チェコ🔗⭐🔉振
チェコ
(ちぇこ)
Czech
正式名称はチェコ共和国?esk? republika。英語ではCzech Republic。ボヘミア、モラビア(シレジアの一部地域を含む)からなる。日本語のチェコは国全体をさすが、チェコ語であるチェヒ?echyは一般にボヘミアをさし、チェコ語では全領土を一語で示す定着した名称はない。国全体をさすには、正式名称か歴史的な表現で「チェコ諸領邦」を意味するチェスケー・ゼムニェ(?esk? zem?)が使われている。1992年チェコとスロバキア首脳の話合いでチェコスロバキアの連邦を解消し、それぞれ独立国となることを決め、93年からチェコ共和国が発足した。面積7万8864平方キロメートル、人口1033万1206(1996)。首都プラハ。なお、自然と歴史は「チェコスロバキア」の項を参照。→チェコスロバキア →プラハ
【地誌】
チェコは鉱産資源に恵まれ、早くから鉱工業が発展し、チェコスロバキア時代から工業発展地域であった。また、農業もテンサイ(サトウダイコン)、ビール大麦、ホップ、果樹、野菜栽培と酪農、養豚を中心に発展している。
ボヘミア地方ではプラハ以東のラベ川沿岸平地が肥沃{ひよく}な黒土、褐色土に恵まれ、「黄金の地帯」とよばれる小麦、テンサイ栽培地帯である。ボヘミアの工業は各地で特色がある。スデティ山麓{さんろく}地帯は繊維、ガラス製品製造工業がさかんである。クルシネ・ホリ山地では地元の褐炭をエネルギー源とし、輸入原料を利用して化学工業や重機械工業が発達している。また、南西部のビール生産で著名なプルゼニ(ピルゼン)を中心に重機械工業が発展し、プラハを中心に機械、鉄冶金{やきん}、化学工業や消費財製造工業が発達している。
モラビア地方は北部にオストラバ・カルビナ炭田があり、鉄鋼、化学、機械(鉱業設備、重トラック)工業が主要工業である。また、皮革、家具工業も発展している。モラビアの中心ブルノには、タービンなどの重機械のほか、時計、ボールベアリングなどの精密機械工業も立地している。また、モラビア中・南部で発展する農産物(小麦、ビール大麦、トウモロコシ、テンサイ、ブドウ)を原料にしている食品工業もモラビアの主要工業である。
1989年の体制転換後は観光業が急速に成長した。第二次世界大戦の戦禍{せんか}を被ることが少なかったことも幸いし、各地にはさまざまな時代の歴史的建造物が多く保存され、貴重な観光資源となっている。首都プラハを中心に、西ボヘミアの温泉保養地、南ボヘミアの世界文化遺産都市に登録されたチェスキー・クルムロフ、モラビアのブルノなどに多くの外国人観光客を迎え、1998年にはその数は年間1028万人にものぼっている。→チェスキー・クルムロフ →プルゼニ →ブルノ →ボヘミア →モラビア <中村泰三・中田瑞穂>
【憲法・行政・司法】
1992年12月16日にチェコ国民会議(チェコスロバキア連邦時代の地方議会)は新憲法を採択し、93年1月1日のチェコ共和国独立と同時に発効した。この憲法によれば、チェコ共和国は「人間および市民の権利と自由に対する敬意の上に設立された、主権を有し、単一で、民主的な法治国家」(第1条)とされている。また、1991年1月に連邦議会が採択した憲法律(憲法と同等の効力をもつ法律)「基本的権利と自由の憲章」はそのまま新共和国の憲法秩序においても有効とされている。
国家元首は大統領で、議会上下両院それぞれの過半数の投票で選出される。被選挙権は40歳以上のチェコ市民で、任期は5年、2期まで再選が可能とされている。
議会は二院制を採用している。下院は200議席で、被選挙権は21歳以上、議員は比例代表選挙で選出され、任期は4年。上院は81議席で、被選挙権は40歳以上、議員は小選挙区制選挙で選出される。任期は6年で、2年ごとに議員の3分の1が改選される。また、すべての選挙について、選挙権は18歳以上となっている。下院が法案の先議権をもち、下院を通過した法案を上院が否決もしくは修正しても、下院が全議員の過半数で再可決すれば上院の否決・修正を覆すことができる。また、大統領も法案について拒否権をもつが、差し戻された法案を下院が全議員の過半数で再可決すれば、法律は成立する。
内閣が行政の最高機関とされ、首相は大統領が任命する。他の閣僚は首相の指名に基づいて大統領が任命するが、内閣は下院の信任を必要としているので、実質的には議院内閣制といえる。
司法の最高機関は最高裁判所であるが、憲法解釈については憲法裁判所が、また行政問題については最高行政裁判所が別に置かれている。
【政治】
1993年1月にハベルが大統領に選出され、98年1月に再選された。独立した時点ではチェコスロバキア連邦時代の地方議会であるチェコ国民会議の議員がそのまま新共和国の議会の下院を構成し、上院は空席のままになっていたが、1996年に下院と上院の選挙が実施された。連邦時代の1992年に実施された選挙後、チェコでは市民民主党、市民民主同盟、キリスト教民主連合からなる中道右派連立政権が成立し、首相には第一党の市民民主党党首クラウスが選出された。クラウス内閣は独立後も引き続いて政権の座にあった。96年の下院選挙では、分裂していた中道および中道左派勢力の票をまとめることに成功した野党の社会民主党が得票を伸ばして第二党になり、他方、連立与党は過半数に1議席を欠く状態となったが、連立与党と社会民主党との間で妥協が成立し、中道右派連立政府は政権にとどまり、社会民主党党首のゼーマンMilo? Zeman(1944― )が下院の議長に就任した。
1997年に入るとチェコ経済の不振が顕著になり、首相であるクラウスの経済政策に対する批判が高まった。そうしたなか、同年11月に市民民主党の選挙資金疑惑問題がおき、その責任をとってクラウスは辞表を提出し、12月には無党派の元国立銀行総裁トショフスキーが暫定政府の首相に就任、この内閣のもとで98年6月に下院の繰り上げ選挙が実施された。選挙では社会民主党が第一党となり、新首相にゼーマンが就任した。また、それまで最大与党であった市民民主党は分裂し、同党内の反クラウス・グループの議員は自由連合という新政党を旗揚げした。→クラウス →ハベル
【外交】
1993年に独立したチェコは、一連の国際機関への加盟手続を行った。まず、独立直後の93年1月に国連に加盟、94、95年にはその安全保障理事会非常任理事国に選出された。また、1993年4月にGATT{ガット}(関税および貿易に関する一般協定、現WTO)、同年6月にヨーロッパ評議会Council of Europeに加盟した。さらに同年10月にはEU(ヨーロッパ連合)と連合(準加盟)協定を締結し(発効は94年5月)、94年3月にはNATO{ナトー}(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」枠組み協定に調印。95年11月にはOECD(経済協力開発機構)への加盟が認められた。
チェコ政府は一貫してEUおよびNATOへの加盟を外交の最優先課題とし、それに向けて経済改革や国内法整備を進めた。その結果、1997年7月にNATO首脳会議はポーランド、ハンガリーとともにチェコを加盟候補国として指名し、97年12月にこの3か国はNATO加盟議定書に調印、98年4月にチェコ議会はこの議定書を批准し、99年3月に正式加盟した。EU加盟についてもチェコは1996年1月に加盟申請を行い、97年7月にEUは他の5か国とともにチェコを加盟候補国に指名し、具体的な加盟交渉が開始された。
地域協力としては、中欧自由貿易協定(CEFTA)や中欧イニシアティブ(CEI)などに参加している。1997年末まで継続したクラウス政権はNATOやEU加盟を優先し、これらの地域協力は実務的な経済協力に限ろうとしたが、その後の社会民主党政権はこれらの地域協力に肯定的な姿勢をとった。二国間関係ではドイツとの間で戦後のズデーテン・ドイツ人追放にかかわる問題が懸案となっていたが、1997年1月に両国は和解宣言に調印し、この問題でも一応の合意に達した。1993年の連邦分裂後、スロバキアとは通貨同盟、関税同盟を締結し、密接な関係を維持しようとしたが、経済政策の相違などから通貨同盟は1993年2月に破棄され、それぞれは独自の通貨をもつことになった。また、NATO、EU加盟問題での両国の対応にも相違が目だつようになっている。→ズデーテン →中欧イニシアティブ →中欧自由貿易協定 →平和のためのパートナーシップ
【経済・産業】
1990年以降の民営化政策によって、公営企業の従業員比率は90年の79.6%から96年の22.4%に減少し、私営企業のそれは7.0%から58.9%に増加した。また、産業構造の再編によって同じ期間に農業従事者が労働人口に占める比率は11.8%から6.0%に、鉱工業は37.8%から32.0%にそれぞれ減少した。かわって、建設業の就労者が7.5%から9.0%、商業・修理サービスなどが9.8%から15.4%、ホテル・レストラン従業員が1.7%から3.1%、金融業が0.5%から1.8%に増加した。産業の再編や旧社会主義経済圏の崩壊の影響などでチェコの国内総生産(GDP)は急速に低下し、1990年との実質値の比較(以下同様)で92年には86%にまで落ち込んだ。しかしこの年を底にしてその後は成長に転じ、96年には97%の水準にまで回復した。工業生産額の低下はとくに著しく、1993年には68%となり、その後回復傾向にあるが96年の段階でも81%にとどまっている。ただし、失業率は連邦時代の1991年に4.1%に達したものの、その後は3%前後で推移していた。これは、建設、サービス部門の成長で一定数の雇用が確保できたことにもよるが、同時に企業のリストラがそれほど急速には進行しなかったことも一因と考えられる。
1998年の統計によれば、貿易額は輸出が263億ドル、輸入が289億ドルで、26億ドルの輸入超過となっている。先進国との貿易が多く、OECD諸国が輸出の78.8%(そのうちEUが64.2%)、輸入の70.9%(そのうちEUが63.3%)を占めている。旧社会主義諸国との貿易は1990年以降に急減したが、それでも輸出の26.3%、輸入の21.1%を占めている。貿易品目としては機械類などの工業製品が輸出入とも高い比率を占めている。また、チェコは原油、天然ガスの大部分をロシアからの輸入に依存している。
チェコ経済は東欧諸国のなかでは比較的順調に市場経済への移行を達成し、また安定した成長を遂げているとみなされ、1995年には東欧諸国のなかでは最初にOECD加盟が認められた。しかし、95年から97年にかけて貿易収支が急速に悪化し、97年の一時期には深刻な通貨不安も経験した。その結果、GDP成長率は98年にマイナス成長を記録し、それまで安定していた消費者物価も98年には前年比で20%の上昇となり、やはり安定していた失業率も1997年以降上昇し、99年末には9%前後に達した。とくに、貿易収支の悪化は深刻で、政治不安にもつながっている。
【国防】
国防軍の総兵力は5万8000、そのうち陸軍が2万5000、空軍が1万5000、国境警備隊が4000、治安部隊が1500などとなっている(1999)。またNATO正式加盟により、装備の更新や将校の英語教育などが課題となった。なお、チェコ軍は国連平和維持活動に参加し、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、グルジア、タジキスタンなどに部隊や人員を送った。→ソ連崩壊と東欧の歴史的変革
【社会】
〔人口構成〕 民族構成はチェコ人94%、スロバキア人3%、その他(ポーランド人、ドイツ人、ロマ、ハンガリー人)である(1997)。自然人口増加率は、1994年からマイナスとなっており、人口は減少傾向にある。人口1000人当りの出生率は8.8人、死亡率は10.6人。平均寿命は74.6歳(男性71.1歳、女性78.1歳)である(1998)。チェコの都市化は、工業化に伴って19世紀から始まった。チェコの行政区分によれば6233の地方自治体(都市および村)がある。比較的大きな都市としては、首都のプラハ(約120万)、ブルノ(約39万)、オストラバ(約32万)などがあり、人口5万人以上の23都市の合計人口は全人口の34%を占めている(1997)。
〔教育〕 6歳から15歳までの10年間が義務教育で、この間の初等教育は基礎学校で行われる。中等教育は原則として義務教育修了者を対象とし、教養教育を目的とするギムナジウムと基礎的な専門教育を目的とする技術中等学校は4年制で、卒業試験に合格すると大学進学資格を与えられる。そのほかに大学への進学を前提としない2年ないし3年制の職業中等学校、技術中等学校と職業中等学校をあわせた総合中等学校などがある。また、基礎学校後期教育と中等教育を一貫して行う8年制のギムナジウムもある。基礎学校は地方自治体が、中等学校は国が財政を担い、教育費は無料である。なお、1990年以後、私立学校や教会が運営する学校が、とくに中等教育で増加している。高等教育としては、中欧最古の歴史を誇るプラハのカレル大学をはじめとして、総合大学と単科大学をあわせて23の大学がある。大学進学率は高まる傾向にある。
〔医療・福祉〕 社会主義時代は医療、各種保険、年金等は国庫からの支出でまかなわれてきたが、独立後、これらの医療、社会保障制度の一部は民営化された。1993年以降、政権にあった中道右派連立政府は、これらの分野における国家の役割を最小限度にとどめ、民営部門の役割を拡大しようとした。しかし、98年発足の社会民主党政権はそれまでの政策を見直す姿勢を示した。社会主義時代は人口あたりの病院の病床数や医師の数の多さを誇っていたが、体制変革後は医療施設の老朽化、新しい医療設備導入の遅れ、医師の数の過剰などといった問題が生じている。年金受給年齢は、95年の法改正によって、段階的に支給年齢が引き上げられ、2006年末には男性がそれまでの60歳から62歳に、女性は子供の数によって53〜57歳とされていたが、57〜61歳へと引き上げられる。
〔生活水準〕 チェコは東欧諸国のなかでは早くから工業化が進んだこともあり、生活水準は相対的に高かった。人口1000人当りの乗用車の保有率でみると、1993年が261台であったのに対して95年は302台(東欧ではスロベニアに次いで2位)になり、15.7%の増加となっている。食料品の物価上昇はほかの東欧諸国と比べると緩やかではあるが、1994年には90年のほぼ2倍になっている。94年の人口1人当りの肉の消費量は1990年の84.1%に下がったが、他方で野菜の消費量は同じ期間で13.8%、果物は19.8%上昇している。これは、消費物資の多様化に伴い、チェコ人の食生活に変化が生じていることを意味する。ただし、市場経済への移行に伴う貧富の差の拡大も指摘されており、これは重要な政治的争点となっている。
【文化】
〔概観〕 チェコの文化は中世以来キリスト教と深く結び付いている。またハプスブルク帝国内で、ドイツ化やハンガリー化の潮流に抵抗しながら、チェコ人は自分たちの言語を守り、独自の文化形成に努力してきた。したがってその文化は、あらゆる分野でそのときどきの政治や民族運動と深いかかわりをもち、歴史家で19世紀のチェコ人民族運動を指導したパラツキー、哲学者マサリック(チェコスロバキア大統領1918〜35)、劇作家ハベル(チェコスロバキア大統領1989〜92、チェコ大統領1993〜 )などに代表される多くの文化人が政治の表舞台で活躍した。第二次世界大戦後、とくに1948年以降は、社会主義的文化革命がうたわれたが、89年の共産党体制崩壊後は、チェコ文化の西欧的伝統が再度、強調されるようになった。→パラツキー →マサリック
〔国民性〕 一般に、チェコ人は冷静で慎重な国民といわれる。国民生活のなかには、キリスト教、とくにカトリックの慣習が根を下ろしており、それは社会主義時代においても変わらなかった。チェコ人にとってクリスマスやイースターはいまでも長い休暇を家族とともに静かに過ごす楽しいひとときである。ただし、いずれの教会にも属さない人々が人口の半分以上を占め、社会の世俗化傾向も進んでいる。
スポーツ人口は多く、またその水準は高い。とくに人気のあるスポーツはアイスホッケー、サッカー、バレーボールなどである。アイスホッケーでは、連邦分裂後もチェコは世界的強豪の地位を維持しており、1996年には世界選手権Aグループで優勝している。世界的に有名なスポーツ選手としては、長距離走のザトペックと体操のチャスラフスカV?ra C?slavsk?(1942― )がいる。また、近年ではプロ・テニスの世界でチェコ出身の選手が数多く活躍している。→ザトペック →チェコ人
〔文化施設〕 博物館はプラハの国民博物館をはじめとして234、常設の劇場が81(いずれも1995)あり、劇場は1989年の政治変動以後に数が増えている。歴史的建造物の数はきわめて多く、プラハ市に限ってもロマネスク期以降のあらゆる建築様式が残っており、町そのものが建築史の最良の教科書であるといわれる。また、古い建物の多くが今日でも使用されており、その維持と修理には大きな労力が払われている。
〔芸術〕 近代チェコ文学の発展は19世紀の民族運動とも深いかかわりをもつ。とくに19世紀のチェコ文学は何人かの優れた作家を生んだ。そのなかでは『おばあさん』のB・ニェムツォバーや詩人のJ・ネルダが有名である。また20世紀に活躍した作家ではJ・ハシェクやK・チャペックは世界中で翻訳され、親しまれている。さらに1984年には、第二次世界大戦前から戦後にかけて創作を続けた詩人、J・サイフェルトがノーベル文学賞を受賞し、共産党時代にフランスに亡命したM・クンデラも世界中に読者をもっている。
美術では19世紀の画家J・マーネスJosef M?nes(1820―71)に続いて、国民劇場の建設に加わった人々、すなわち建築家J・ジーテク、彫刻家J・V・ミスルベク、画家のM・アレシュらの「国民劇場の世代」が現れている。またアール・ヌーボーの代表的画家A・ムハはパリで活躍したため、むしろフランス語読みのミュシャの呼び名で知られている。音楽では、オペラ『売られた花嫁』や交響詩『わが祖国』のB・スメタナ、『新世界交響曲』などのA・ドボルザーク、さらにL・ヤナーチェクの名をあげることができる。
演劇のなかで特筆に価するのは人形劇で、チェコ語の擁護で重要な役割を果たしたという歴史をもち、その水準は高い。また、映像とパントマイムを組み合わせたプラハのラテルナ・マギカ劇場も有名。映画では1960年代に国際的な評価を受ける若い監督たちが現れ、現在でもその伝統は引き継がれている。ただし、共産党体制崩壊後に、アメリカや西欧の映画が流入したため、チェコでの映画製作本数は減少傾向にある。→クンデラ →サイフェルト →スメタナ →チェコ語 →チェコ文学 →チャペック →東欧映画 →東欧演劇 →ドボルザーク →ニェムツォバー →人形劇 →ネルダ →ハシェク →ミュシャ →ヤナーチェク
【日本との関係】
両国間の交流は散発的なものではあったが、チェコスロバキア独立以前にまでさかのぼることができる。1871年(明治4)に派遣された岩倉{いわくら}使節団のなかの数人の研修生はボヘミアの各種の工場で技術研修を受けている。また今日、広島の「原爆ドーム」として知られる建物は、来日したチェコ人の建築家J・レッツェルJan Letzel(1880―1925)の設計による。
日本でのチェコ文化の受容はおもに文学を通してであった。第二次世界大戦前に、重訳ではあったが、チャペックの戯曲が日本にも紹介され、築地{つきじ}小劇場で上演されている。戦後は、チェコ文学も直接チェコ語から翻訳されるようになり、その範囲はSF小説や童話を含む広い分野に及んでいる。とくに近年は、チャペックとフランス在住のチェコ人作家、M・クンデラの作品が数多く翻訳されている。
絵画では、ムハ(ミュシャ)の作品が人気を集めており、また音楽ではチェコ・フィルハーモニーをはじめとする数多くの交響楽団、オペラ劇団の来日公演が続いている。
チェコでの日本に対する関心も決して低くはない。第二次世界大戦前は、いくつかの日本についての旅行記が出版されたにすぎなかったが、戦中から戦後にかけて日本研究は本格的なものとなる。文学では『古事記』などの古典から安部公房{こうぼう}や大江健三郎などの現代作家に至る多くの作品が翻訳されている。また文学以外では、柔道、空手、いけ花などが多くの関心を集めている。とくに共産党体制崩壊後、文化交流における制約もなくなり、交流の多様化が進んでいる。 <林 忠行>
【本】大鷹節子著『チェコとスロバキア』(1992・サイマル出版) ▽林忠行著『中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロバキア建国』(1993・中央公論社) ▽V・チハーコヴァ著『新版プラハ幻影』(1993・新宿書房) ▽音楽之友社編『チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド(ガイドブック音楽と美術の旅)』(1995・音楽之友社) ▽小野・岡本・溝端編『ロシア・東欧経済』(1994・世界思想社) ▽小川和男著『東欧再生への模索』(1995・岩波書店) ▽百瀬宏ほか著『東欧』(国際情勢ベーシックシリーズ5)(1995・自由国民社) ▽山本・松村・宮田著『地球を旅する地理の本5――東ヨーロッパ・旧ソ連』(1994・大月書店) ▽北川幸子著『プラハの味は鯉の味』(1997・日本貿易振興会) ▽沼野充義監修『中欧・ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(1996・新潮社)
【URL】[チェッコ共和国〈日本国外務省〉] http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kankei/e_czech.html
日本大百科 ページ 40259 での【チェコ】単語。