東欧映画🔗⭐🔉振
東欧映画
(とうおうえいが)
東ヨーロッパには早くから映画が紹介されていたが、国際的に注目される作品は第二次世界大戦前はほとんど製作されていない。戦後ソ連圏となり社会主義国家になったことから各国で映画産業は次々と国有化され、政権の路線によって作風を微妙に変えたりもしたが、しだいに社会主義の公式的な内容から脱して民族的独自性を深く反映した作品に本領を発揮し始めた。優れた作品が多く、とくに短編アニメーションや文化映画などで独自の地位を誇っていた。しかし社会主義崩壊後は旧ユーゴスラビア出身のクストリッツァなど、一部の映画監督の活躍を除き、各国とも映画製作状況は低迷している。なお、旧東ドイツは「ドイツ映画」の項目を参照されたい。→ドイツ映画
【ポーランド】
ポーランドの映画史は、1896年のクラクフとワルシャワでのリュミエール方式の上映会によって始まる。初期には短編記録映画が製作され、1908年に初の劇映画『アントンのワルシャワ初訪問』が公開された。18年の独立直後には製作会社はわずかに3社であったが、その後映画界は大きく発展し、文化の重要な地位を占めるに至った。両世界大戦間では、民族文学作品の映画化の評価が高く、多くが映画化され、当時の商業主義に抵抗した映画芸術集団「スタルト(出発)」(1929〜34)が組織された。第二次大戦中のポーランド映画界はナチスの徹底した弾圧と破壊を受けた。
戦後、1945年にすべての映画産業は国営化され、三つの映画製作所が開設された。戦後の第1回作品は、ナチス占領下のワルシャワ市民の抵抗を描いたブチコフスキLeonard Buczkowski(1900―67)の『禁じられた歌』(1947)で、この作品のテーマである強固な抵抗精神と英雄主義が、現在までポーランド映画の重要な要素となっている。当時の監督に、「スタルト」のメンバーであったヤクボフスカWanda Jakubowska(1907―98)、フォルトAleksander Ford(1908―80)らがいる。一時、社会主義リアリズムの洗礼を受けるが、非スターリン化のなかで独自の発展を遂げていった。53年には、東欧のなかでも独特の独立プロダクション製作方式(ユニット制)を取り入れ、それによって映画人の意欲は向上し、ワイダAndrzej Wajda(1926― )の『灰とダイヤモンド』(1958)、カワレロビチKawalerowicz(1922― )の『影』(1956)、ムンクAndrzej Munk(1921―61)の『エロイカ』(1958)などによって代表される「ポーランド派」の秀作を生み出した。イタリアのネオレアリズモの影響を受けたその新鮮な映像感覚と主題は世界に衝撃を与えた。
ポーランド派以後の新世代として、『水の中のナイフ』(1962)のポランスキRoman Polanski(1933― )、『早春』(1970)のスコリモフスキJerzy Skolimowski(1936― )、『黒土の塩』(1970)のクウツKazimierz Kutz(1929― )らが登場した。1970年代には社会主義体制内の矛盾をついた「モラルの不安派」が登場し、記録映画『履歴書』(1975)のキェシロフスキKrzystof Kie?lowski(1941―96)、『保護色』(1976)のザヌウシKrzystof Zanussi(1939― )らの戦後派が大きな支持を得たが、81年カンヌ映画祭でのワイダの『鉄の男』のグランプリ受賞を頂点として、同年末の戒厳令以後、低迷期に入った。しかし軍政下の過酷な状況にあっても、新しい世代を輩出し、『管理』(1983)のサニエフスキWiestaw Saniewski(1948― )、『叫び』(1982)の女流監督サスBarbara Sass(1936― )らがとくに注目された。
1980年代前半は忍従の時代であった。後半に入るにしたがい自由化の兆しがみえ始め、映画界の動きも活発化する。その動きはグダニスク湾沿いのグディニアの国内映画祭から始まり、軍政下で上映禁止となっていた作品が次々と上映された。さらに89年、90年の革命的ともいえる完全自由化で映画界は劇的な転換期を迎えた。共産主義時代の暗部を描くことがおもなテーマとなり、のちには商業主義の洗礼を受けるまでになったのである。そのころの代表作はワイダの『鷲{わし}の指輪』(1992)である。戒厳令後から現在まで、もっとも活躍したのは『デカローグ』(1988)、『トリコロール』(1994)で知られるキェシロフスキである。しかし、彼は世界的な名声を得て絶頂期にあった96年に55歳でこの世を去り、その死はかつてのムンクの死と同様にポーランド映画界にとって大きな損失となった。新しく登場した欧米的な娯楽映画のなかでは、パシコフスキのギャング映画『犬たち』(1994)が国内で大ヒットとなった。しかし経済的な問題から製作本数は大きく減少し、不振が続いている。長編映画の製作数は年間20本、映画館数は681、年間の観客動員数は2260万人(1995)。→カワレロビチ →スコリモフスキ →ポランスキ →ワイダ <山田正明>
【チェコとスロバキア】
チェコおよびスロバキアの映画が職人的な映画製作から映画産業へと大きく発展したのは第一次世界大戦以降で、1920年代なかばには撮影所や映画館などの設備が整い、30年代に入るとヨーロッパでも有数の映画生産国となった。マハティGustav Machat?(1901―63)の『春の調べ』(1932)などの作品が国際的な評価を受けたが、やがてナチスの台頭によって映画も壊滅した。第二次世界大戦後、映画は国有化され、チェコではプラハ近郊のバランドフ、スロバキアではブラチスラバのコリバをはじめとする撮影所の近代化や、若い映画人の育成、カルロビ・バリ国際映画祭の創設(1950〜。偶数年の6月に開催)などにより新しい発展をみることになる。なかでも人形劇を中心とするアニメーション映画の隆盛は目覚ましく、トルンカJi?? Trnka(1912―69)やゼーマンKarel Zeman(1910―89)らが国際的な名声を得た。
第二次世界大戦後しばらく沈滞ぎみだった劇映画も1957年の「雪どけ」以降、若い映画人たちの台頭によって活況を呈し始めた。60年代に入ると、フォアマンMilo? Forman(1932― )の『黒いペートル』(1963)、イレシュJaromil Jire?(1935― )の『叫び』(1963)、ニェメッツJan Nem?c(1936― )の『夜のダイヤモンド』(1964)、メンゼルJi?? Menzel(1938― )の『監視された列車』(1966)、女流監督のヒティロバVera Chytilov?(1929― )の『ひなぎく』(1966)など優れた作品が輩出し、新しい時代の到来を告げた。だが、この「新しい波」も68年のチェコ事件によって沈黙せざるをえなくなり、フォアマン、カダールJan Kad?r(1918―79)、パサーIvan Passer(1933― )らが国外に去った。こうした痛手にもかかわらず、70年代には毎年50本ほどの長編映画が製作されており、沈黙していた人々もしだいに現場に復帰し、ブラーチルFranti?ek Vla?il(1924― )の『暑い夏の影』(1977)、ヤクビスコJuray Jakubisko(1938― )の『千年の蜜蜂{みつばち}』(1983)などの秀作もつくられ、ふたたびかつての活況を取り戻した。
しかし、1989年に東欧諸国に民主化運動が起こり、チェコスロバキアでも11月の「ビロード革命」によって共産党政権が崩壊、93年にはチェコ共和国とスロバキア共和国に分離・独立するにいたった。そのため、映画界もそれぞれの国に二分され、以後は分離数年前の時期も含めてチェコ映画、スロバキア映画とよばれるようになった。チェコ映画では、『プラハの人々は私を認めた』(1991)のヒティロバや『美しき日々の最期』(1988)のメンゼルらが精力的に作品を発表し、またスロバキア映画では『貧困で病気より金持ちで健康の方がいい』(1992)のヤクビスコらが活躍している。だが、これまでの社会主義体制下の映画製作と異なり、市場経済への移行とその混乱を背景にした商業主義的な映画製作のなかで、この分離・独立した二つの映画界は、いま新たな再生を模索しているといえる。チェコの長編映画の製作本数は年間12本(1994)。年間観客動員数は2189万8000人(1993)。スロバキアの長編映画製作本数は年間4本(1993)。映画館数は472(1995)。→アニメーション映画 →ゼーマン →トルンカ →フォアマン →メンゼル <村山匡一郎>
【ハンガリー】
ハンガリー映画は国際映画祭で毎年多くの賞を獲得し、注目される映画を世に送り出している。フェイェーシュFej?s P?l(1898―1963)の『春の驟雨{しゅうう}』(1932)、ラドバーニRadv?nyi G?za(1907―87)の『ヨーロッパの何処{どこ}かで』(1947)、ファーブリF?bri Zolt?n(1917― )の『メリーゴーラウンド』(1955)、ヤンチョーJancs? Mikl?s(1921― )の『密告の砦{とりで}』(1966)、1967年カンヌ映画祭「最優秀監督賞」を受賞したコーシャK?sa Ferenc(1937― )の『1万の太陽』(1965)、1981年アカデミー賞「最優秀外国語映画賞」を受賞したサボーSzab? Istv?n(1938― )の『メフィスト』(1980)、フサーリクHusz?rik Zolt?n(1931―81)の『エレジー』(1965)などの名作は日本でも公開されている。
国外で活躍した映画人には、1919年の共産革命を避けてアメリカで『カサブランカ』(1943)などを監督したケルテースKert?sz Mih?ly(マイケル・カーティズ、1888―1962)、第一次世界大戦後のハンガリー革命の崩壊後亡命し、イギリスでロンドン・フィルムを創設したコルダKorda S?ndor(アレクサンダー・コルダ、1893―1956)、第二次世界大戦後に帰国した映画理論家バラージュBal?zs B?la(1884―1949)らが有名である。
ハンガリーで最初に映画が上映されたのは1896年で、記録に残る最初のハンガリー映画はジトコフスキZsitkovszky B?la(1867―1930)の『踊り』(1901)である。1911年には最初の常設スタジオをもつ映画会社が創設され、17年にコルダが設立した映画会社は49年国有化され、ハンガリー映画製作社(マフィルム)となった。第二次世界大戦後は社会主義国になったが、一時期を除いては映画にイデオロギーが顔を出すことはほとんどなかった。またハンガリーで映画監督になるには5年制の演劇映画大学を卒業して、資格を取得しなければならなかった。58年には大学院的実験工房としてバラージュ・ベーラ・スタジオが設立され、この「国は金は出すが、口は出さない」という自由なスタジオは優れた監督を輩出した。
ハンガリーは1990年に社会主義体制に終止符を打ち、ハンガリーの映画産業は大打撃を受けた。ハリウッド的な外国の娯楽産業が市場を席捲{せっけん}し、芸術的なハンガリー映画が資金も集まらず、上映館もみつからないという惨状になったが、国会議員となったコーシャ監督が中心となり、国の特殊法人として映画基金が設立され、国産映画には一定の補助金が支出されるようになった。非常に厳しい状況ではあるが、体制転換後、1985年第1回東京国際映画祭で最優秀監督賞受賞の『止った時間』や『怪盗バスカ』(1996)のゴタールGoth?r P?ter(1947― )や『サタン・タンゴ』のタルTarr B?la(1955― )のような若手の監督が注目されている。長編映画の製作本数は年間17本(1994)。映画館数は595、年間の観客動員数は1400万人(1995)。→サボー →バラージュ →ヤンチョー <深谷志寿>
【旧ユーゴスラビア】
旧ユーゴスラビアは、1991年から92年にかけ、それまで連邦を形成していた六つの共和国のうち、スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立した。翌年ボスニア・ヘルツェゴビナも続いたが、クロアチアとともに内戦が起こり、両国ともその混乱が映画状況に影響を与えた。
旧ユーゴスラビアは、連邦の映画会社だけでなく1940年代後半にそれぞれの共和国の製作会社も創設され、数は少ないが独自の製作を続けてきた。ユーゴスラビア映画の主要テーマは対ナチスのパルチザン闘争とその時代が主であったが、50年代後半から若手が登場し、60年代になると複雑な社会の問題に目を向けた優れた現代作品もつくられるようになった。『ジプシーの唄をきいた』(1967)のペトロビッチAleksandar Petrovi?(1929―94)や『保護なき純潔』(1966)、『オルガニズムの神秘』(1971)のマカベーイェフDu?an Makavejev(1932― )らが活躍したが、70年代前半にはふたたび映画は低迷。やがて、『歌っているのは誰?』(1980)のシアンSlobodan ?ijan(1946― )やクストリッツァEmir Kusturica(1955― )ら新世代が登場し、彼らが国際的な知名度を獲得し始めるのと平行し、同国は90年代の分裂へと向かっていった。→クストリッツァ →マカベーイェフ
【スロベニア】
長編5本、短編20本という旧ユーゴスラビア時代に連邦としてスロベニア映画が分担していた年間製作本数が、市場の狭まりとともに独立以後は半減した。1994年から映画に関する法や助成制度、フィルム・アーカイブなどが整備され始めた。監督ではムラカールAndrej Mlakar(1952― )らが知られる。映画館数は158(1989)。
【クロアチア】
クロアチア映画は、旧ユーゴスラビア時代からとくにアニメーションでブコチッチDu?an Vukoti?(1927―99)らのザグレブ・スタジオが伝統的に優れた作品を送り出してきた。内戦中は、映画製作が1、2本というところまで落ち込んだ。監督兼製作者のプラリャクSlobodan Praljakは内戦中将軍となり、戦後も防衛省にとどまったが、ベテランのベルコビッチZvonimir Berkovi? 、ジジッチBogdan ?i?i?らに続いて、新人も登場し、徐々に回復をみせている。内戦後に公開された映画では、内戦中に女性たちが受けた被害を描くドキュメンタリー映画『コーリング・ザ・ゴースト――沈黙を破ったボスニア女性たち』(1996)が日本でも公開された。長編映画の製作数は年間3本、映画館数は150(1995)。
【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
サライエボ生まれのクストリッツァらが旧ユーゴスラビア映画で活躍していた連邦時代には16あった映画製作会社が、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響で4に減り、映画人も四散した。映画館は破壊され、約1年間映画が上映されない時期もあった。1993年にビデオ投影による上映を経て、94年にようやく上映館が再開された。ボスニア映画の製作は記憶の生々しい紛争を題材にしたドキュメンタリー映画が主体であるが、日本でも公開されたケノビッチAdemir Kenovi?(1950― )の『パーフェクト・サークル』(1996)など、劇映画もつくられ始めている。
【新ユーゴスラビア】
国内が内戦の主戦場ではなかったため、映画製作状況は年間5本から10本というところまで回復した。旧ユーゴスラビア時代から活躍する監督も紛争の混乱期を通じ、この国で映画をつくってきた。マカベーイェフの『ゴリラは昼、水浴する』(1993)や、サライエボ生まれのクストリッツァがベオグラードを舞台に製作した『アンダーグラウンド』(1995)や『黒猫・白猫』(1998)などの作品は国際的に高く評価された。新世代には日本でも公開された『ブコバルに手紙は届かない』(1994)のドラシュコビッチBoro Draskovi?(1935― )や『ボスニア』(1996)の監督ドラゴエビッチSrjdan Dragojevi?(1963― )らがいる。長編映画の製作数は年間10本、映画館数は156(1996)。年間の観客動員数は409万人(1995)。
【マケドニア】
マケドニア映画は小さな市場のため製作は思うにまかせない。日本でも公開された『ビフォア・ザ・レイン』(1994)の監督マンチェフスキーMil?o Man?evski(1959― )のように外国に活動の基盤をもち、合作を経験した映画人は国際的に知られているが、それ以外は作品・作家とも知られる機会が少ない。映画館数は40、年間の観客動員数は27万8000人(1996)。
【ブルガリア】
ブルガリア映画では劇映画の先駆者にゲンドフVasil Gendov(1891―1970)があげられるが、ブルガリアの映画製作体制が整備されるのは1948年の国営化以後のことである。一つの劇映画撮影所と四つの短編映画撮影所ができ、ブルチャノフRangel Vulchanov(1928― )の『小さな島で』(1958)、ラデフVulo Radev(1923― )の『桃泥棒』(1964)などをきっかけに国際的な場に進出した。内容は歴史から現代社会まで多岐にわたっているが、政治的問題を強く打ち出すよりも、現実的生活描写のなかにそれとなく漂わせる落ち着いた作風が多い。日本でも公開された『炎のマリア』(1972)のアンドノフMethodi Andonov(1932― )のほか、フリストフHristo Hristov(1926― )、テルジェフIvan Terziev(1934― )、アニメーションのドネフDonyo Donev(1929― )らがその後に続いた。90年代以降の不安定な経済状況のなかでおもにフランス、イタリアとの合作が増え、新世代も登場している。93年に新著作権法が発効し、製作者、監督らが保護されるようになった。映画館は219、年間の観客動員数は369万人(1996)。
【ルーマニア】
第二次世界大戦前は映画監督のピックLupu Pick(1886―1931)、俳優のポペスコElvire Popesco(1894―?)を外国に送り出したほかはみるべきものがなかった。1948年に映画産業の国営化が行われ、52年にはブクレシュティ(ブカレスト)郊外のブフテアに撮影所もつくられた。ルーマニア映画の特色は、スペクタクル好みとともに、伝統的に文学との結び付きが強く、映像よりも台詞{せりふ}に重点が置かれる。解放とか独立など公式的テーマから脱しても標準的な文芸や歴史ものが多い。日本では70年代以降にピツアDan Pi?a(1938― )の『炎の一族』(1975)が初めて紹介された。長編映画の製作本数は年間14本、映画館数は713、年間の観客動員数は2472万人(1994)。
【アルバニア】
初めて撮影所がつくられたのが1952年で、旧ソ連の支援で製作が始まった。それ以降のアルバニア映画の総製作本数は200本程度であり、半鎖国状態を長く続けてきたために、他国との文化交流も、映画が外国に知られることもほとんどない。『タナ』(1957〜58)、『畝{うね}』(1973)など初期からの巨匠ダーモKristaq Daamoのほか、アナグノスティDhimiter Anagnosti、ハカニHysen Hakaniらの監督がいる。ファシスト・イタリアやオスマン・トルコなどの外国勢力への抵抗を題材として、反革命勢力と戦う内容の作品が多い。映画館数は108、年間の観客動員数は330万人(1990)。 <出口丈人>
日本大百科 ページ 44558 での【東欧映画】単語。