地で、長い自治の伝統を誇り、いまも独自の市議会をもち、ロード・メイヤーとよばれる市長を選挙するなど多くの特権を有する。面積はわずか約2.7平方キロ、夜間人口は1万人に満たないが、ここには世界の一流商社、銀行、保険会社などが集中し、昼間は30万人を超えるホワイトカラーで活気を呈する。第二次世界大戦中、空襲で大きな被害を受けたが、セント・ポール大聖堂、ギルドホールなど近世の優れた建物がまだ残り、2000年前の城壁・城門の一部も遺跡としてオフィス街に保存されている。しかし、1960年代以降、建物の高層化が目覚ましく、19世紀以前のロンドンのイメージは高層ビル群の谷間に消えてゆきつつある。とくに空襲で廃墟{はいきょ}と化した中心部のバービカン地区では、60年代以降、大規模な再開発事業が進められ、多くの住宅、コンサート・ホール、劇場、学校などを立体的に組み合わせた近代的な街区につくりかえられた。シティの中央を東西に走るキャノン街の西に続くフリート街には内外の新聞社、通信社の本社・支局が軒を連ね、新聞街を形成する。フリート街の西端がシティの西の境で、この一帯には最高裁判所をはじめ法曹界の機関・団体が多い。 〔ウェストミンスター〕 フリート街の西に続くストランド通りを経てさらに西へ行くと、ネルソンの銅像と噴水とハトで有名なトラファルガー・スクエア(広場)へ出る。ここから南へ下れば官庁街のホワイトホールに至り、アドミラル・アーチをくぐり西へ美しい遊歩道のマルThe Mallを行けばバッキンガム宮殿に達する。ホワイトホールを中心とする一帯は中世に政治の中心として開かれたウェストミンスター地区で、国の中央省庁、首相官邸などが並び、官庁街の南に接してウェストミンスター寺院、時計塔のビッグ・ベンで親しまれる壮麗なゴシック様式の国会議事堂が偉容を誇る。バッキンガム宮殿の周りには大公園が多く、北西側に位置するハイド・パークは146ヘクタールの広さがあり、隣接するケンジントン・ガーデンズとあわせると総面積は249ヘクタールに及ぶ。 〔ウェスト・エンド〕 シティの西に広がる一帯はウェスト・エンドとよばれ、街路も整い建物もそろっているが、これはこの一帯が当初シティの富裕な商人の郊外住宅地として開かれたためである。しかし、現在ウェスト・エンドは高級商店、ホテル、劇場、その他各種サービス産業が集中するロンドン第一の繁華街を抱え、ボンド街、リージェント街などはとくに名高い。その心臓部にあたるのが「エロスの像」で知られるピカデリー・サーカス(広場)である。東寄りのホルボーン地区は、大英博物館やロンドン大学がある静かな文教地区である。「計画的につくられず、ただ大きくなっただけの町」と酷評されるロンドンでは、このホルボーン地区は近代的都市計画に基づいてつくられた数少ない市街地で、整然とした街路や緑の小公園が美しい街並みをつくりだしている。これらの小公園や、ハイド・パーク、リージェント・パーク(197ヘクタール)、リッチモンド・パーク(1000ヘクタール)などの市街地の大公園は、集合住宅に住むロンドン市民の心身の健康維持に欠かせないものである。  シティの東には、テムズ川沿いの東の端に有名なロンドン塔があり、その背後にテムズ川に架かるタワー・ブリッジが見える。11世紀にウィリアム1世が築いたロンドン塔は、初めは城塞{じょうさい}、王宮として使われたが、のちに政治犯の牢獄{ろうごく}となり、多くの血なまぐさい歴史を残した。とくに断頭台の露と消えた王族・貴族の物語は、いまもここを訪れる人々の涙を誘っている。 〔イースト・エンド〕 タワー・ブリッジの下流両岸には、荷扱い量ではイギリス最大の港であるロンドン港がある。テムズ川の干満差が数メートルに及ぶため、巨大な閘門{こうもん}式ドック群が建設され、戦前は大型船も入港したが、戦後斜陽化が著しく、ドック地帯は荒廃した。このため、1970年代後半以降、大規模な再開発が進行中で、すでにオフィスビル群が出現している。戦前、このドック地帯には港に結び付いた倉庫業や各種軽工業が集まり、周辺に下級労働者の町が発生、一帯はイースト・エンドとよばれたが、生活環境が悪かったためイースト・エンドはスラムの別名となった。第二次大戦後の戦災復興事業でイースト・エンドは面目を一新した。テムズ川の南岸地帯は工場や労働者の住宅が多い新興の市街地であるが、その発展はテムズ川に多くの橋が架けられた19世紀以降のことである。 〔産業〕 減少ぎみとはいえ、なお700万人近い人口を抱えるロンドンは多様な産業をもっている。大ロンドンの雇用者総数は351万300人で、その内訳をみると、サービス業が256万人(75.4%)と圧倒的に多く、ついで製造業が96万5000人(18.5%)、建設業・鉱業などが21万1000人(6%)となっている(1981)。雇用者総数最大のサービス業について、さらにその内訳をみると、専門的サービス、商業、金融・保険、輸送・通信の順に上位を占める。第二次世界大戦前には世界の海運、金融・保険の中心として栄えたが、戦後はアメリカ、1970年代以降は日本の台頭でその比重は低下している。しかし、現在もECや第三世界相手の貿易・金融活動では重要な地位を占めている。またロンドンは2000年に及ぶ歴史的遺産や文化的資産に恵まれ、世界でも多くの観光客が集まる都市の一つとなっている。観光客を受け入れるホテルは伝統的高級ホテルから若者相手の大衆クラスまでそろっており、おもにウェスト・エンド地区に集まっている。  大ロンドンは全国工場労働者数の17%を占めるイギリス製造業の一大中心地でもあるが、業種別に就業者数をみると、電気製品、出版・印刷、食品、機械、衣服などが上位に並んでおり、典型的な消費地立地型の構造を示している。工場の分布地域は、19世紀から受け継いだ市の中心部やイースト・エンドの古い工業地区と、1920年代に始まった中心部からの移動の結果、戦後とくに発展したテムズ川下流域沿岸や周辺近効部の新興工業地帯の二つに分けることができる。しかし、全国的な傾向を反映して、大ロンドンの製造業雇用者数は、1971年から81年までの10年間に39万人の減少を示し、その後も減少が続いている。 〔交通〕 現在テムズ川には市内部分で14の道路橋が架けられ、河底トンネルも通じている。1750年に議事堂わきにウェストミンスター・ブリッジが架けられるまではロンドン・ブリッジが両岸を結ぶ唯一の橋で、いまでも単に「橋」といえばロンドン・ブリッジを意味する。橋も一例であるが、交通網の充実がロンドン市街地発展に果たした役割は大きい。ロンドンの代表的な公共交通機関は地下鉄とバスで、これらの路線網は市内だけでなく郊外にまで張り巡らされている。「チューブ」の別名をもつ地下鉄は、最初の路線が1863年に開通し、営業キロ延長は418キロ、うち地下部分325キロ(1983)で世界一を誇る。輸送人員数やサービスでは東京の地下鉄に一歩譲るが、路線網はとくに都心部で密で便利である。第二次大戦中、空襲時に避難場所として多くの市民の命を救ったことも忘れられない。バス交通は、きめの細かい路線網と頻繁な運行回数で地下鉄と並ぶ市民の足として親しまれており、赤い2階建ての車体はロンドンの町を象徴するアクセサリーの一つとなっている。 〔文化的資産〕 文化的資産の充実もロンドンの魅力の一つである。過去と現在が同居するロンドン市内には、歴史的価値の高い建造物も少なくないが、その過半数はシティ、ウェストミンスター両地区に集まり、しかもその多くがイギリス建築史を代表するクリストファー・レンの設計になる。大英帝国時代、国力を背景に世界各地から集めた豊富な文化財などを展示する各種博物館や美術館等も充実しているが、なかでも大英博物館は、エジプト文明以来の古代遺物や日本も含む東洋美術品のコレクションを中心とし、世界一の博物館とされている。ロンドンは音楽・演劇公演でも高い水準の活動がみられ、とくに演劇はこの国の伝統芸術で、40余の劇場のなかでもシェークスピア劇のオールド・ビック劇場はとくに名高い。その近くにあるロイヤル・フェスティバル・ホールは、都心のロイヤル・オペラ・ハウスとともにヨーロッパを代表する音楽の殿堂で、秋から春にかけてのシーズンに登場する音楽家たちの豪華な顔ぶれは他の追随を許さない。 〔都市問題とロンドンの将来〕 ロンドンも、東京、ニューヨークなどと並び、同じ過大都市の悩みを抱えている。とくに、19世紀に早くも過密の弊害に悩まされたロンドンは、1930年代に入り、国内の人口・産業分布の不均衡を是正する国の方針に基づき、その工業と関連人口を地方へ分散することが求められるようになった。第二次大戦中につくられた大ロンドン計画は、ロンドン県とその周辺が一体となった約1万1000平方キロをロンドン大都市圏としてとらえ、既存の連続市街地の拡大を周辺にグリーン・ベルトを巡らせることで阻止し、その外側に八つの新しい工業衛星都市(ニュー・タウン)を建設してロンドンから工場と関連人口を受け入れ、内部の市街地は再開発によって整備しようとするもので、戦後、政府はこの計画を実施に移した。しかし、戦後の産業構造の変化や経済の斜陽化などもあって内部市街地の人口は予想以上に減少し、1961年からの20年間に130万人の減となり、とくにインナー・ロンドンとよばれる旧ロンドン県の部分では、住民の流出に伴い市街地の荒廃が著しく、深刻な社会問題を引き起こした。このため、70年代後半に入ると、政府は都市政策の重点を従来の新市街地建設から既存市街地の再開発へ移し、内部市街地にふたたび住民や企業を呼び戻そうと努力している。ロンドンでは従来アメリカの大都市のような人種問題はまれであったが、戦後旧植民地から受け入れた大量の移民の多くがロンドンに定着し、市民の人種別構成も以前に比べると複雑化し、近年ロンドン中心部の街頭は、外国人観光客も加わりニューヨークのような人種の展示場の観を呈している。これらの移民の一部は、市の南部や北部地区に集中的な居住区を生み出したが、これらの地区では、不景気で失業率が高まり生活不安が高じると暴動が発生するなど、新しい都市問題となっている。  世界でもっとも早く大都市問題に直面したロンドンでは、戦後大ロンドン計画に代表される一連の大都市行政が取り入れられた。その実施にあたる地方政府の制度的改革の一環として、1855年のロンドン県設置以来の伝統をもつ統一的行政体をさらに発展させ、1965年に面積約1600平方キロの連続する市街地を行政区域とする大ロンドン県が労働党政権により設置され、一元的な大都市行政の強化を図った。しかし、この大都市行政体は86年に保守党政権のもとで廃止され、ロンドンの大都市問題も新たな対応を求められている。  イギリスは今後ヨーロッパ共同体(EC)の一員として生きてゆく以上、大陸に近いイングランド南東部は恵まれた気候と相まって今後さらに産業や人口が集まり、その中心であるロンドンは新たな発展を始める可能性が大きい。ロンドンが過去、現在、末来にわたって人々をひきつけているのは、ひと口でいえば、人々が都市に求める魅力がそろっているからである。「ロンドンに飽きた人はこの世に飽きたも同然だ。なぜならば、ロンドンにはこの世のすべてがそろっているのだから」という18世紀の文豪サミュエル・ジョンソンのことばは、現在もそのまま生きているといえよう。 <井内 昇> 【歴史】 〔概説〕 ロンドンの歴史が確認されるのは、紀元後43年にローマ人がこの地にやってきてからであるが、それ以前にもケルト系の先住民がこの付近に住んでいたものと思われる。ローマ人はロンディニウムLondiniumの町をつくり、テムズ川の渡河に適したこの地をブリタニアの道路網の中心とした。61年にイケニ人の女王ボアディケアの反乱で一度破壊されたものの、ロンディニウムは急速に復興し、商業で大いに繁栄した。5世紀の前半にローマ人が去り、ロンドンは後のアングロ・サクソン七王国の分裂時代には衰退した。その後ロンドンは徐々に商港としての繁栄を取り戻したが、この町の重要性が再度高まるのは、10世紀にイングランドが統一されてからである。11世紀に入ってクヌード(大王、在位1016〜35)とエドワード(懺悔{ざんげ}王、在位1042〜66)が、旧来のロンドンの西方、ウェストミンスターに王宮や寺院を建てたことは、ロンドンの歴史に大きな影響を与えた。以後ロンドンは、旧市街であるシティが商業の中心、ウェストミンスターが王宮の所在地で政治の中心という二重構造をもって発展していくことになる。 〔商業の発展〕 1066年の征服(ノルマン・コンクェスト)後、ウィリアム1世はロンドン市に対して、前王エドワード治下で認められていた権利を保障するとともに、シティの東端にロンドン塔をつくり支配を固めた。12世紀前半に起こった大火の結果、多くの建物が石とタイル造に変わり、やがてロンドン橋も石造となった。このころからロンドンは旧来の市壁を越えて地理的に拡大する一方、1191年には自治都市となり、1215年以降は市長選挙が毎年行われるようになった。こうした発展の背後にあったのは商業の拡大で、各種のギルドがすでに12世紀に結成されている。他方、12世紀後半からイングランドの統治制度の整備が進み、13世紀に議会が誕生したことは、政治的首都ロンドンの成長をも促した。ロンドンは政治と不可分に結び付き、1381年のワット・タイラーの乱や1450年のケードの乱の際には反徒の侵入を受けた。ばら戦争(1455〜85)の時代には、ロンドンはヨーク派と良好な関係を維持して混乱を避けた。また疫病の流行も中世以来ロンドンを悩ませたものの一つで、14世紀中葉の黒死病(ペスト)の大流行では人口の過半が失われた。  中世後期のロンドンは、ヨーロッパの国際的な商業網のなかでも重要な位置を占めた。ドイツのハンザ商人が13世紀にはロンドンに定着し、フランドルや北イタリアからきた人々とともにロンドンの商業や金融で力を振るった。北イタリア(ロンバルディア)出身の金融業者は、現在でもロンドン金融の中心地ロンバード街にその名を残している。最初羊毛の輸出港であったロンドンは、14世紀後半以降イングランドで羊毛工業が発達すると、毛織物の輸出港になっていった。初めは外国人商人が有力であったが、徐々にイギリス人の冒険商人組合(マーチャント・アドベンチャラーズ)が成長を遂げ、16世紀にはハンザ商人の勢力を駆逐することに成功した。その間ロンドンは国内の他の港を抑えて独占的な体制を固め、17世紀初頭にはロンドン経由の輸出貿易がイングランド全体の3分の2から4分の3を占める至った。 〔ロンドンの拡大〕 チューダー時代に入り、ヘンリー8世(在位1509〜47)による宗教改革で修道院が解散されたため、ロンドンにおいても従来修道院がもっていた多くの土地が個人の手に移った。これによって得られた土地は、16世紀前半から急速に増大していた住民のための住宅用地にも使われ、17世紀初頭にはロンドンの人口は郊外も含めると20万人を超えていた。シティの東側に貧民街であるイースト・エンドが誕生し、また西側のウェスト・エンドには有力者や富裕者が住む街区ができ始めていた。ロンドンの拡大はテムズ川の北岸に限られず、シティの対岸にあたるサザークも発展しつつあった。このような急成長の原因の一つは、従来にも増して地方からロンドンへ地主が集まってきたことであった。中央集権化の進行とともに、裁判や政治的任務で首都ロンドンを訪れる地方地主が増大し、宮廷に職を得ようとする人々も上京してきた。借金や土地の売買のためにもロンドンは便利であった。こうして地主たちがロンドンに集まり、秋から翌年6月までの季節を社交界で過ごすという習慣のもとがつくられた。ロンドンに劇場が建てられ、シェークスピアの戯曲が演じられたのも、この時代のことであった。ロンドンの無秩序な拡大を防ごうとするエリザベス女王(1世、在位1558〜1603)や初期スチュアート朝の王たちの試みにもかかわらず、ロンドンは消費の中心地としても発展を続けた。  17世紀のイギリス革命では、ロンドンは議会派についた。1642年1月にチャールズ1世が5人の反対派議員を逮捕しようとしたとき、彼らはシティに保護され、それ以後首都の反王感情は急速に高まった。内戦が始まると、ロンドンは議会派の拠点として防備を固め、物資の欠乏に苦しみながら、議会派を財政面で支えた。しかし内戦の終結後に成立したクロムウェルの厳格な支配の体制はロンドンにとって好ましいものではなく、1660年の国王チャールズ2世の帰還は大歓迎を受けた。当時ロンドンは人口50万を擁するヨーロッパ一の大都市となっていたが、市内にはごみごみした貧民街が広がっていた。1665年にペストが流行した際には10万人近い人々が死亡し、王室をはじめとして多くの市民がロンドンを離れる騒ぎとなった。さらに1666年9月には有名な大火が起こり、セント・ポール大聖堂をはじめ多くの建物が焼失して、およそ25万の人々が家を失った。建築家C・レンらはすぐに再建計画を提出し、新たに建築上の規制が設けられ、ロンドンは数年のうちに復興した。ロンドンの拡大はもはや抑えることのできない事実となり、コベント・ガーデンなど新しい市場の開設も認められた。 〔政治的成長〕 1670年代末から議会のなかにホイッグ、トーリーの党派対立が現れ、ロンドンはふたたび政治対立の舞台となった。一度は特許状を剥奪{はくだつ}されたロンドンのシティは、名誉革命に際して当然ウィリアムを支持し、1694年にはウィリアム3世の下でイングランド銀行が設立された。以後ロンドンはアムステルダムにかわって国際金融の中心地に成長し、シティの金融勢力はイギリスの政治にも強い影響力をもち続けた。ロンドンにおける活発な政治・経済活動を支えた背景として、17世紀の後半から自由な議論と情報交換の場であるコーヒー・ハウスが発展し、新聞・雑誌の増加が世論の形成を可能にしていたことは無視できない。首都において成長した世論は、18世紀の貴族政治の停滞・腐敗を抑制する機能を果たし、ときに民衆暴動のような形をとって政治に直接的に介入した。ロンドンの民衆運動のなかには、カトリック教徒の解放に反対するゴードン暴動(1780)のような保守的なものもあったが、1760年代のウィルクス運動以後、議会改革を求める急進主義運動が盛んになった。 〔環境問題の発生〕 18世紀のロンドンは産業革命をリードするような工業都市ではなかったが、市内には小規模な作業場が数多く存在し、さらに政治、金融、商業、文化などの中心として、ますます多くの人口を吸収していた。19世紀の初頭までに人口は100万を突破し、ロンドンは「大きな[_できもの]」とよばれる巨大都市となっていた。それに応じて、1750年にはテムズ川に架かる第二の橋としてウェストミンスター橋が完成したのをはじめとして橋や道路の整備が進み、19世紀に入るとガス灯や乗合馬車も登場した。また1829年にはピールの手で首都警察(スコットランド王のロンドン屋敷跡に面していたためスコットランド・ヤードとよばれるようになった)が設置された。こうして首都の市民生活は徐々に便利なものになっていったが、水や空気といった環境問題では難問が山積していた。とくに1858年の「大悪臭」は有名で、汚物が流れ込むテムズ川のあまりの悪臭に議会の討論も妨げられたといわれている。首都の環境は、衛生向上運動家チャドウィックSir Edwin Chadwick(1800―90)らの努力によって徐々に改善されていったが、石炭の煤煙{ばいえん}によるスモッグは長くロンドンの住民を苦しめた。  1836年ロンドンに鉄道が初めて登場し、63年には地下鉄も開通した。鉄道などと並んで19世紀イギリスの繁栄と技術の勝利を示したのは、1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた万国博覧会であった。これには半年間で600万人が見物に訪れ、そのなかには多くの労働者が含まれていた。3年前の1848年、ロンドンではチャーティスト運動を支持する民衆暴動が懸念されたが、この万国博の成功以後、そうした激しい階級対立は忘れられた。政治的自由の国イギリスの首都ロンドンには、マルクスのような大陸からの亡命者もきており、1864年には労働者の国際的組織である第一インターナショナルがロンドンで創立された。 〔行政の発展〕 シティとウェストミンスターは本来別の町であり、19世紀中葉までロンドンは一つのまとまった行政区域ではなかった。ようやく1855年の首都圏管理法によって行政の統一が図られ、その後88年にロンドン県庁が設置され、さらに99年にも行政の改組が行われた。このような行政の整備が進む一方、電気の利用や自動車の出現によって、ロンドンは19世紀の末からさらに変貌{へんぼう}を遂げた。とくに目だつことは、1900年までにロンドン県の人口は450万に達していたにもかかわらず、そのうちシティに居住する人はわずか3万人であったという事実である。交通機関の発達に伴って、シティやウェスト・エンドで働く人々の多くは郊外に住むようになっていた。  ロンドンは第一次世界大戦でドイツ軍の空襲を受け、2000人ほどの死傷者を出した。第二次大戦の被害はさらに大きく、空襲による死傷者は数万に達し、ロンドンは1666年の大火以来の大規模な破壊を被った。戦後は復興が進み、ロンドンの拡大に対処するため、1965年に大ロンドン県庁が設けられた(1986廃止)。 <青木 康> 【本】マクミラン社刊『ロンドン百科事典』(英語版・1985・PIC) ▽C・ヒバート著、横山徳爾訳『ロンドン――ある都市の伝記』(1983・朝日イブニングニュース社) ▽J・R・ミッチェル他著、松村赳訳『ロンドン庶民生活史』(1971・みすず書房) ▽桜庭信之著『ロンドン――紀行と探訪』(1985・大修館書店) ▽小池滋著『ロンドン――ほんの百年前の物語』(中公新書) 【URL】[CORPORATION OF LONDON(英語)] http://www.cityoflondon.gov.uk/

日本大百科 ページ 69150 でのロンドン単語。