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メロビング朝🔗🔉

メロビング朝 (めろびんぐちょう) Merowinger ドイツ語 M?rovingiens フランス語 フランク王国前半期の支配王朝。フランク人の一派サリ支族は、民族大移動期にライン川を越えトクサンドリアに進出した。当時フランク人は多くのパーグス(郡)に分かれ、それぞれ小王に支配されていたが、ブリュッセル付近にあったパーグス、デスパルグムの王クロディオClodioが勢力を振るい、メロビング朝の祖となった。その子が王朝名のもとになったメロビスMerovisである。その子チルデリヒ1世Childerich ?のとき、すでにサリ支族の統一はかなり進んでいたらしい。481年、その後を継いだ子のクロービス1世は、サリ支族だけでなくリブアリ支族、カマビー支族をも併合してフランク王国を建て、ロアール川流域に残っていたローマ人の勢力を滅ぼし(486)、西ゴート王国やブルグント王国を討ち、アラマン人を征服、ガリア南部から南西ドイツにまで勢力を広げた。彼はカトリックに改宗して、ローマ教皇との提携を図った。しかし彼の死(511)後、王国は4子テウデリヒ1世、クロドメール、チルデベルト1世、およびクロタール1世の間で分割され、兄弟は対外的には協力して、ブルグント王国を滅ぼし、西ゴート王国をピレネー山脈のかなたへ駆逐し、バイエルン人、チューリンゲン人を服属させるなど領土を広げたが、分国相互間では内訌{ないこう}を繰り返した。その後クロタール1世によって統一されたが、彼の死(561)後はふたたび4人の子供に分割され、とくにアウストラシア分国王ジギベルト1世とノイストリア分国王チルペリヒ1世との対立は、全国的な内乱にまで発展し、チルペリヒの子クロタール2世によって再統一された(613)とはいえ、国内豪族層の勢力が著しく強化され、実権は豪族層の頭領である各分国の宮宰の手に握られた。とくに、アウストラシアの宮宰カロリング家の台頭が著しく、ピピン(中)のときには全フランク王国の宮宰職を掌握し、その子カール・マルテルはトゥール・ポアチエの戦い(732)で侵入してきたイスラム軍を破り、実質上フランク王国の支配者としての地位を確立した。こうした基盤のうえに、その子ピピン(小)はクーデターを敢行し、最後のメロビング国王チルデリヒ3世を廃し、カロリング朝を開いた(751)。 <平城照介>

日本大百科 ページ 63536 でのメロビング朝単語。