都市計画🔗⭐🔉振
都市計画
(としけいかく)
city planning
都市計画とは、本来的にいえば都市の営みを計画的に制御・コントロールするための空間計画であり、都市の物的環境の建設・管理技術である。そしてわれわれの課題とする現代都市計画は、(1)人間生活の主要な場である都市において(対象地域)、(2)都市問題の解決、すなわち生産、研究教育、交通、居住、余暇活動など住民生活上の現在および将来の障害を取り除き、その発展的解決を図るために(目的)、(3)主として地域住民とその組織体である都市自治体など公権力が(主体)、(4)法律、財政、金融など行財政手段を組み合わせながら(手段)、(5)物的環境の開発、整備、改善、規制など都市空間の空間的制御と管理を通して(方法)、(6)自然・歴史環境の保全と活用、土地利用の規制と誘導、都市施設の建設と更新、市街地の整備と再開発などを総合的かつ計画的に推進する(機能)、(7)空間計画であり、土木建築的技術であり、また社会的技術である(性格規定)、といえるであろう。
しかし都市が社会的・歴史的存在である以上、都市計画もまた社会的・歴史的存在である。都市計画の実態的な性格や内容はこれまでも時代とともに変遷してきたし、今後もまた変化発展していくであろう。したがってここでは、都市計画を、産業革命を契機とする資本主義社会の成立を一つの歴史的画期として、それ以前を「前近代都市計画」、それ以降を「近代都市計画」としてまず区別し、さらに現在そこから新しい「現代都市計画」が胎動しつつあるという一つの社会的・歴史的過程としてとらえてみようと思う。
【前近代都市計画】
前近代都市計画は、(1)王、貴族、領主、教会、修道院、ギルドなど各時代の都市および国家の支配階級による、(2)主として宗教、交易、軍事治安、政治、集会上の、(3)大規模施設の配置と建設に関する空間計画であり、土木建築的技術である。それは、支配階級の拠点としての都市の発生と無秩序な拡大を背景として生まれ、帝国支配の前衛基地である軍事的植民都市の建設を契機として発展した。たとえば古代ギリシアやローマでは、アテネやローマなどの自然成長的都市と、イオニアや小アジアの諸都市などの計画都市の2種類の都市が共存していた。
古代アテネは紀元前5〜前4世紀の最盛期には都市域220ヘクタール、人口10万〜15万人、人口密度450〜680人/ヘクタールという過密都市に成長するが、都市全体は自然成長的な無秩序に支配され、計画的意図はわずかパルテノン神殿を中心とする「アクロポリス」と市場や集会が開かれる自由市民広場「アゴラ」一帯の建築的調和に限定されていた。一方、奴隷はもとより自由市民でさえもその住居は貧しくて密集し、給水設備も便所もなく、狭くて折れ曲がった道路はところかまわずごみや汚物の捨て場と化していた。世界帝国の首都古代ローマは、その帝国支配の必要性から、属国からの莫大{ばくだい}な富と奴隷労働力によって軍事道路、橋梁{きょうりょう}、上下水道、公共浴場、公共便所など画期的な軍事土木施設や衛生施設の建設を進め、そのことが3世紀までに都市域2000ヘクタール、人口70万〜100万人、人口密度350〜500人/ヘクタールという想像に絶する超大都市の形成を可能ならしめた。しかし宮殿、凱旋{がいせん}門、闘技場など巨大建築群による都心改造工事が歴代皇帝によって繰り返されたにもかかわらず、都市全体を計画的に制御することはまったく関心の外であった。貴族など富める者は郊外や田園の快適な別荘に移り住む一方、自由市民や奴隷は土地建物投機の犠牲となって6〜8階にも達する市内の高層集合住宅スラムの中に押し込められていた。集合住宅に対する18〜21メートルの高度制限や狭い道路での昼間車両通行禁止などの規制も行われたが、実効ある措置とはならなかった。
一方、この時代の代表的な計画都市は地中海沿岸に点在するミレトス、プリエネや、オリントスなど古代ギリシアの軍事植民都市、およびイタリアを中心にヨーロッパ一円に建設され、フィレンツェ、ウィーン、トリノ、パリ、ロンドンなど後の中世都市や近代都市の礎石となった古代ローマの軍事要塞{ようさい}都市である。古代ギリシアの都市国家は、人口が直接民主主義の及ぶ一定規模を超えるときは、兵士を中心に約1万人の植民を派遣して新しい植民都市を建設し、領土拡大を図ることを原則とした。また古代ローマ帝国は、その広大な領土支配を維持・防衛するためにローマ軍団の兵営地を中核に約35ヘクタール、人口5万人の軍事要塞都市を防衛線に沿って多数計画的に配置した。
周囲を堅固な城壁で囲われたこれらの軍事計画都市は、周辺領土や農地の分割の必要から発達した測量技術を基礎に、主要街路に従った規則正しい格子状街路網と街区構成をもち、神殿、市場、公共建築物などは主として主要街路が交差する中央部に、住宅は周辺部の街区の中に配置されるという整然とした幾何学的土地利用計画と建物配置計画を有していた。ミレトス出身の政治家であり都市計画家であるヒッポダモスの名にちなんで「ヒッポダモス式都市計画」といわれるのがこれである。このように前近代都市計画は支配階級の拠点施設計画であったがゆえに、多数の隷属民を抱えた母都市では部分的計画の域にとどまり、その存在自体が周辺領土や農地の支配拠点であった軍事植民都市にして初めて全体計画の段階にまで発展しえたのである。それゆえに支配階級の拠点としての前近代都市は住民多数の普遍的生活空間となりえず、支配階級の権力の崩壊は直接的に都市の縮小や崩壊へとつながりやすく、多くの都市がその後廃墟{はいきょ}への道を歩んでいったのである。
【近代都市計画】
近代都市計画は、(1)資本家、官僚など国家および都市支配階級による、(2)無秩序な資本活動の結果発生する疫病、公害、災害、交通難、住宅難など各種都市問題の事後的・部分的改良および都市空間の資本的再編成、資本投資のための、(3)物的環境をコントロールする空間計画であり、土木建築的技術および社会経営的技術である。近代都市計画はイギリスの近代工業都市にその典型をみるように、18世紀後半以降の産業革命に伴う資本とプロレタリア人口の未曽有{みぞう}の都市集中と都市問題の爆発を背景に、19世紀後半からの国家・地方自治体による労働者住宅スラムに対する各種衛生法規や建築住宅規制として生まれ、20世紀初頭には都市の急膨張に伴って郊外スプロールに対する土地利用規制、ゾーニング計画として発展し、第二次世界大戦以降は都市圏全体の開発をコントロールする都市基本計画、マスタープランとしてほぼその形式を整えるに至った。
前近代社会は基本的に農業社会であり、農村の余剰生産力に支えられ都市人口が総人口の10〜20%の範囲を超えることはなかった。しかし機械制大工場制度に基づく資本主義経済の成立は、都市の工業生産力を飛躍的に増大させて大規模かつ急激な都市化を引き起こし、たとえばすでに1801年96万人の大人口を擁していたロンドンを1901年454万人へと100年間に実に5倍増して世界最大の都市へと成長させた。この間イギリスの都市人口は、1750年総人口の20%・100万人から1851年50%・900万人、1901年77%・2850万人へとわずか150年の間に30倍近くに激増し、都市は世界史上初めて人間の支配的な生活空間へと変貌{へんぼう}を遂げたのである。
しかし自由放任経済の下でのこのような未曽有の都市化は、工場での過酷な労働条件に加えて、工場、住宅が混在し密集する労働者住宅街を中心に、想像を絶する劣悪で非衛生な居住環境をつくりだした。そこでは工場からの煤煙{ばいえん}、ガス、悪臭が絶えず住宅街を襲い、工場排水と家庭汚水と屎尿{しにょう}がいっしょになって側溝や河川にあふれ、労働者家族のほとんどは日照、通風の得られない背割り長屋や地下室住宅の一室に閉じ込められていた。衛生状態は、1000人当りの乳児死亡率が19世紀を通して130〜160人台と極端に高く、コレラ、チフスなどの疫病が繰り返し発生し、1875年当時の労働者階級の平均寿命は実にマンチェスター市17歳、リバプール市15歳であった。こうした労働力の急速な消耗と磨滅、伝染病への恐怖、そして労働者救貧費用の増大が、19世紀なかばから資本家階級をして「公衆衛生法」「職人・労働者階級住宅法」「ロンドン建築法」など一連の都市計画的立法に踏み切らせ、公害、疫病、不良住宅等の都市問題の事後的・局部的改良への第一歩がようやくにして始まったのである。→産業革命
近代都市計画の第二歩は、都市の急激な膨張を背景として20世紀前半から始まった郊外土地利用に関する公共コントロールの導入である。産業革命は交通革命を伴った。蒸気機関車による鉄道網は19世紀なかばまでにイギリス全土にわたってすでに8000キロに達して、人口の都市集中と無秩序な郊外化、スプロールを押し進め、第一次世界大戦以降は乗合バスの発達と自動車の普及がいっそうの拍車をかけた。1898年、近代工業都市のアンチテーゼとしてイギリスの都市計画家、ハワードにより提案された「田園都市」構想は、郊外スプロールへの懸念と快適な田園生活環境を望む中産階級に熱狂的に迎えられ、二つの田園都市レッチワースとウェリン・ガーデン・シティ(ウェルウィン)がロンドン北方に建設された。この田園都市の計画・経営理念は、都市と農村の結合、すなわち都市が工業、商業、農業の各生産手段を所有して職住一体の都市として自立する、土地の共有化によって都市の拡大と土地利用の混乱を防ぐ、田園的環境の中での快適な衛星都市を個人の投資に基づく株式会社組織によって建設し経営するというものであり、周辺2000ヘクタールの農地に囲まれた都市の規模と密度は中心市街地405ヘクタール、人口3万2000人、人口密度80人/ヘクタールという小規模・低密度のものであった。田園都市は近代都市計画の目ざすべき理念と方向をモデル的に提示した点できわめて大きな意義をもったが、母都市である大工業都市そのものの都市問題解決を対象としえなかった点で歴史的限界をもち、その後ロンドンのハムステッド田園郊外住宅地の開発や、アメリカの近隣住区理論に基づくニュー・ジャージー州ラドバーン計画などにみるように、主として新興中産階級の高級郊外住宅地の経営・計画技術として世界各国に普及していった。
こうした事情を背景にして、イギリス最初の都市計画法「1909年住宅・都市計画等法」は郊外開発予定地のみを計画区域に限定していたし、「1932年都市・農村計画法」は計画区域を既成市街地にも拡大したが、その実態は郊外の住居区域の設定など土地利用規制とそれに伴う住宅・建築規制すなわち郊外ゾーニング計画であり、とりわけ中産階級のための質の高い環境アメニティの確保に重点が置かれていた。したがってこの段階でのゾーニング計画は、都市の土地利用を全体的にコントロールしていく公共的手段としてよりも、その後のアメリカ都市に典型的にみるように、中産階級が田園環境アメニティを享受し土地資産価値を維持するために工場や移民・労働者階級の住宅地を排除する、私的な住宅地経営・計画手段、すなわち「排他的ゾーニング計画」として機能していたのである。
近代都市計画の第三歩は、1929年世界大恐慌を契機とする先進資本主義諸国の経済政策の計画化や、第二次大戦の戦時・戦後経済の計画化などを背景として成立した都市のマスタープラン、都市基本計画制度である。資本主義経済が独占段階に発展し、政治・経済中枢としての大都市・大都市圏の重要性が飛躍的に増大するにつれて全国的な地域開発計画とともに、大都市圏全体の高度な空間整備が要求され、ここに初めて都市の業務・商業・工業・居住・レクリエーションなど土地利用の全体的・総合的調整、交通運輸・給排水・エネルギー・情報など都市機能を支える都市基幹施設の整備、そして都心部・拠点地区などの再開発事業などを長期的・系統的に進める総合的空間計画が成立する。これが都市のマスタープランあるいは都市基本計画といわれるものである。
イギリスでは第二次大戦後成立した労働党政府の下で、近代都市計画の集大成ともいうべき「1947年都市・農村計画法」が制定された。この法律は、全国の主要地方自治体に計画立案権限を与え、統一した様式の開発計画と開発プログラムの策定を義務づけ、開発計画を基にすべての開発を公共的にコントロールするという徹底した計画主義にたっていた。そのうえ開発に伴う地価上昇などの開発利益はキャピタル・ゲイン課税として100%社会に還元するという開発権の国有化を打ち出し、世界の近代都市計画の戦後法制化の進展に多大の影響を与えたのである。
【日本の近代都市計画】
日本の近代都市計画は1888年(明治21)公布の「東京市区改正条例」に始まる。明治政府によって上からの急速な資本主義化が図られたわが国では、先進諸国に追い付くため、近代統一国家の首都でありかつ外交交渉の舞台となった東京を、内外に国家的威信を示す東洋第一の通商経済・政治中心都市として近代化する必要に迫られていた。「市区改正」はもともと農村の耕地整理「田区改正」に対応する都市の市街地改造を意味するが、日本の近代都市計画が「国家による、国家威信発揚のための、帝都改造事業」から始まったことは、その後のわが国都市計画を著しく中央集権的・官治的な性格に傾斜させることとなった。
東京市区改正条例の第一の特徴は、市制施行が目前に迫っているにもかかわらず市区改正を都市自治体の事業とせず、国家機関である「東京市区改正委員会」が議定して内務大臣が承認し、東京府知事が執行と経費負担の責任を負うという国家事業としたことである。第二は、市区改正事業の主内容が、新鉄道の拠点東京駅を軸とする霞ヶ関{かすみがせき}中央官庁街と丸の内オフィス街を生み出すための用途地域指定と官有地払下げ、および新都心周辺の幹線道路建設(総事業費の70%)とコレラの大流行を背景にした上水道の建設(同28%)など公共土木事業に集中したことである。第三は、この条例が十分な独自財源をもたず、財源難の理由から大阪、京都、名古屋といった六大都市にさえ条例適用が許されなかったことである。
その後、日清{にっしん}、日露、第一次大戦を経て日本資本主義が急速に発展し、人口1万人以上の都市人口が1887年490万人・総人口の12%から1917年(大正6)1854万人・32%へと30年間でほぼ4倍増するなど急激な都市化が進むなかで、都市化をコントロールするために東京市区改正条例をほぼ踏襲した「都市計画法」および「市街地建築物法」が1919年に制定される。両法において、土地用途を住居・商業・工業などに区分し、その上に建築される建築物の種類・高度・床面積などを制限する「地域地区制度」を創設したこと、おもに土地所有者の負担で市街地整備を行う「土地区画整理制度」を採用したこと、道路のない未開発地や狭い道路しかない市街地で最小九尺(2.7メートル)幅の道路用地を確保するため、当時は「公費を投ぜずして行う郊外の都市計画」といわれた「建築線指定制度」を導入し、この指定を受けなければ建築不許可としたこと、そして適用自治体を当初の六大都市から全市・指定町村に拡大したことなど、近代都市計画のいちおうの体裁が整えられた。
しかし1930年(昭和5)当時、用途地域が決定されていたのは97都市計画法適用都市のうち27都市にすぎず、かつ「工業地域」といえども危険度の高い工場と住宅の混在をそのまま認めるなど土地利用規制はないも同然であった。土地区画整理に関していえば、1930年までに都市計画事業として認可された51件・2172ヘクタールよりも、公共用地の提供が少なくて減歩率が低い耕地整理のほうが544地区・3万3137ヘクタールと格段に多かった。こうして耕地整理、区画整理、建築線指定によって造成された郊外住宅地は、道路幅員が狭くて公園など公共公益施設がほとんどないという低水準のものであった。そして都市計画の策定および都市計画事業の執行を国の事務としたこと、都市計画の議決機関として地方議会を認めず国家機関としての都市計画委員会を中央・地方に設けたこと、国庫補助金や土地増価税などの都市計画財源を大蔵省や大地主層を中心とする貴族院の反対にあって確保できず地方自治体の負担としたこと、都市計画決定できる都市施設は広範にわたっていたが、中央省庁間のセクト争いによって実際に都市計画事業として整備されるものは道路、河川、運河などごく一部の公共土木事業に限定されていたことなど、その基本的性格はまったく変わらなかったのである。
わが国の都市計画が当初きわめて限定的な役割しか果たしえなかったなかで、不幸にもその活躍の場を与えたのが関東大震災と第二次大戦の戦災であった。1923年9月関東一円を襲った大地震は一府六県に10万4000人の死者と46万5000戸の住宅滅失をもたらし、東京市だけでも市街地面積の44%にあたる3390ヘクタールを焼失させるなど壊滅的被害を与えた。同年末に成立した特別都市計画法に基づく震災復興都市計画事業は、土地の1割無償減歩を基礎とする公共団体施行の強制的土地区画整理事業を導入して7年間に区画整理3600ヘクタール、道路延長76キロ、公園45ヘクタールという大事業を完成させ、東京、横浜の中心市街地改造の一大契機となった。しかし罹災{りさい}者住宅対策のために設立された財団法人同潤会による住宅供給は、仮設住宅を含めても滅失住宅の1.2%・5600戸余りにすぎなかった。また第二次大戦による大戦災は全国215都市を罹災させ、全国住宅の5分の1にあたる265万戸と、国富の4分の1にあたる653億円(当時価格)を失わせて都市住民に壊滅的打撃を与えた。なかでも被害の大きかった115都市は、罹災区域6万3153ヘクタール、罹災人口970万人、罹災戸数232万戸、死者33万1000人という惨状であった。→関東大震災 →東京(都)
1946年(昭和21)制定の特別都市計画法に基づく戦災復興事業は、関東大震災時を上回る15%無償減歩の土地区画整理事業を導入して、焼失面積を超過する6万6157ヘクタールの大区画整理事業を計画し、その後の財源不足のなかでしだいに縮小されはしたが、102都市で1959年までに当初計画の44%、2万9100ヘクタールの市街地を整備していちおう終了した。こうして全国ほぼすべての戦災都市が住民の戦争犠牲と無償土地提供のうえに区画整理を行い、中心市街地の多くが整備された。「土地区画整理は都市計画の母」といわれるようになったのは皮肉にもこのためである。
戦前の都市計画法が新都市計画法に移行したのは、すでに戦後二十有余年を経過し高度経済成長政策が未曽有の都市化を引き起こしつつあった1968年に至ってであった。新都市計画法および建築基準法は、都市計画を「都市の健全な発展と秩序ある整備を図るための土地利用、都市施設の整備及び市街地開発事業に関する計画」と定義し、その内容を土地利用規制、都市施設整備、市街地開発事業に3区分した。
土地利用規制は、都市計画区域を「市街化区域」と「市街化調整区域」に二分して市街化規制する「線引き制度」、市街化区域内で建築物の用途・形態・容積などを規制する住居系3・商業系2・工業系3の8用途地域と高度・防火・景観地区など特別目的23地区からなる「地域地区制度」、および大都市地域で市街地整備や住宅地供給促進の特定区域を指定する「促進区域制度」からなる。都市施設整備は、道路、公園緑地、上下水道、河川、学校、病院、市場、住宅団地、官公庁施設、流通業務団地など公的性格が強くかつ市街地の骨格を形成する都市施設を「都市計画施設」として決定することにより、施設予定区域内での建築行為を規制し、土地取得の際に土地収容法の適用を可能とする。市街地開発事業は、市街地を面的かつ総合的に開発するための都市計画事業のことをいい、土地区画整理、工業団地造成、市街地再開発など6種類の「市街地開発事業制度」、これら事業予定区域の都市計画制限をあらかじめ行う「市街地開発事業予定区域制度」、および身近な生活環境整備を図るために各種地区施設や建築物の用途・形態、敷地の最小規模などを計画規制できる「地区計画制度」からなっている。→区画整理
新都市計画法は、都市計画の決定権を建設大臣から都道府県知事および市町村へ委譲したこと、都市計画の策定に関し公聴会、縦覧、意見書提出などの住民参加規定を設けたこと、都市計画区域を「線引き」することによって「市街化させない区域」の制度化を初めて実現したこと、開発水準を向上させるため「開発許可制度」を創設したこと、用途地域をよりきめ細かくして「地域地区制度」を充実したことなど、従来の土木施設的計画を総合的土地利用計画へ発展させた点で、画期的な制度改革と評価された。しかし都市計画が依然として、建設大臣が国家下部機関としての知事に都市計画決定の指示権・代行権をもつ、地方自治体議会の議決を要しない国家機関委任事務であること、住民参加規定はあるが住民意見が都市計画決定に反映される保障規定がないことなど、基本的に東京市区改正条例以来の中央統制的性格は変わっていない。
明治以来の懸案であった都市計画財源確保についても、国庫補助金に関する規定はあるがこれを具体化する政令がなく、従来どおり個別事業ごとに各省庁から縦割り補助金が出る割拠体制が続いている。だから補助金獲得に有利でない限り基幹都市施設といえども都市計画施設として決定されない例も多く、都市としての都市計画事業の総合性、すなわち事業相互間の予算配分や優先性などが担保されているとはいいがたい。また市街地開発事業もおのおのの根拠法に基づいて計画策定や国庫補助金の決定・執行などが行われており、都市計画法の下に統合されて具体化されているわけではない。つまり国の各省庁のエージェンシーとしての自治体各部局によって個別都市計画事業が行われているのであって、地方自治の一環としての都市計画事業が行われているわけではないのである。
土地利用規制については線引き制度や開発許可制度の創設によってスプロール規制が意図されたが、市街化区域の線引きが「あるべき都市パターン」を目ざすよりも不動産業者や地主の意向に沿って現状のスプロールを追認する形で設定される場合が多いこと、市街化区域で1000平方メートル未満のミニ開発は開発許可を必要としないこと(都道府県の規則で300平方メートル以上の開発まで開発許可制度を適用することは可)、開発が原則として禁止されている市街化調整区域でも20ヘクタール以上の計画的宅地造成であれば「穴抜き開発」が可能であることなど数多くの問題点を有している。1971〜84年の開発許可面積10万4279ヘクタールのうち3分の1強の3万7106ヘクタールが市街化調整区域で許可されており、土地利用規制はかならずしも成功しているといえない。
【近代都市計画から現代都市計画へ】
都市人口が農村人口を凌駕{りょうが}して都市が人間の支配的な生活空間であり永続的存在へと転化したときから、都市計画は前近代都市計画のように一部支配階級のための土木建築的技術であることを許されなくなった。近代都市において都市住民の多数者である労働者階級の居住地が初めて都市計画の対象となったのはこのためである。しかし近代都市計画が資本活動に基づく都市開発行為を基本的にコントロールし都市問題を解決しえたかというと、そうとはいえないし、マスタープランがもっぱら産業基盤施設整備や都心部の商業業務施設整備のための空間計画として機能している例も多い。また最近では、都市計画そのものを自由な資本活動を制約するマイナス要因であるとみなして、「計画の自由化」や「規制緩和」を主張する「反都市計画主義」の新保守主義思潮も現れてきている。
しかしその一方、高度経済成長以来の自然・歴史文化財保護運動や居住環境改善・まちづくり運動の経験を通して、基本的人権としての「環境権」「居住権」「まちづくり権」などが主張され、市民参加、住民参加を基礎とした都市住民の現代都市計画の理論と実践がしだいに蓄積されてきていることも事実である。このような動きにこたえて、都市自治体のなかにも、目ざすべき都市像を描いたガイドラインとしての都市基本計画を議決し、これに土地利用の方向を規制する法定都市計画、基幹都市施設整備・住宅環境整備・拠点地区再開発・町並み保全等を行う事業計画、そして身近なコミュニティの生活環境整備を進める地区計画など各種計画を組み合わせながら、地方自治・住民参加活動の一環として都市づくりを具体化するところが出てきている。その意味で現代都市計画は近代都市計画のなかから生まれ、その成果と遺産を受け継ぎつつ同時にその歴史的制約をも乗り越えていこうとする一つの社会的運動であり、地域・自治体運動ともいえるであろう。 <広原盛明>
【本】石田頼房著『日本近代都市計画の百年』(1986・自治体研究社) ▽日笠端著『都市計画』(1977・共立出版) ▽日本都市計画学会編『都市計画マニュアル』(1985・ぎょうせい) ▽大塩洋一郎編著『日本の都市計画法』(1981・ぎょうせい) ▽遠藤博也著『都市計画法50講』(1974・有斐閣) ▽カリングワース著、久保田誠三監訳『英国の都市農村計画』(1972・都市計画協会) ▽渡辺俊一著『比較都市計画序説』(1985・三省堂) ▽ラトクリフ著、大久保昌一監訳『都市農村計画』(1981・清文社)
日本大百科 ページ 45815 での【都市計画】単語。