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スメタナ🔗🔉

スメタナ (すめたな) Bed?ich Smetana (1824―84)チェコ国民音楽の基礎を築いた作曲家。3月2日、アマチュア音楽家であったビール醸造技師の長男としてボヘミアに生まれる。幼時からピアノとバイオリンを学び、すでに6歳でピアノの公開演奏を行った。ギムナジウム時代に、のちに革命派の有名な詩人となるハブリーチュクと知り合い思想的影響を受ける。1843年、父の反対にもかかわらず職業的音楽家を目ざしてプラハに向かい、プロクシュに和声法、対位法、作曲を学ぶ。46年にはベルリオーズやシューマンに会い、48年にはリストにピアノ曲を献呈し、温かな援助を受けた。当時オーストリアの支配下にあったチェコでは、民衆の間に抵抗運動が広がり、48年6月にはプラハで動乱が勃発{ぼっぱつ}した。民族意識に目覚めたスメタナは国民義勇軍に加わり、さらに『国民軍行進曲』などを作曲した。しかし動乱失敗以後の反動政治の下では自由な音楽活動が抑圧されたため、友人の勧めでスウェーデンに向かい、イョーテボリで音楽学校を開設した。そしてこの教育活動の成功を契機にしてハーモニー協会の指揮者にも迎えられ、ヘンデルからメンデルスゾーンまでの合唱曲の大作や現代曲の紹介と普及に努めた。また作曲活動にも力を注ぎ、57年ワイマールで対面したリストから強い影響を受けて三曲の交響詩を完成した。  1860年代に入りオーストリアの圧力が緩み始めると、チェコにもようやく民族文化建設の時機が到来した。そしてプラハに国民劇場が計画され、さしあたり仮劇場が建設されることになった。スメタナは61年5月に帰国して自作演奏会を開いたが、当時音楽界の実権を握っていた保守派は、作品にリストやワーグナーの影響が強いことを手厳しく批判した。しかし彼は新たな国民音楽の創造に向けて活発な啓蒙{けいもう}活動を行い、やがてフラホル合唱協会の指揮者および芸術協会音楽部門議長に就任。彼の最初の国民歌劇『ボヘミアにおけるブランデンブルク家の人々』(1862〜63)は保守派の反対を受け、66年ようやく初演されたが、聴衆には好意的に迎えられ、さらに喜歌劇『売られた花嫁』(1863。後に改訂)は大成功を収めた。そしてその成功によって、スメタナは仮劇場主席指揮者に就任した。伝説的英雄を主題にした第三作の悲劇『ダリボル』(1865〜67)は、ワーグナー的色彩のために保守派から排斥されたが、彼は長期間をかけてさらにオペラ創作に取り組み、69〜72年に作曲した『リブシュ』は81年の国民劇場の?落{こけらおと}しに上演された。この『リブシュ』完成後の74年にはオペラと同様に国民主義的な連作交響詩『わが祖国』を構想し、彼の創作力は高みに達したが、同年10月には耳疾が急激に悪化して聴覚を完全に失った。そのため、すべての公的職務から退いたが、保守派の冷遇にもかかわらず作曲し続け、6年余をかけて交響詩『わが祖国』を完成し、三曲のオペラ、弦楽四重奏曲『わが生涯より』(1876)などを創作した。しかし83年末から精神錯乱の兆候が現れ、翌84年5月12日、プラハの精神病院で生涯を終えた。  スメタナは、チェコの音楽様式はチェコ民謡を土台にすべきであるという保守的な国民主義の考え方を排し、八曲のオペラと多くの交響詩において、ボヘミアの伝説、英雄、風景、思想を生来の劇的才能で鮮やかに具現している。また、自叙伝的な弦楽四重奏曲『わが生涯より』は、後の世代の標題弦楽四重奏曲に道を開いた。→売られた花嫁 →わが祖国 <寺本まり子>

日本大百科 ページ 34644 でのスメタナ単語。