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プロ野球🔗🔉

プロ野球 (ぷろやきゅう) プロフェッショナル・ベースボールprofessional baseballの日本での略称。職業選手によって興行として行われる野球で、観客を楽しませるために編成された各チームが、リーグ戦形式で百数十試合を行って優勝を争う制度をとっている。 【アメリカのプロ野球】 1845年、ニューヨークの技師アレクサンダー・カートライトにより初めて野球規則が制定された。そしてニューヨークに存在したニッカーボッカー・クラブが最初にこの野球規則によって試合をして大いに人気を博し、非常な勢いをもって普及、発達していった。そして試合ごとに多くの観衆が入場するのを見て取り、野球関係者は、野球競技に必要な経費を、見物人に入場料として課し、完備した球場施設に、よい競技用具を用意して、選手に給料を支給すれば、さらによい試合を見せることができるのではないかと考えた。当時すでに一般大衆は、野球見物に喜んで入場料を支払うほど野球の魅力にひかれていたのである。こうして、プロ野球が初めて生まれたのは1866年のことであった。純然たるアマチュアの選手集団によって組織されたハリー・ライトのレッド・ストッキング・クラブは、シンシナティ市で編成された。強いチームで2年間一度も敗れず、81連勝を記録して人気を博し、収入も好成績だったので、69年、公然と職業野球団の名のりをあげた。これが、アメリカにおける職業野球クラブの最初である。レクリエーションを目的としたアマチュア・スポーツの野球から、純然たるプロフェッショナル・チームがここに生まれるに及んで、急に勝負に重点を置く近代野球に転換していった。  1871年には、最初の職業野球連盟が9チームによって組織され、全国職業野球団連盟National Association of Professional Baseball Playersが生まれた。この職業野球団連盟は、もめ事や不正事件などのため、わずか5年で解消したが、大衆の野球への愛着と時代の要求とは、優良な職業野球団のための連盟の組織を求めてやまなかった。こうして1876年2月、ニューヨーク市を中心に大都市を背景として、フランチャイズ・システム(本拠地制)による職業野球団連盟が生まれた。これが今日まで続いているナショナル・リーグ(ナ・リーグ)で、最初の加盟チームは8チームであった。同年、ペナント(優勝旗)を争う第1回のペナント・レースを各チーム70試合で行い、シカゴがペナントを獲得した。ナショナル・リーグ結成によって取り残された各都市球団は、インターナショナル・リーグ、アメリカン・アソシエーションなどをつくりあげた。これらがマイナー・リーグの元祖であるが、ナショナル・リーグの実力と権威は他のリーグを引き離し、ついにビッグ・リーグあるいはメジャー・リーグ(大リーグ)とよばれるようになった。しかし、マイナー・リーグは、ナショナル・リーグに反抗的政策をとったので、ナショナル・リーグも苦難のシーズンを送った。  1900年に一つのマイナー・リーグでしかなかったウェスタン・リーグが、バン・ジョンソンというスポーツ・ライター出身の実力者を総裁にいただくと、ウェスタン・リーグをナショナル・リーグの本拠地に根を張らせようと図り、ナショナル・リーグの根拠地となっているアメリカ東部の各都市に本拠地を設け、名称もアメリカン・リーグ(ア・リーグ)として乗り出してきた。ここに二大リーグ時代を迎えるわけである。アメリカン・リーグ創設の結果は、その前年(1899)まで12クラブによって組織されていたナショナル・リーグが8クラブに減り、新たに生まれたアメリカン・リーグも8クラブ制をとった。アメリカン・リーグの創立にあたって、ナショナル・リーグは全然協調しなかったので、一時、球界は混乱動揺したが、アメリカン・リーグの発展をみるにつけ、結局両者は闘争の愚を悟り、共存の道をとるようになった。その結果、1903年にナショナル・コミッションができ、その委員が両リーグから選ばれ、球界一般の指針となるような諸規則や申合せを決定したので、アメリカ職業野球界は安定の基礎を得た。また、このコミッションは、シーズンの終わりに両リーグの優勝チームの顔合わせを行い、短期のシリーズに優勝争いを試みさせる案を実現した。これが今日まで行われてきたワールド・シリーズ(世界選手権)で、後年、全アメリカの人気を集める大試合に発展した発端であり、1905年以来第二次世界大戦中も中止することなく、毎年行われてきている。  ナショナル・リーグ創設当時は、強豪チームのほとんど全部がその傘下に集まっていたが、のちにアメリカン・リーグが組織されるに及んで、大都市に本拠をもち、名実ともに備わった大野球団のすべてがこの2リーグに集中され、取り残された他球団は実際に実力が低いものとなってしまった。2リーグ以外のマイナー・リーグは、実力順に3A、2A、A、B、C、Dの6階級に分かれ(現在は3A、2A、A、ルーキー・クラスの4階級)、ナショナル・アソシエーションという統制機関をつくった。ここにアメリカ職業野球は、オーガナイズド・ベースボールといわれる整った組織となった。  大リーグは、第三リーグ設立の解決策、人気回復策として、クラブ数を1900年以来の8チームから10チームに増すことになり、アメリカン・リーグは61年、ナショナル・リーグは62年から実施し、さらに69年から両リーグとも12チームとなった。77年からアメリカン・リーグは14チーム、ナショナル・リーグは93年に14チーム、98年からは16チームとなっている。→アメリカン・リーグ →大リーグ →ナショナル・リーグ →ワールド・シリーズ 【日本のプロ野球】 日本の野球はアマチュア・スポーツ、とくに学生スポーツとして発展した。そのために、プロ・スポーツとしてはかえって発達を遅らせた。しかし、プロ野球ができなければ、真の野球技の発達はないとの見解から早稲田{わせだ}大学野球部の橋戸信{まこと}、押川{おしかわ}清、河野安通志{あつし}らの提唱によって1920年(大正9)末、東京芝浦に日本運動協会が設立され、22年秋には日本最初のプロ・チームとして、早稲田大学チームと試合した。しかし、このプロ・チームは育たないで終わった。当時日本を代表する学生野球は発展の限度に達し、アマチュアの域を超える傾向が多分にみられた。1931年(昭和6)には、アメリカから一流大リーガーを招いて、東京六大学のチームと対戦したが、32年文部省が野球統制令を出して、プロとの試合を禁じたため、34年秋に来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスら全アメリカ軍と対戦するために、社会人から全日本軍が編成された。この全日本のチームを母体として同年12月、大日本野球倶楽部{くらぶ}、すなわち今日の読売巨人軍が結成された。当時ほかに相手になる職業チームがなかったため、翌春第1回の渡米を試み、プロ球団として技を磨いている間に、正力松太郎{しょうりきまつたろう}は、プロ球団創設のため共鳴する資本家を求め、36年巨人のほかに大阪タイガース、セネタース、阪急、金鯱{きんこ}、大東京、名古屋など7チームが生まれた。続いて日本職業野球連盟が結成されたが、第二次世界大戦のため休止した。  1945年(昭和20)11月連盟復活が決まり、以後、隆盛の一途をたどったが、49年末、新球団加入をめぐり8球団を二分して2リーグとなり、日本職業野球連盟は解散した。巨人、阪神を中心とするセントラル・リーグ(セ・リーグ)と南海、阪急、大映、東急と新球団の毎日以下のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)となった。ついで、51年にはコミッショナーを決定し、また統一契約書を作成した。これらはアメリカの野球に倣ってプロ野球としての体裁を整えたものである。しかし、コミッショナー制度と選手との統一契約書は、いちおうの混乱を防いではいるが、規約そのものも十分なものでない。また、1985年(昭和60)には、選手会労組として日本プロ野球選手会が設立され、諸要求を定め、プロ野球機構と交渉している。→コミッショナー →正力松太郎 →セントラル・リーグ →橋戸信 →パシフィック・リーグ 【歴代の名選手】 大リーグでは1900年以降、アメリカン・リーグでは、ラジョイ(アスレチックス他、1901以後)、タイ・カップ(タイガース、1905〜26、最多首位打者12回・連続首位打者9年・通算打率3割6分7厘)、ベーブ・ルース(ヤンキース、1920〜34、151試合60ホーマー)、シモンズ(アスレチックス、1930前後)、ジミー・フォックス(アスレチックス―レッド・ソックス、1925〜41、年間58ホーマー)、ゲーリッグ(ヤンキース、1923〜39、最多満塁ホーマー23本)、グリンバーグ(タイガース、1930〜46、年間58ホーマー)、ディマジオ(ヤンキース、1936〜51、連続試合安打56試合)、テッド・ウィリアムズ(レッド・ソックス、1939以後)、ミッキー・マントル(ヤンキース)、マリス(ヤンキース、161試合61ホーマー)、ロッド・カルー(ツインズ他)、ジョージ・ブレット(ロイヤルズ)、ナショナル・リーグでは、ワーグナー(パイレーツ、1900〜17)、ホーンスビー(カージナルス、1915〜26、年間最高打率4割2分4厘)、ジョン・マイズ(カージナルス、1940前後)、ミュージアル(カージナルス、1941〜63)、ラルフ・カイナー(パイレーツ、1950前後)、ジャッキー・ロビンソン(ドジャース、黒人初の大リーガー)、キャンパネラ(ドジャース)、スナイダー(ドジャース)、ウィリー・メイズ(ジャイアンツ)、ハンク・アーロン(ブレーブス)、ジョニー・ベンチ(レッズ)、ピート・ローズ(レッズ)らが打撃部門で活躍した。また現役のバッターとしてはマーク・マグワイア(カージナルス)、サミー・ソーサ(カブス)などが有名。  投手では、アメリカン・リーグのウォルシュ(ホワイト・ソックス)、ウォルター・ジョンソン(セネタース、通算奪三振3508個)、ブッシュ(ヤンキース)、ロバート・グローブ(アスレチックス)、ゴーメッズ(ヤンキース)、ボブ・フェラー(インディアンス)、フォード(ヤンキース)、デニー・マクレイン(タイガース)、ノーラン・ライアン(エンゼルス他)、ナショナル・リーグでは、デントン・ヤング(クリーブランド、1890〜98、最多勝利511勝・最多完投751試合)、ルールバー(カブス)、マッシューソン(ジャイアンツ)、ディジー・ディーン(カージナルス)、スパーン(ブレーブス)、ドライスデール(ドジャース)、コーファックス(ドジャース)、トム・シーバー(メッツ他)、スティーブ・カールトン(カージナルス他)らがあげられる。また現役のピッチャーとしてはグレッグ・マダックス(ブレーブス他)、ロジャー・クレメンス(ヤンキース他)などが有名。→アーロン →ゲーリッグ →タイ・カップ →ディマジオ →ルース  日本の選手としては、1949年までの1リーグ時代では、投手では、まず第一に不世出の英雄といわれた速球投手沢村栄治{えいじ}(巨人)をあげねばなるまい。ついで第二次世界大戦後も活躍したスタルヒン(巨人―大映)は1939年の42勝と生涯303勝の記録がある。野口二郎(阪急)、藤本英雄{ひでお}(巨人)、若林忠志{ただし}(阪神)、白木儀一郎{しらきぎいちろう}(東急)、中尾碩志{ひろし}(巨人)、別所毅彦{たけひこ}(巨人)、真田重蔵{さなだじゅうぞう}(松竹)。野手では、苅田久徳{かりたひさのり}(セネタース)、景浦将{かげうらまさる}(阪神)、中島治康{はるやす}(巨人)、川上哲治{てつはる}(巨人)、藤村富美男{ふみお}(阪神)、大下弘{ひろし}(東急)、小鶴{こづる}誠(松竹)、鶴岡一人{かずと}(南海)、別当薫{かおる}(阪神―毎日)、青田昇(巨人)らが1950年前後までに活躍した。  1950年以降は文字どおりプロ野球ブームとなり、全国にスカウト網が張り巡らされて、逸材はほとんど集まってくるので、名選手も多く、アメリカの大リーガーに匹敵する選手も多く輩出するようになった。これは、プロ野球とラジオ・テレビの結び付きが大きな役割を果たしたといえよう。投手では、金田正一{まさいち}(国鉄―巨人)、杉下茂(中日)、稲尾和久{かずひさ}(西鉄)、杉浦忠{ただし}(南海)、村山実(阪神)らがあげられ、さらに村上雅則{まさのり}(南海)は、日本人初の大リーガーとしてジャイアンツに参加(1964)した。打者では、前述の川上、青田、藤村らに西沢道夫(中日)、与那嶺要{よなみねかなめ}(巨人)、中西太{ふとし}(西鉄)、山内和弘{かずひろ}(毎日)、野村克也{かつや}(南海)、長嶋茂雄(巨人)、王貞治{さだはる}(巨人)、張本勲{いさお}(東映)らがいる。  1970年以降は、江夏豊(阪神)、星野仙一(中日)、堀内恒夫(巨人)、鈴木啓示{けいし}(近鉄)、山田久志{ひさし}(阪急)、東尾修(西武)、村田兆治{ちょうじ}(ロッテ)らの好投手と、前述の長嶋、王、張本、野村のほか、大杉勝男{かつお}(ヤクルト)、田淵幸一(阪神)といった強打者がしのぎをけずり、多くの名勝負が生まれ、プロ野球人気が拡大していった。  1980年代に入ると、王、野村、張本らが相次いで引退し、山本浩二{こうじ}(広島)、衣笠祥雄{きぬがささちお}(広島)、掛布雅之{かけふまさゆき}(阪神)、原辰徳{はらたつのり}(巨人)、落合博満{おちあいひろみつ}(ロッテ)、門田博光{かどたひろみつ}(南海)らが活躍、とくに落合博満はプロ入りが遅かったため、通算記録での日本記録はないが、数々の記録を樹立、日本人として初めて1億円プレーヤーとなった。1986年には19歳の4番打者清原和博{きよはらかずひろ}(西武)が、高卒ルーキーとは思えない驚異的な成績をあげている。またブーマー・ウェルズ(阪急)、ランディ・バース(阪神)といった外国人選手が三冠王を獲得するなど、打者優位の時代となった。投手では江川卓{すぐる}(巨人)、斎藤雅樹{まさき}(巨人)の活躍があげられるが、このころから先発とリリーフの分業化が確立、ローテーション制も取り入れられ、大投手の時代が終わった。  1990年代には、イチロー(オリックス)と野茂英雄{のもひでお}(近鉄)が颯爽{さっそう}と登場した。イチローは高校時代は無名の投手だったが、プロで打者に転向して才能が開花、弱冠20歳で首位打者を獲得するや、独特の振り子打法で4割近い打率を記録するなど、「平成の天才打者」とし活躍している。また投手の野茂英雄は、のちにトルネード投法とよばれることになるダイナミックなフォームでアマチュア時代は全日本のエースとして活躍、近鉄に入団後もエースとして豪快な三振奪取で人気を集めた。1995年には自ら希望して大リーグに移籍、大リーグでもエース級の活躍をみせた。以後、伊良部秀輝{いらぶひでき}、長谷川滋利{しげとし}、吉井理人{まさと}、木田優夫{まさお}、佐々木主浩{かずひろ}など、日本人投手の大リーグ移籍が増え、プロ野球もアメリカから日本への一方通行ではなく、両国双方向に選手が往来する時代となった。  1999年(平成11)、前年の甲子園大会で春夏連覇して「怪物」とよばれた投手松坂大輔{だいすけ}が西武に入団、1年目からエースとして活躍し、秋に行われたシドニー五輪予選でも史上初のプロ・アマ混成チームでエースに起用されるなど、19歳にして日本野球界を代表する投手となった。投打を代表する、松坂―イチローの対決は21世紀まで名勝負を繰り広げるとみられる(在籍球団が2球団以上の選手は、活躍時の球団を示す)。→イチロー →王貞治 →落合博満 →金田正一 →川上哲治 →衣笠祥雄 →沢村栄治 →スタルヒン →長嶋茂雄 →野茂英雄 【興行法・フランチャイズ制】 アメリカでは、1903年にナショナル・コミッショナーが選ばれたときに、フランチャイズ(本拠地)を確立した。すなわち、人口200万以上の大都市には2球団、その他の都市は1球団としたものである。しかしその後、フランチャイズの移動がしばしば行われだした。ニューヨークにあったジャイアンツがサンフランシスコに、ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転し、カナダのモントリオールが新たに大リーグ所在地となったこと(エクスポス)など大きな話題である。  大リーグの場合、4月にシーズンが開始され、10月までペナント・レースを行う。各チーム162試合を行い、その半数81試合を自分の本拠地、すなわちフランチャイズの都市で開催し、残りの81試合は相手の本拠地に遠征して試合をし、この162試合の勝率を争うのである。そのとき、自分の本拠地の試合収入は全部収得できるが、相手の本拠地へ遠征して行う試合の諸費用は、全部、訪問する球団の負担となる。これをフランチャイズ・システムという。  そして、両リーグの優勝チームによるワールド・シリーズ(7回戦制、1919年、20年、21年の3年間は9回戦制)を行っている。またシーズン中オールスター・ゲームを行い、収入を選手の厚生資金にあてている。これは1933年にシカゴで開かれたのが最初である。  1969年から1リーグ12チームとし、(77年からアメリカン・リーグは14チーム、東西7チームずつ)、東地区と西地区に分け、自地区で18試合総当り(ア・リーグは13試合)、他地区で12試合総当りの162試合を行い、さらに東西両地区の1位どうしでリーグの5回戦制の優勝決定戦を行い、3勝したチームがリーグの優勝チームとして(85年から7回戦制の4勝したチームが優勝)、ワールド・シリーズに出場していた。1994年からは、ナショナル(14チーム、98年から16チーム)、アメリカン(14チーム)両リーグとも、東地区、中地区、西地区の3地区に分けて、3地区の優勝チームと地区1位以外の最高勝率の1チームの4チームでリーグ優勝を争い(準決勝にあたるディビジョンシリーズは5試合制、リーグの優勝を決めるリーグ・チャンピオンシップ・シリーズは7試合制)、さらにワールド・シリーズ(7試合制)を行うようになった。  日本のプロ野球団は、1人の資本家あるいは2人の合資で経営しているアメリカの興行法とは異なり、創立当初から新聞社、電鉄会社、映画会社などが宣伝のための子会社式に始めたものであるから、運営の方面となると、欠損になれば親会社が埋める制度をとっているので、実際には独立採算制をとるまでに至っていない。都心に近い専属球場をモットーにしているアメリカのプロ野球に対し、電車収入を計算して郊外球場が存在している状態である。創立当初から球場に困り、東京に上井草{かみいぐさ}球場・洲崎{すさき}球場をつくったが、粗末なもので、球場らしいのは兵庫県西宮{にしのみや}市の甲子園球場だけであった。西宮球場が1937年(昭和12)5月、東京の後楽園球場が同年9月に落成した(後楽園球場は1987年解体され88年屋根付き球場「東京ドーム」が完成)。第二次世界大戦後、フランチャイズ・システムに似た方法をとって、1年1シーズン制をとっているが、本拠地は東京と大阪に集中し、ことに東京は、野球場の新設難から本拠地をもたない球団が、貸し球場の東京ドームなどに依存している状態である。  アメリカの例に倣うでもなく十分な見通しもなしに出発したため、いまも親会社をもつ職業野球として不自然な形態を余儀なくされ、親会社の営業状態の余波を受け経営を肩代りされる球団もあった。なおパ・リーグは1973年から1年2シーズン制を実施したが、83年から従来の1シーズン制に戻した。 【ドラフト制】 アメリカではフリー・エージェント・ドラフトfree agent draftが採用されている。これはプロ・フットボールの選手採用制度を野球に取り入れたもので、抽選で選手の獲得を行う制度である。  日本でも1965年にこの制度に倣い、契約金のつり上げを防止するために採用された。新人選手選択規定として同年4月に決定され、以後球団ごとの新人選手の契約を認めないこととなった。各球団が希望する新人選手を抽選による順番に従って選択し、交渉権をとる。毎年1回、11月に開かれる。 【フリーエージェント制】 1987年(昭和62)から、プロ野球にフリーエージェント(FA)制導入をめぐって、労働組合の日本プロ野球選手会と、経営者である日本プロ野球機構との間で議論が繰り返されていた。91年(平成3)3月、選手会は、(1)一つの球団に7年間(入団時21歳未満の者は10年)在籍し、182試合以上に出場(投手および捕手は91試合)、(2)455試合以上に登録、のどちらかの条件を満たせば、希望の球団への移籍、もしくは一定額のボーナスを獲得する権利を得る、という骨子でFA制要求案を提出した。さらに92年12月、選手会はドラフト制の欠点を指摘し、一軍選手のFA制導入のためにはストライキも辞さないとの強硬姿勢を表明した。これを受けて93年1月、プロ野球機構内のFA問題等研究専門委員会はFA制の早期導入を決定した。93年9月、プロ野球機構と選手会との合意が成立し、同年オフからFA制が実施された。  FA資格を一度行使した選手でも、それ以後3年ごとにまた行使でき、再度自由に移籍できる点で、機構側は選手会に大きな譲歩をしたとみせかけて、選手側が強く要望した7年での資格取得の点は承認せず、事実上は野球選手の10年の停年制をしくような結果になった。→東京ドーム(株) →ドラフト制 <神田順治・森岡 浩> 【本】神田順治著『近代野球論』(1958・杏林書院) ▽鈴木惣太郎著『アメリカ野球史話』(1966・ベースボール・マガジン社) ▽Hy Turkin & S.C.Thompson : The Official Encyclopedia of Baseball(1950, A.S.Barnes & Co.) ▽森岡浩編著『プロ野球人名事典』(1999・日外アソシエーツ) 【URL】[日本野球機構] http://www.npb.or.jp/

日本大百科 ページ 57233 でのプロ野球単語。