地質時代🔗⭐🔉振
地質時代
(ちしつじだい)
geological age
普通、地球が形成されてから現在までの、約46億年の期間を地質時代という。また、過去の特定のとき、たとえばある岩石が形成された時期、あるいは過去の事件や現象のおこった時期をさして、「その地質時代は……」というような限定的使用法もある。
地質時代が地球の歴史のうちのどの期間にあたるか、ということについては、実は一般に認められた厳密な定義はない。その始まりの時期については、先に記したような、地球が形成されたときというほかに、地殻が形成されたとき、最古の岩石が形成されたとき、などがよく使われる。最古の岩石(あるいは鉱物)のできた年代をもって地質時代の始まりと定義すると、それ以後については、現実に存在する物質や物体によって時間の流れを認識できるという点で実際的であるが、地質時代の始まりがより古い岩石の新発見によって変わってしまう、という不都合がある。
一方その終わりは、現在までというもののほかに、歴史時代の始まりまで、新石器時代の始まりまで、など、さまざまに規定されている。しかし、地質時代を区分したときの最後の期間、第四紀あるいはそのなかを細分した単位である完新世は、現在に至る、と定義されている。また、歴史時代や石器時代は人類の文化史を区分する呼称であって、自然史を区分する地質時代の単位と混用しないほうがよい。
地質時代の長さは、その始まりをどこに置くかで違う。最初の地殻が形成された時期について現在定説はないが、約46億年前に地球が形成された直後からマントル物質の分化によってつくられ、その後引き続いて形成が進んでいると一般に考えられている。また現在知られている最古の岩石は、約38億年前、最古の鉱物は42億年前のものであるが、この年代は、今後もっと古い岩石が発見されて修正される可能性がある。
【地質時代の区分】
過去の時間を測り、過去のある時期を共通のことばによって示すことは、地球の過去を知り、その歴史を明らかにするときの出発点となる。またわれわれの生活に必要な資源の多くは過去の特定の時代に形成され、地下に埋もれている。それを効率よく発見し利用するためには、それらが形成された時代や成因を調べなくてはならない。このための手段として地質時代は詳しく区分され、われわれはその区分された単位をいわば目盛りとして過去を測っているのである。
われわれの歴史のある時期を示すのに、たとえば鎌倉時代初期というように時代区分で示す方法と、西暦何年というように暦年数で示す方法とがあるが、それと同様に、地質時代のある時期も、地質時代区分の単位を用いる方法(相対年代)と、いまから何年前というように年数を用いる方法(絶対年代または地質年代)とがある。この二つの方法は、歴史時代の過去を示す二つの方法といろいろな点で類似していて、その利点や欠点も同様と考えてよい。人間の歴史は政治や文化の特徴によって時代区分が行われているが、地質時代も、さまざまなできごとの特徴、とくに動物化石の種類の変遷をもとに詳しく区分されている。地質時代の相対年代区分の枠組みは19世紀末までにほぼ確立されたが、放射性同位体を用いる年代(放射年代)の測定が広く行われるようになったのは1950年代以降で、しかも後述するような原理的・技術的な問題から、実測によって個々の地層や化石の「絶対」年代を決めることは現在でも少なく、相対年代を調べて、それをもとに年数を推定することが多い。
地質時代を区分するときに、その基準となり、時計の役をするのは地層である。放射性同位体を用いる年代測定が実用化された1950年代より前には、過去の時の流れ、あるいは過去にある時期が存在したことを示す唯一の証拠は、そのときに形成された物(すなわち地層や火成岩類、あるいはそれに含まれる化石や鉱物)の存在であった。その現存する「物」を形成された順に並べれば、それがとりもなおさず時の流れを示していることになる。
地層は、古いものの上に順に新しい地層が積み重なって形成され、順序が逆になることはない。このことを地層累重の法則または累重の法則という。したがって地層の積み重なりの順序(層序)は、そのまま時間の経過、あるいはできごとの前後関係を示す。また地層にはしばしば化石が含まれている。化石は過去の生物の遺骸{いがい}または生息の痕跡{こんせき}であり、生物は時とともに進化するので、時代ごとに違う種類の化石が現れる。したがってこの化石を用いて、遠く離れているため地層累重の法則を直接適用できない場合でも、二つの地層の同時性を確かめることができる。この同時性を確かめる作業を、化石による地層の対比という。地層が堆積{たいせき}するとき、いつも連続的に堆積するとは限らない。長い期間にわたって地層が堆積せず、その期間を代表する地層が欠落することがある。また、いったんは堆積しても、後の侵食によって失われてしまうこともごく普通におこる。したがって、過去の時の流れを測るのに必要なすべての期間を網羅した完全な層序をどこか一か所で得ることはできず、いろいろな場所の断片的な層序をつなぎ合わせるために地層の対比が必要になる。
地層累重の法則と化石による地層の対比、それに最近では放射年代測定その他の方法も援用して、世界各地に分布する地層の前後関係を比較し、欠落のない理想的な層序を定め、その地層を化石の特徴をもとに区分する。そしてその区分をいわば物差しとして、過去の時間を測り、時代未知の地層の時代判定をしたりするのである。このような一連の作業を進めて、できる限り詳しくまた正確な時代区分と地層の対比を行う学問分野を層序学(層位学)という。
以上のことからわかるように、地層の順序が地質時代を区分する基礎であり、まず地層の区分が行われて、その後に、その地層区分の単位が堆積した期間として時代の単位が定義される。地質時代区分のための基準となる標準的な地層の積み重なりを地質系統という。地質系統はいろいろな単位に細分されており、それに従って地質時代の区分にも、対応する単位がある。地質系統を区分する際には、地層に含まれる化石の種類が変化する所を境界とし、大きな変化のある所は大きな区分の境界に、小さな変化は小さな区分の境界にすることになっている。この区分に用いられる化石は主として海生の無脊椎{せきつい}動物で、これは、海生の動物は海流に乗って広く分布しやすく、遠く離れた地域間の地層の対比をするのに有効なためである。
【地質時代区分の歴史】
前項で述べたような地質時代区分の方法は、初めから体系的に考案されたものではなく、経験的に時代区分が進められ、その意味や理論的根拠はあとからしだいに理解されるようになってきたものである。
地層累重の法則は17世紀末ころにははっきりと認識されていたが、地層ごとに化石が異なり、同じ化石を含む地層は、離れた土地に分布していても同じもの(あるいは同時期のもの)としてよい、という地層同定則は、18世紀末にイギリスのW・スミスによって初めて気づかれた。スミスはこの原理と地層累重則を用いて、イングランドに分布する地層群の積み重なりを明らかにし、その分布図(地質図)を作成した。すぐ続いてフランスでも独自にこの原理が発見され、スミスが最初に地層区分を行ってから約40年後の1841年までには、北ヨーロッパとイングランドに分布する、現在でいう古生代デボン紀までの地層の区分が行われ、いまも使用されている地質時代区分の名称のもととなった地層名が命名されるに至った。デボン紀より古い地層は、イギリスでは変質が進んでいて研究が困難であったため、解明が少し遅れた。ウェールズに分布するこの古い地層の研究中に、自分の地層区分の正当性をめぐって、2人の親友セジュウィックとマーチソンが論争するという地質学史上有名なエピソードもあったが、結局2人の見解のどちらも一部が正しく、いまでもセジュウィック命名のカンブリア系、マーチソン命名のシルル系という地層名が残って使用され、これらの地層を基準に、カンブリア紀とシルル紀という時代が定められている。
このようにして地質系統を編む作業はまずイギリス南部と北ヨーロッパで進められ、この地域の地層の積み重なりと化石の内容が大略明らかになったのは、1850年代以降のことであった。このような研究は当時まではヨーロッパだけで行われていたため、そこにみられる地層の積み重なりだけが過去の時の流れを示す唯一の物的証拠であり、ヨーロッパに地層が存在しない期間というものは認識不能なので存在しないのと同じことであった。すなわち地層の区分はそのまま地質時代の区分として通用したのであった。しかし、これに少し遅れて北アメリカその他の地域での研究が始まると、ヨーロッパには存在しなかった期間の地層(すなわちヨーロッパでは欠落していた地層)がみつかるようになり、この遠く離れた地域の地層を化石によって対比しつつ組み合わせて、欠落部を補い合い、欠落のない地層の積み重なりをつくり、その区分を物差しとして現在使用されている地質時代の区分がなされるようになったのである。区分された地層の名称は、いまでは、その地層が典型的に分布している場所の地名を冠して命名する、ということに国際的に統一されているが、このような研究が始まった19世紀には、地層そのものの特徴(たとえば白亜系)や先住民族名(たとえばシルル系)がつけられたこともあった。また、18世紀以前には、地層を下から初源層、第二紀層、第三紀層と3分することが行われており、現在も使用されている第三紀という名称はその名残{なごり}である。フランスなどではいまでも中生界を第二紀層とよぶことがある。
なお、地質時代の区分は、このように、地層の積み重なりとそこに含まれる化石を基準として行われているために、カンブリア紀より古く、地層が化石をほとんど含まず、地層の変質や変形の激しい先カンブリア時代の区分はきわめて困難である。そのため現在でも先カンブリア時代の区分は確立されていない。世界の鉄・金・ウランなどの資源の大部分が先カンブリア時代の地層に含まれていて経済的にもきわめて重要であるが、その研究はほとんど放射年代だけを手掛りに行われている。
【地質年代の測定】
地質時代を、現在より何年前であるかという年数で示したものが地質年代である。地層と化石を基準にして過去を区分し、それを時計の目盛りにして過去を測る作業は、150年ほどの間に著しく進展し、地質時代は実に精細に区分されるようになった。しかしこの方法によってどれほどきめ細かく地質時代の区分をしても、それを用いて過去のできごとの時代を判定すると、他のできごとより前か後かが詳しくわかるだけで、何年前かはわからず、せいぜい、比較的近い過去か、ずっと遠い過去かが推定できるだけである。しかし、そのできごとがいまから何年ほど前なのか、あるいは、たとえば地球が何年前に誕生したのかなどを知りたいと思うのは当然である。また年数を知ることは、過去のできごとを定量的に理解するうえで必要となる。たとえば地層がどのくらいの速さで褶曲{しゅうきょく}するか、ある生物がどのくらいの速さで進化するか、などの問題は年数がわからないと答えられない。
古くは、地球が高温の塊から冷却して現在の状態になったという学説に基づいて、赤熱した鉄球の冷却速度から地球の年齢を類推したり、泥や砂が堆積{たいせき}する速さで地層の厚さを割って年代を求めるなど、さまざまなくふうがなされてきた。現在では特殊な場合を除けば、過去の年代は、すべて放射性元素の壊変率が一定であることを利用した放射年代測定が使われている。この方法の原理は次のようなことである。
放射性元素は、陽子(4個)・電子・X線を放出あるいは吸収し、あるいはまた原子核の分裂をおこして、安定な別の元素に変化する。それがもとの量の2分の1に減る時間(半減期)は、放射性元素(これを親元素という)の種類によって一定で、もとの量とは関係なく、またどんな物理・化学的条件下でも変わらないと考えられている。また変化してできる新しい元素(これを娘{じょう}元素という)も決まっている。ある鉱物や岩石が形成されたときにそのなかに取り込まれた放射性元素は、一定の半減期で壊変して娘元素にかわり、それが時とともにしだいに蓄積されていく。そこで、分析によって残っている親元素と娘元素の量比を求めれば、知られている半減期の値を用いて、その鉱物か岩石が形成されてからの時間がわかる。
1896年にフランスの物理学者ベックレルによって放射能が発見され、その理由が放射性元素の壊変にあることが理解されると、ただちにこの方法の原理も気づかれ、1903年には、物理学者のラザフォードによってウランとその娘元素のヘリウムを用いた年代測定が試みられ、古生代の始まりが5億4000万年前ころ(現在は5億7500万年前とされる)、地球の歴史は少なくとも10億年、などという値が得られている。しかし、この方法が実用化されるまでには、分析技術の大幅な改良や、天然の岩石の多くのものに含まれていて年代測定に適した放射性元素の発見など、多くの乗り越えねばならない問題があった。ことに、同一元素でありながら質量数の異なる同位体を分離して測定するための質量分析計の発明と改良は必須{ひっす}であった。
放射年代測定には、その岩石や鉱物の年代が年数で示される、という絶対的な特徴がある。これにはさまざまな放射性元素が利用され、半減期の長さや含まれる鉱物の種類など、それぞれの特徴によって使い分けられている。しかし、利用しうる放射性元素を含む鉱物や岩石は特定のものに限られ、それも形成してから変質していないものでなくてはならない。また分析・測定も高度に精密なもので、専門家と高価な装置を必要とし、なお得られた年代値には数%の測定誤差を含む。このため、年代を知りたいと思う鉱物や地層を、どれでも自由に測定するということはできない。ことに堆積岩には測定可能な放射性元素がまれで、ときたま発見される火山灰層や溶岩層などを利用するほかない。そこで普通は、地質時代の区分に年代値を入れた表があって、化石などを用いて通常の時代判定を行い、そのうえで年代値はこの表から読み取る、ということになっている。この年代値を入れた地質時代の区分表(地質編年表)をつくるには、化石が豊富に含まれていて時代のよくわかった地層の放射年代を直接測定した結果や、地層中に貫入している火成岩や地層に覆われている火成岩の年代などから間接的にその地層の年代値を決め、このような値を組み合わせて地質時代区分の境界の年代を推定する。地質編年表の年代値を改良する努力は絶えず続けられており、3、4年に一度の国際会議で、各国での測定結果を持ち寄って討議されている。→年代測定
【地質時代の研究】
過去のできごとを調べ、地球の歴史を解明することは、地質学のおもな目的の一つである。ここでは、その一般的方法や考え方を紹介しよう。
過去のできごとを調べる際に基本となるのは、自然法則は現在も過去も同じであり、現在おこりつつある自然現象は過去にも同様におこっていた、ということである。かりに物理・化学の法則が過去には異なっていたとすると、過去を自然科学的に研究することができなくなる。この考え方を現在主義という。これまで、この立場で研究を進めてきて、考えを改めなくてはならないような矛盾はまったく現れていない。現在主義にたって地質時代を調べる方法を端的に表している「現在は過去への鍵{かぎ}である」ということばがある。このことばは、現在おこりつつある自然現象と、それが地層や岩石中にどのように記録されるかとを手掛りに過去を調べる、という地質学の方法を示している。
19世紀初頭までは、時代ごとにそれぞれ特別の地層が堆積{たいせき}していた、とか、過去には何回か激変期があって、山地や地層の褶曲{しゅうきょく}がつくられ、そのたびに生物が創造された、などという考えが強かった。これに対し、現在進行しつつあるわずかな変化が積み重なって、結果的に大きな変動となる、ということを主張したのはイギリスのハットンやライエルで、ことにライエルは1830年に初版が出版された『地質学原理』のなかで、その証拠を数多く系統だって示した。これ以後、地球の過去に関する近代的な研究が始まったといってよい。しかしライエルらの考えは、現在おこりつつある地盤の隆起・沈降、侵食や堆積などのさまざまな現象は、現在とまったく同じ規模と同じペースを保って永遠の過去から継続しておこってきた、というものである。この考え方を斉一{せいいつ}主義という。いまではこのような斉一主義にたっている人はいない。しかし斉一主義は、地質学だけでなく、当時の思想界に大きな影響を及ぼした。たとえばダーウィンは、彼の進化論を、斉一主義的な漸移的自然観のうえにたって完成させたのである。→斉一説
〔地殻変動の研究〕 ヒマラヤやアルプスのような大山脈に限らず、低い小さな山地でも非常な長期にわたる地殻変動によってしだいに形成されてきたものである。一つの褶曲は1年に1〜2ミリというような隆起と沈降の積み重なりでつくられ、断層は、数百年に1回の地震のたびに1〜5メートル程度のずれを生じ、しまいには数百キロメートルの変位をおこす。
地殻変動がおこった順序や継続期間を調べる研究では、二つ以上の地層、または断層や褶曲などの地質構造の、相互の関係が重要な手掛りとなる。断層はそれが切っている地層よりあとに形成されたものであり、褶曲はそれを横切っている断層より先にできたものである。多くの地層は元来水底でほぼ水平に堆積したものである。それが、道の切り割や川岸の崖{がけ}などで傾いたり曲がったりして見られれば、それは地層の堆積後に地殻変動によって傾いたり曲がったりしたことを示す。変動の大きさは傾きや曲がりの大きさから測定されるが、変動の時期は、たとえば次のようにして判定される。変形した地層の上を切って変形していない水平な地層が堆積している場合、変形の時期は、変形した地層の時代と変形していない地層の時代との間である。このような方法を組み合わせて、変動が繰り返しおこっていてもその時期や強さを分離して解明することができる。
一連の地層中で、たとえば下部に浅い海にすむ生物の化石がみつかり、上部になるとしだいに深い海にすむ種類が増えている場合には、海水準が上昇していたことがわかる。海水準の変動は、このような化石の種類の変化だけでなく、地層をつくっている堆積物の変化にも記録される。一般に礫{れき}や砂などの粗い堆積物は、供給源である山地の近くか、浅海で波や潮流の強い所に堆積する。普通の状態で砂が堆積するのは、たとえば日本の太平洋岸では20〜30メートル以浅である。また泥は水の動きの少ない深い海か、内湾の中央部に堆積する。しかしときには砂が海底の斜面に沿ってすべり落ちて、数千メートルもの深海に堆積することもある。このような流れ込んだ砂岩層は深海性の泥岩層の間に挟まれ、流れ込んだ状況を示す独特の内部構造があるので、それと判定することができる。このような地層自身の特徴からも、それが堆積した環境とその時間的変化を推定でき、地殻変動研究の重要な手掛りとなる。→地殻変動
〔古地理・古気候の変化〕 地質時代には海陸の分布が現在と著しく異なり、大陸も分裂したり接合したりしていた。またいまより温暖な時期や、ずっと寒冷で広い範囲が氷河に覆われた時期もあった。このような地表の変化を調べる手掛りとしては、過去の生物の記録、化石がもっとも一般的に用いられている。生物は多少とも限定された環境に生息しており、海中、陸上を問わずどこにでもすんでいるという生物はいない。したがって、生息環境が詳しくわかっている生物の化石がみつかれば、そこはおそらくそのような環境であったに違いないと結論できる。
たとえば、サンゴ礁をつくる造礁性サンゴは、体内に共生藻類がおり、そのために水温の高い熱帯で、光のよく通る浅海にしかすめない。化石サンゴの骨格の形態から、このような生活様式は古生代から続いていたと考えられるので、化石のサンゴ礁が発見されれば、そこがかつて熱帯の浅海であったことがわかる。化石サンゴ礁の分布を時代順に調べると、過去に熱帯域が広がったり縮小したりしたようすがわかる。それだけでなく、赤道がいまとは違う位置にあったり、ある大陸の位置が変化したと考えないと他の大陸のサンゴ礁の分布と調和しないなど、大陸が移動したことの証拠も得られる。陸上の動物は、陸続きでないと分布を広げることができない。北アメリカ大陸とユーラシア大陸の間は、ベーリング海峡の部分で第三紀以後何度も接続したり分離したりを繰り返したことが、哺乳{ほにゅう}類化石の分布からわかっている。逆に海域が連続していたかどうかは、海の生物の化石の分布から判断することができる。
大陸が過去にはいまと違う場所にあって、それが移動して現在の場所に至ったということは、火成岩のもっている磁気を調べて立証されている。火成岩ができるときに結晶する磁鉄鉱などの磁性鉱物は、そのときの地球磁場の向きに帯磁する。磁場の向きのうち、水平成分はほぼ南北(すなわち自転軸の向きにほぼ一致)、垂直成分は緯度によって違い、極でほぼ垂直、赤道でほぼ水平なので、火成岩の帯磁の向きを測定すると、その岩石ができたときの緯度と、その地域がいまと同じ向きにあったか、のちに回転したかがわかる。この方法によって、かつてドイツの気象・地球物理学者ウェゲナーが大陸の形や化石の類似などによって推定したゴンドワナ大陸が実在したことや、ヨーロッパと北アメリカが白亜紀ころから分裂して大西洋が出現したことなど、過去に陸地が実際に移動して現在に至ったことが立証されている。→大陸移動説
過去に何回か氷河時代が地球を襲ったことは、寒冷気候を示す化石の産出により、また氷河が侵食してつくった地形や、氷河が運んだ砂礫の堆積物、あるいは氷河が削った岩盤の表面についた擦痕{さっこん}の存在などによって明らかにされている。この擦痕を調べると、氷河の流れた向きも判定することができる。氷河時代には、陸上の動植物は低緯度に移動し、海中の生物も寒流が優勢になったことに伴って低緯度に分布を移している。海の表層で海流に乗って生活するプランクトン類はこのような海流の変動の影響を直接受けて分布を変える。プランクトン類の殻{から}は、死後沈殿して海底に堆積するが、深海底では地層の堆積が連続的におこっているため、気候の変動に伴うプランクトン群の変化が、海底堆積物中で下から上に連続的に記録されている。第四紀の氷河時代の研究は、このような深海底の堆積物を採取する技術の進歩と、その記録の研究によって飛躍的に発展した。
第四紀氷河時代の最近の研究で、とくに重要な役割を果たしているのは、このようなプランクトンの殻をつくっている炭酸カルシウム中の酸素の同位体の研究である。酸素には、その約99.8%を占める[▲16]Oのほかに、[▲18]Oと、ごく微量の[▲17]Oという3種の安定同位体がある。プランクトンの殻をつくる酸素の[▲16]Oと[▲18]Oの存在比(同位体比)は、殻が形成されるときの海水の酸素同位体比と、水温とで決まる。氷河時代には大量の水が氷河となって陸上に積み重なり、そのため、海水面が現在より100メートル以上も低下したのであるが、水が蒸発するときには水蒸気のほうに軽い[▲16]Oがすこし多く集まるので、降雪が積もってできた氷河は、[▲16]Oを含む水分子のほうが海水に比べてより多い。したがって、残された海水中にはわずかながら[▲18]Oが多くなり、この同位体比の変化がプランクトンの殻の同位体比に反映し、氷河の多い時期の殻ほど[▲18]Oが多い。また水温が低いほど相対的に殻の中に[▲18]Oが多く集まる。海底にボーリングをしたり、パイプを差し込んで堆積物を採取し、中に含まれるプランクトンの殻をつくる酸素の同位体比を順に測定すると、時とともに大陸上の氷河が広がったり、縮小したりするようすを復元することができる。この方法によって、地質時代の最後の100万年間に、氷河がとくに広がった氷期が約10回繰り返されたことが明らかになっている。
【地球表層部の歴史】
地質時代に地球の表面でおこってきたさまざまなできごと、たとえば地殻や大気・生物などの発展史、気候や古地理の変遷史などを概観すると、次のようになる。
〔先カンブリア時代の世界〕 先カンブリア時代は、地球が形成された46億年前から約5億7500万年前までの長い期間である。この間に実にさまざまなことがおこって、この時代の終わりころには、地球表層は現在とそれほど大きく違わない状態にまでなっていたと思われる。しかし、古い時代のことのため、十分な情報や証拠が得られておらず、よくわかっていないことが多い。地球が形成された直後の地球表層の状況は、いまのところ物証によって直接的な議論をすることはできない。現在、年代がわかっている最古の岩石は、西グリーンランドに小区域に露出している岩石で、約38億年前のものである。この岩石はいまは変成岩になっているが、もとは堆積{たいせき}岩であったもので、堆積岩というのは岩石が風化してできた砂や泥の粒子が積み重なってできたものだから、38億年前に風化して砂粒か泥の粒子を供給したもっと古い岩石がどこかにあったはずである。しかし、そのもとの岩石はみつかっていないし、今後どこかでみつかるかどうかすら、いまのところなんともいえない。
35億年前くらいの年代の岩石は、最近ではそう珍しいものではなくなり、各大陸で一か所くらいであるが、この年代の岩石がみつかっている。これらの岩石には堆積岩もあるが、多くは特殊な火山岩である。
オーストラリアではこの火山岩の間に挟まれてみつかる堆積岩の中に、ごく原始的な生命の痕跡{こんせき}がみいだされている。これは生物体そのものの化石ではなく、藍藻{らんそう}類と思われる原始的な藻類が浅い海底で生活していたところに、泥の粒子が堆積してつくられたもので、小さく盛り上がった塚状の構造である。32〜33億年前になると、藻類そのものの化石がみつかるようになる。なかでも有名なのは、アフリカ南部のスワジランドのオンベルバクト層群産の化石(かつてフィグトリー層群産といわれていたもの)で、大きさ10ミクロンほどの球状および糸状の藍藻らしい化石とともに、大腸菌に似た外形のバクテリアらしいものがみつかっている。このように、初期の生物は小型で形態が単純なだけではなく、種類もきわめて少なかった。しかし、オンベルバクト層群のものが本当に藍藻とバクテリアであるとすると、有機物を生産する藻類とそれを分解するバクテリア、すなわち生物界における分業、あるいは生態系の基本構造が、このときすでに成立していたことを示す。
およそ20億年前ころになると、化石産地が各地にみつかり、発見される種類も著しく増える。カナダのスペリオル湖北岸に分布するガンフリント層から発見された化石群は、30種近い微小な生物(おそらく大部分は藍藻とバクテリア)からなっている。このガンフリント化石群は、先カンブリア時代の微化石として最初に発見され、その後の先カンブリア時代研究ブームの火付け役となったもので、この点でも有名である。藍藻類の細胞にははっきりした核がなく、同様なバクテリアとともに原核生物とよばれて、これら以外の全生物(真核生物)に比べ原始的であると考えられている。この原核生物からいつごろ真核生物が出現したかを示す確実な証拠はまだみつかっていない。しかし、20億年前ないしは15億年前ごろの地層から、真核生物らしい化石が点々と発見されることから、そのころのある時代のことであろうと考えられている。真核生物が出現すると生物は有性生殖を行うようになった。このため遺伝情報の多様化がもたらされ、したがって進化の速度が大きくなって、動物などさまざまな種類の大型生物が出現することとなったのである。
最古の動物がいつ現れたか、はっきりしたことはわかっていない。10億年前ごろの地層中に、動物が這{は}い回った跡らしいものが発見された、という報告があるが、まだ確認されていない。確実に動物がつくった穴や這い跡と思われるものは、およそ7〜8億年前の地層群中から知られている。また、動物体そのものの確実な化石のうち最古のものは、約6億年前、先カンブリア時代末ごろに初めて発見される。この時代の化石群のうちもっとも有名なのは、オーストラリア中部、エディアカラの丘陵から報告されたエディアカラ動物群である。この化石群のなかには、クラゲ類のほかに、腔腸{こうちょう}動物のウミエラ類や環形動物のオヨギゴカイに近いと思われるもの、現在のどの動物にも似ていないものなど、20種以上の動物が知られており、もっとも大きなウミエラは体長が30センチを超えるものもある。同様な化石は世界各地で点々と発見されている。すなわち、約6億年前には、すでに大型で多様な動物が世界各地に広く生息していたのである。→エディアカラ動物群
先カンブリア時代の前半には、地表の水や大気中に酸素分子(O[▼2])がほとんど存在しなかった、と考えられている。初期の大気は、地球が形成されてマントルや地殻ができたときに、地球内部の揮発成分がガス化して集積したもので、窒素(N[▼2])、二酸化炭素(CO[▼2])などを主としていたらしい。現在大気の20%を占める分子状の酸素は、のちに植物の光合成の副産物として生産され、しだいに集積したものと考えられている。初期の大気や水に酸素がほとんど含まれていなかったらしいことは、当時の水底や地表に堆積した地層中に、まったく酸化されていない鉱物粒子が大量に含まれていることから確かめられている。世界のウラン資源の大部分は、先カンブリア時代の22〜23億年より古い地層中に、堆積性の鉱床として発見されるものである。ウラン鉱物は現在の大気中では非常に酸化されやすいが、この鉱床中のウラン鉱物は、川で運ばれて堆積しているのにほとんど酸化されていない。またいっしょに、これもきわめて酸化されやすい黄鉄鉱の粒子も堆積している。このことは、22〜23億年より前の大気や水中に、これらの鉱物を酸化させる酸素分子がほとんど含まれていなかったことを示す。
地表で酸化された粒子が地層として堆積し始めるようになったのは、およそ20億年前ごろからで、ちょうど藻類の化石が種類を増し、各地で発見されるようになる時期と一致している。すなわち、このころから藻類が増えてきて、それによって酸素が集積し始めたことを示す。この時期には鉄が地層として大量に堆積した。この鉄鉱は、世界の鉄資源のほとんどを占める膨大な量であるが、それまでは水に溶解していた鉄が、藻類から供給される酸素によって酸化されて沈殿したものと考えられている。
藻類は、当時の大気中にふんだんにあったと思われる二酸化炭素を取り込んで有機物をつくり、廃物として酸素分子を放出し、徐々にではあるが大気の組成を変えていった。酸素を取り込んで有機物を酸化させ、エネルギーを得る動物は、大気に酸素が十分に集積したあとでないと出現できない。したがって、7〜8億年前ころには、かなりの量(たぶん現在の10分の1くらい)の酸素が集積していたと考えられる。
一方、藻類が二酸化炭素を消費することによって、地表の気候も変化した可能性がある。二酸化炭素の分子には、波長の長い熱線を吸収する性質があり、地表の熱を地球外に逃がさず、気温を高める働きがある。この働きを温室効果という。藻類が二酸化炭素を消費し、一部は有機物と酸素に、また一部は炭酸カルシウムなどに変化させたため、気温が低下したと考えられる。約20億年ほど前以後の地層中には、氷河の堆積物や氷河が流れて磨いた岩盤などがみつかるようになる。いまから7〜9億年前ごろは著しい氷河時代で、世界各地で広範囲に氷河性の地層が発見されている。大規模な氷河が形成されると、大量の水が陸上に氷として固定されるので、海面が低下する。この時期にも著しい海面低下がおこったであろうし、氷河時代の終わりとともに氷が融{と}けて海面が上昇し、陸地に海が広がったと考えられる。氷河時代から少し遅れて、多様な大型の動物が一斉に出現したのは、酸素の集積とともに、この新しい浅海の出現によって生物の生息空間が急に拡大したためであろうと考えられている。→氷河時代
〔古生代の世界〕 海中に多様な動物が急激に増加し、豊富な化石記録を残すようになると、化石による地層の区分や対比ができるようになって、地球の歴史の詳細な研究が可能になる。古生代以降はこのような時代で、なかでも古生代は、その期間の半分以上、約5億7500万年前から2億4700万年前までの3億年余りを占める。
古生代の最初の紀、カンブリア紀初期には、脊椎{せきつい}動物を除くおもな動物のグループはすべて出現していた。脊椎動物は次のオルドビス紀初期に魚類として出現している。植物界でも同様で、カンブリア紀に入る前にすべての植物門が現れていた。
海中では、初め三葉虫類と腕足類が多かった。オルドビス紀には大規模なサンゴ礁が形成されるようになり、魚類も現れて、現在の海中に似た光景になったようである。ただ、当時の生物はすべて水生で、陸上にはまだ生きているものの姿は動植物ともまったくなかった。
最初の確実な陸上動植物の化石は、シルル紀末、およそ4億3000万年前ごろに発見されている。シダ類に近い原始的な維管束植物と、昆虫やダニ類などの節足動物である。上陸に成功した植物は急速に発展し、次のデボン紀の後期には湿地帯に大森林を形成するまでになった。
生物が陸上で生活できるためには、まず外的条件が整わなくてはならない。それは、大気中の酸素分子の増加である。植物の光合成によって酸素が増え、高空にオゾン層が形成されると、生物体のタンパク質や核酸にとって致命的に有害な紫外線が吸収され、地表に到達する量が減る。シルル紀末に生物が一斉に上陸を始めたのは、そのころになって十分な酸素が集積し、紫外線量が減ったためであるとも考えられる。陸上で生活するには、生物自身の体もさまざまに変わらなくてはならなかった。動植物とも、体表から水分が蒸散するのを防ぐために体表をクチクラ層で覆い、植物は、空気中に露出している幹や葉に水分を補給するための通路として維管束を発達させた。動物は、大気中から直接に酸素を取り込むため、肺あるいは気管という複雑な装置を発達させなくてはならなかった。また、乾燥した大気中における生殖を安全なものにするため、植物は胞子や種子を、動物はじょうぶな殻に包まれた卵をつくるようになった。体制のこのような改革に成功して現在陸上に生息している生物は、全生物群中のごく一部にすぎない。植物では緑色植物中の維管束植物だけで、動物では節足動物と脊椎動物のほか、軟体動物のマイマイ類などがあるだけである。ただし、上陸に成功したこれらのグループは、海中に比べてはるかに変化に富む陸上環境に適応して、爆発的に発展し、種類数でみると全生物界の大部分を占めるに至った。
古生代の後期、石炭紀やペルム紀(二畳紀)には、北半球にローレンシア、南半球にゴンドワナの二つの大陸があり、両大陸の間にテチス海とよばれる広い海があった。この海はその後、新生代中ごろに消失するまで、ずっと南半球と北半球を分ける水域として、古生物地理のうえで重要な役割を果たしてきた。ゴンドワナ大陸上には、石炭紀後期に巨大な大陸氷河が形成され、周辺には寒帯性の植物が生育していたらしい。この時期は、第四紀の氷河時代とともに、カンブリア紀以後でもっとも氷河が発達した時代であるとされている。→テチス海
当時の熱帯域にあたる北米やヨーロッパでは、現在主要な石炭資源となっている大森林が繁茂し、湿った森林の中でデボン紀末に両生類が現れ、石炭紀後期には最初の爬虫{はちゅう}類が出現した。一方、シダ類のなかには種子で繁殖する種子シダ類が現れ、これから種子植物が生じた。
ペルム紀末には、海生動物群中で多かった三葉虫、四放サンゴ、フズリナなどが、一斉に絶滅した。その原因についてはまだほとんどわかっていないが、次の中生代初頭は世界的に生物群が貧弱で、この大絶滅の影響の大きさを示している(図B参照)。
〔中生代の世界〕 中生代は約2億4700万年前から6500万年前までの2億年間ほどの時代である。この期間には大陸の分裂が進み、地球表層の海陸分布は大きく変化した。
南半球のゴンドワナ大陸は三畳紀末ころから分裂を始め、ジュラ紀にはまずインド半島・南極大陸・オーストラリアがアフリカから分離し、ついで白亜紀中ごろにはアフリカと南米とが分裂して、現在のようなばらばらの諸大陸となった。ローレシア大陸が分裂して北アメリカ大陸とヨーロッパ間に北大西洋が出現したのは、少し早く白亜紀前期であると考えられている。
中生代の陸上界における大きなできごとは、爬虫類(とくに恐竜類)の繁栄である。恐竜類は三畳紀初めころ、たぶんゴンドワナ大陸で出現し、すぐに各大陸に広がるとともに、元来肉食であったもののなかに植物食のものが現れるなど、著しく多様化した。原始的な爬虫類のグループのなかからは三畳紀末に哺乳{ほにゅう}類が、またジュラ紀後期には恐竜のなかから鳥類が現れている。哺乳類は古く出現していながら、中生代の間ずっと種類は少なく、いずれも小型で目だたない存在であった。→ゴンドワナ大陸
中生代には陸上植物としてシダ植物やソテツ・イチョウなどの裸子植物が多く、当時の中・高緯度域にまで広く分布していた。このことや他の証拠から、中生代は全体として気候が温暖であったと考えられている。現在の陸上植物の主流を占める被子植物は白亜紀初期に出現した(図C参照)。
中生代の海には、現在のオウムガイに近縁なアンモナイト類が繁栄し、コウイカに近い箭石{やいし}(ベレムナイト)も多い。しかしまだ硬骨魚は少なかった。硬骨魚が増えるのは、白亜紀後期以降である。
中生代末には、少し前から種類数も個体数も減少傾向にあった恐竜やアンモナイトなど、中生代を特徴づける多くの生物が一斉に絶滅した。この絶滅の原因については、気候変化とそれに伴う植生の変化、小惑星の衝突など多くの説がある。いずれにせよ、このときの生物群の入れ替わりは、古生代末の入れ替わりと同じく、大規模なものであった。
〔新生代の世界〕 新生代は、前半の6500万年前から2400万年前まで(古第三紀)と、後半の2400万年以後(新第三紀および第四紀)とに二分することができる。新第三紀と第四紀は、海陸の分布も生物群の特徴も現在とたいへん近い状態になった時期で、古第三紀は、白亜紀末の大絶滅からそれに至るまでの、いわば発展期である。
古第三紀には、陸上では広葉の被子植物が茂り、また哺乳類が、中生代末に絶滅した恐竜類の生態的地位を受け継いで急速に発展した。古第三紀の哺乳類は、現代のものと同様かそれ以上に大型のものがいたが、全体に原始的な形質をもち、いまは絶滅したグループが多い。それらのなかに、新第三紀以後主流となった偶蹄{ぐうてい}類・奇蹄類・長鼻類などが小型の祖先型として現れていた。
古第三紀の前半は温暖な時期であった。しかし、大洋底堆積物の酸素同位体比測定や陸上の植物化石の研究から、始新世の末ごろに急激な気候の寒冷化がおこり、南極大陸に大陸氷河(氷床)が形成され始めたことがわかってきた(図D参照)。
中生代を通じて南北両半球の大陸の間に存在していたテチス海は、分裂したゴンドワナ大陸の破片であるインド半島やアフリカの陸塊の北上によって狭められ、新第三紀初頭までにほとんどなくなってしまった。インド半島とチベットとの間に挟まれたテチス海の海底堆積物や地殻は、両陸塊の衝突によって圧縮されてヒマラヤ山脈となり、ヨーロッパとアドリア・ティレニア地塊の衝突でアルプス山脈が形成された。これらの山脈の出現で、山脈の北側に海から隔離され乾燥した平原ができた。南北アメリカでも、新第三紀以後、西縁のコルディレラ山系の隆起によってその東に内陸平原が現れた。こうして出現した乾燥平原は現在もみられるように草原に覆われ、そこを中心に、ウマやカモシカなどの草食獣の進化がおこったのである。またこの草食獣の発展と並行して、新第三紀に入るとともにネコ科やイヌ科などの食肉類の分化発展が進んだ。
新第三紀初期はふたたび著しい温暖期であった。この時期には海面の上昇がおこったが、これはおそらく南極の氷床が融解したための現象であろう。この海面上昇とその直後の地殻変動に伴う沈降によって、日本列島でもその広い部分が海に覆われ、そこに熱帯的な生物群が出現した。この一時的な温暖期のあと、気候はしだいに寒冷に向かった。南極大陸だけでなく北極周辺にも氷床が出現したのは、新第三紀末の300万年ほど前のことである。このころから気候の変動が目だち始め、およそ100万年ほど前から現在までの間は、大洋底堆積物の研究から、約10万年の周期で著しい寒冷期と温暖期が繰り返した氷河時代であることがわかってきた。
この時代の寒冷期(氷期)には、北半球の各大陸上に大きな氷床が出現し、中緯度地帯では気候帯が赤道寄りに移動したため、平均気温で10℃近くも低下した。しかし、赤道域や極ではそれほど温度が下がったわけではない。
人類は、この寒冷化が始まった300万年前ころ出現した。さまざまな変遷を経ながら氷河時代を過ごし、最後の氷期が終わった1万年前ころから、農耕の技術を獲得して人口が爆発的に増し、現在に至ったのである。→化石 →地球 <鎮西清高>
【本】竹内均・上田誠也著『地球の科学――大陸は移動する』(1964・NHKブックス) ▽浅野清他著『新版改訂 地史学』上下(1967・朝倉書店) ▽D・L・アイッカー著、大森昌衛訳『地史学入門――地質時計』(1971・共立出版) ▽地学団体研究会編、横山泉監修『新地学教育講座1 地球』(1976・東海大学出版会) ▽木村敏雄著『地球――その生いたち』(1977・海洋出版) ▽湊秀雄・西川治・磯田浩他著『地球人の環境』(1977・東京大学出版会) ▽今井功・片田正人著『地球科学の歩み』(1978・共立出版) ▽小嶋稔著『地球史』(岩波新書) ▽P・クラウド著、鎮西清高他訳『宇宙・地球・人間』全2冊(1981・岩波書店) ▽A・L・マックアレスター著、大森昌衛訳『地球生物学入門――生命の歴史』(1982・共立出版)
日本大百科 ページ 40561 での【地質時代】単語。