ウズベキスタン🔗⭐🔉振
ウズベキスタン
(うずべきすたん)
Republic of Uzbekistan 英語
Uzbekiston Respublikasy ウズベク語
?13?00?01?00?00?00?00?00?00?00?00$00 ロシア語
中央アジアに位置する共和国。かつてはソ連邦を構成する15共和国の一つ、ウズベク・ソビエト社会主義共和国????????? ???/Uzbekskaya SSRであったが、ソ連崩壊に伴い1991年8月連邦を離脱し、従来の地域名を採用してウズベキスタン共和国と改称した。カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンの各共和国と接する。面積は44万7400平方キロメートル。人口2346万7724(1997)。首都タシケント(人口210万)。カラカルパクスタン自治共和国(人口134万3000)と12の州に分かれている。国民の71.4%はウズベク人で、ほかにロシア人(8.4%)、タジク人(4.7%)、カザフ人(4.1%)、タタール人(3.2%)、カラカルパク人(2.1%)などが住む(1989)。
【自然】
アムダリヤとシルダリヤ両河川の間を占め、国土の5分の4は平野部(トゥラン低地)で、山地は東端だけである。平野部はウスチュルトUstyurt台地とアムダリヤの沖積デルタ地帯、それにキジルクム砂漠の3部分に大別される。ウスチュルト台地は標高200〜250メートルの起伏のある台地で、隣接する平野部との境界には明確な段がついている。
山地部は天山山脈、ギッサール山脈、アライ山脈、およびその中間の渓谷である。最高点はギッサール山脈中の最高峰(4643メートル)である。東部のフェルガナ盆地、タシケント・ゴロドノステップ低地、中央部のゼラフシャン渓谷、カシュカダリヤ渓谷、スルハンダリヤ渓谷がこの方面のおもな低地である。
気候は厳しい大陸性で、1年を通じて晴天が多い。1月の平均気温は北方のヌクスで零下6.3℃、テルメズ(旧ソ連でもっとも暑い地点)で3℃である。7月の平均気温は26℃(ヌクス)から32℃(テルメズ)。年降水量は平野部で200ミリメートル、山地で1000ミリメートル以内。雨は主として冬から春にかけて降る。日照時間は190〜220日。おもな河川はアムダリヤ、シルダリヤ、ゼラフシャン、カシュカダリヤなどで、主として灌漑{かんがい}に利用される。砂漠地帯には川がなく、住民は地下水を利用している。渓谷や山地からの河川の出口には、タシケント、フェルガナ、サマルカンド、ヒバなどのオアシス都市が開けている。
【歴史】
ウズベキスタンでは16世紀初め、モンゴル系のティームール朝にかわってウズベク人のシャイバーニー朝が興り、ブハラを占領、ヘラトを落とし、フェルガナ、トランスオクシアナを併合、アブドゥッラー2世の治政期にもっとも栄えた。その後ブハラを首都として、アストラハン、マンギット両王朝が続いたが(ブハラ・ハン国)、他方ウズベク人の別派は16世紀にホラズムにヒバ・ハン国、18世紀フェルガナのコーカンドを中心としたコーカンド・ハン国を興し、この三つのハン国の間で抗争を繰り返してきたが、19世紀後半になってロシアに征服される。
ロシアはコーカンド・ハン国を滅ぼし、ヒバ、ブハラ両ハン国は保護国とし、1867年タシケントに総督府を置き、綿花栽培のモノカルチュア(単一耕作)植民地とした。
1917年11月1日(新暦14日)、タシケントで、ロシア人鉄道労働者や兵士を中心とするソビエト政府が成立した。国内戦や両ハン国における人民ソビエト革命を経て、中央アジアの民族的境界区分によってほぼ現在の国境が形成され、25年にトルクメニスタンとともにソ連の構成共和国として発足した。
1990年3月24日、ソ連構成共和国では初めての大統領として、カリモフIslam A. Karimov(1938― )が選ばれ、11月1日には閣僚会議と首相のポストが廃止され、大統領が内閣を直接統率することとされた。1991年8月に勃発{ぼっぱつ}した、当時ソ連邦副大統領であったヤナーエフ???????? ?????/Gennadiy Yanaev(1937― )らによるクーデター事件後の8月31日にソ連からの独立を宣言、9月1日を独立記念日とし、12月29日に直接選挙でカリモフが大統領に再選された。カリモフは95年3月には国民投票で任期を3年延長している。ウズベキスタンではイスラムがかなりの勢力をもっているが、原理主義は抑圧されている。1992年12月8日には新憲法を採択、94年12月独立後初めての議会選挙で大統領与党ウズベキスタン人民民主党(旧共産党)が過半数を獲得した。1989年結成の人民戦線ビルリクは非合法化され、宗教政党は禁止されている。
1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)創設協定に調印し、CIS加盟国となった。また92年1月に中国と、2月にアメリカと国交を開き、3月には国連に加盟した。94年4月末にはカザフスタン、キルギスと関税の相互撤廃、二重課税防止、決済の障害排除を内容とする共通経済圏創設に関する条約に調印した。さらに7月には、中央アジア協力開発銀行の創立でも合意し、3国の大統領・首相による国家間会議も創設され、経済、外交、防衛政策で統一していくことになった。
【産業・経済】
ウズベキスタン経済の基盤は綿であり、旧ソ連の生産の6割を占め、ソ連の綿工業を支えていた。しかし、投資効率の面からモスクワ周辺の工場の拡張に重点が置かれ、ウズベキスタンの織物工業は自国の住民の需要さえ満たしていなかった。ソ連解体後は、織物工場の建設を進めるとともに、綿の栽培を減らして小麦などを増やし、食糧自給も達成しようとしている。野菜とウリの栽培も盛んである。ブドウをはじめとする果樹の産額も、全中央アジアの半分以上を占める。
エネルギー資源としては天然ガスがもっとも豊かである。主要な産地はブハラ付近のガズリのほか、カシュカダリヤ流域、フェルガナ盆地などである。フェルガナ盆地とブハラでは石油、石炭は主としてアングレンで採掘されている。石油は輸出も可能になった。
冶金{やきん}と化学工業はベカバド、チルチク、サマルカンド、機械類はタシケント、チルチク、コーカンド、アンディジャンなどで生産される。軽工業ではタシケントをはじめ各地に綿織物の工場がある。絹織物の中心はナマンガン、マルギランとなっている。
1992年1月10日価格自由化政策を導入したが、市場経済化は政府の統制下に行われ、地域市場の形成、世界経済への参加へ向け、改革を進めているが、この点では中国に似ている。
工業労働者は依然としてロシア人が多いので、ウズベク人の都市への進出が必要であろう。人口の1%弱の朝鮮人の活躍も目だっている。これに関連して、韓国の進出も目覚ましく、韓国資本との合弁企業が生産した乗用車が走っている。また韓国のソウルとの間に定期航空便も通じている。1994年の工業生産は1990年の99.1%で、CIS諸国のなかではもっとも落ち込みが小さかった。それでも経済成長率は独立以降マイナスが続いた。1995年になって、農業生産の拡大および好調な輸出に支えられてマイナス0.9%にとどめることができた。96年、97年はそれぞれ1.6%、2.4%とプラス成長となった。95年の国内総生産に占める民間部門の比率は約3割である。日本の援助は94年3月15億円強の無償供与、6月の127億円の円借款などと進み、1998年度までの累計では、有償資金協力は約343億円、無償資金協力約69億円、技術協力実績21億円、となっている。
通貨は、1993年11月15日にスム・クーポンが導入され、続いて1994年7月1日にスムとかえられた。
【アラル海問題】
ウズベキスタンを中心とする旧ソ連の綿の生産は、1913年の74万トンから80年には910万トンへと増大したが、灌漑{かんがい}のためアムダリヤ、シルダリヤの水が利用されたため、アラル海が干上がり、その水位は1960年の53メートルから94年までに16メートル下がり、面積も半分となった。このペースで進むと、21世紀の初めにはアラル海は消滅するであろう。現在、投入された化学肥料や農薬、塩などが飛散し、人々の健康を害し、カラカルパクスタンの幼児死亡率はウズベキスタン全体の平均の4倍である。湖の縮小は、塩分を濃くして魚類を死滅させて漁業を破滅させたばかりでなく、気候にも影響を与え始めている。綿の栽培を減らすか、水漏れやむだ遣いをなくすため、灌漑システムを近代化することが急務である。→アラル海 →カラカルパクスタン →コーカンド・ハン国 →ソ連崩壊と東欧の歴史的変革 →タシケント →ヒバ・ハン国 →ブハラ・ハン国 <加藤九祚・木村英亮>
【本】木村英亮・山本敏著『ソ連現代史?』(1979・山川出版社) ▽下斗米伸夫著『独立国家共同体への道』(1992・時事通信社) ▽中村泰三著『CIS諸国の民族・経済・社会――ユーラシア国家連合へ』(1995・古今書院) ▽中津孝司著『ロシア・CIS経済の変容と再建』(1996・同文館出版)
【URL】[ウズベキスタン共和国〈日本国外務省〉] http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kankei/n_uzbe.html
日本大百科 ページ 6037 での【ウズベキスタン】単語。