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イギリス🔗🔉

イギリス (いぎりす) Great Britain 【総論】  ヨーロッパ大陸北西の大西洋上にある島国。正式の国名は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandという。日本で用いられている「イギリス」という呼び名は、ポルトガル語のイングレスInglezがなまって用いられるようになったもので、「英吉利」の字があてられたことから「英国」とも称されるようになった。また古くは「諳厄利亜」(アンゲリア)とよばれたこともある。1707年、イングランド王国とスコットランド王国が統合したとき、グレート・ブリテンの名が正式に定められ、ついで1801年、グレート・ブリテンとアイルランドの統合のときに「グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。現国名は、1922年にアイルランド自由国(現アイルランド共和国)が成立し、北アイルランドが連合王国にとどまったとき以来のものである。総面積24万2432平方キロ、人口5635万2200(1994推計)、人口密度は1平方キロ当り232人。首都はロンドンで、人口は637万8600(1991)。  国旗は、イングランドの聖ジョージ十字、スコットランドの聖アンドリュース十字、およびアイルランドの聖パトリック十字を重ねた図柄のユニオン・ジャック。国歌は世界最古とされる“God Save the Queen (King)"――神よ女王(国王)を守りたまえ――で、いずれもわが国ではよく知られている。  連合王国は、アイルランド共和国とともにイギリス諸島を占めている。イギリス諸島は大小約5000の島からなり、西ヨーロッパ大陸北岸沖に位置する。主島のグレート・ブリテン島は、南をイギリス海峡、東を北海、北を大西洋、西をアイリッシュ海とセント・ジョージズ海峡で囲まれる。第二の島アイルランド島の北部の一画を占める北アイルランドは、東をアイリッシュ海とノース海峡、北を大西洋、西と南をアイルランド共和国で囲まれている。グレート・ブリテンはさらにイングランド、ウェールズ、スコットランドの三地方に分けられるが、人口はイングランドに偏り、1991年現在、イギリス総人口の82.9%がイングランド、8.9%がスコットランド、5.0%がウェールズ、残りの2.8%が北アイルランドに分布している。  イギリスは、西ヨーロッパの一隅にありながら、イギリス海峡を隔てて大陸諸国に対するというその地理的条件から、数百年の間、大陸諸国との間につねに一線を画した立場をとってきた。18世紀の科学革命に続き産業革命でも世界に先駆け、海洋民族として進取の精神に富む国民の海外進出も目覚ましく、19世紀なかばには世界一の工業生産力と植民地をもつ大英帝国を築き上げた。こうしてイギリスを中心とする世界秩序を確立するに至り、この結果ヨーロッパの一員としての自覚よりは、世界の大国としての指導者意識が強くなった。しかしその後、両世界大戦を経て国力は疲弊し、とくに第二次世界大戦後、イギリス経済を支えてきた植民地が相次いで独立し、一方では米ソ二大国の興隆もあり、イギリスは世界の大国としての地位を失い、西ヨーロッパの一国に甘んぜざるをえなくなった。一時背を向けたEEC(ヨーロッパ経済共同体)にも、1973年に拡大EC(ヨーロッパ共同体)の発足とともに参加を認められたことで、イギリスは名実ともに初めて西ヨーロッパの一員となったということができる。  イギリスは第二次世界大戦後も王制を敷く数少ない国の一つであるが、政治の基本は、上下両院からなる議会を国権の最高機関とする立憲君主制で、女王(国王)の権限は「君臨すれども統治せず」という有名な表現からも明らかなように名目的なものである。現在は、1952年に王位を継承したエリザベス2世女王の治世である。イギリスは文化に関しても世界をリードしてきたが、イギリス文化の特色の一つは、イギリス人の現実的な国民性が強く反映していることであろう。政治、経済など現実の社会を動かす制度や、科学技術、あるいは実用主義的理論では現在も高い水準にある。芸術の分野でも、現実的な人間を描く文学や演劇では優れた作品を生み出してきたが、美術、音楽などの分野での貢献はやや低いといえよう。19世紀以来、社会問題の解決に意欲的に取り組み、第二次世界大戦後は世界でもっとも充実した社会福祉制度をもつようになった。しかし反面、最近では国民の勤労意欲は高いとはいえず、成熟した資本主義先進国の将来の姿を示している。 【自然】 〔地勢〕 イギリス諸島は、ヨーロッパ大陸北西の大西洋に広がる水深200メートル未満の大陸棚にある。地質や地層構造、地形なども大陸の延長としての性質を示すことから、もともと大陸の一部であることは明らかで、約8000年前までは現在のドーバー海峡の部分で地続きであったと考えられている。イギリス諸島はいずれも小さな島であるにもかかわらず、さまざまな地形が発達し、地質構造も複雑である。しかし、大別すれば、グレート・ブリテン島東岸ティーズ川河口と、南西部コーンウォール半島のエクス川河口とを結ぶ線によって、西側の石炭紀より古い岩石からなる高地イギリスと、東側の石炭紀より若い岩石からなる低地イギリスとに二分できる。  高地イギリスでは、北部のスコットランド高地から、西の北アイルランド、ウェールズ北部にかけて、スカンジナビア半島から延びるカレドニア大褶曲{しゅうきょく}山系が北東から南西方向に走り、おもに片麻{へんま}岩、結晶片岩、花崗{かこう}岩などの古生代の古い岩石で構成されている。スコットランド高地は長い期間にわたる侵食作用により準平原化し、現在はハイランドの名が示すように高原状を呈し、最高のベン・ネビス山でも標高1343メートルにすぎないが、その後若い地質時代に激しい断層運動や氷食作用を受けたため地形は険しい。高地イギリスでも、南西部は同じ古生代末のヘルシニア期の褶曲作用によってつくられたヘルシニア褶曲山系の山地が横たわる。この山地の主脈となる山系は、アイルランド南西部からコーンウォール半島を経てフランスのブルターニュ半島に延びており、褶曲の方向はほぼ東西となっている。この二つの大褶曲山系の中間は、石炭紀とそれ以降の新しい地層からなり、ここにブリテン島の脊梁{せきりょう}山脈であるペニン山脈が南北に走っているが、ヘルシニア山系と接する部分に大きな炭田が発達している。  一方、低地イギリスはおもに中生代、新生代の岩石からなり、緩やかな褶曲や傾動を受けている。南東部の岩石の多くは第三紀のアルプス造山運動による褶曲を受けているが、この褶曲作用によって地層は南東方向にしだいに低く傾動している。この地帯では柔らかい泥岩や粘土の層と、硬い石灰岩、砂岩、花崗岩などが互層をなす場合が多いが、侵食に対する抵抗力が違うため、傾動作用によってこの互層が地表に露出すると、硬い岩石の部分は残って急斜面をつくり、柔らかい地層の部分は緩斜面となり、ケスタとよばれる階段状の地形が発達した。イギリス諸島は、グレート・ブリテン島の南部を除きかつて氷河で覆われたため、イギリスの地形には氷食作用の影響が至る所でみられる。海岸線でも、スコットランド西岸では氷食山地の沈水による典型的なフィヨルドが発達するほか、一般に西海岸一帯には沈水海岸が広くみられ、海岸線は出入りに富んでいる。東海岸と南海岸には砂浜が発達し、そこでは河口部が海に向かって大きく開けた三角江や、ドーバーのような海食崖{がい}が点在している。 〔気候〕 イギリス諸島は、大陸東岸にあるカムチャツカ半島(ロシア)やラブラドル半島(北アメリカ)とほぼ同緯度にあり、南北の緯度差は11度に及ぶにもかかわらず、夏は涼しく冬は暖かい。これは、大陸西岸にみられる海洋性気候の特色で、ケッペン気候区分では温帯多雨型のCfbに相当する。この恵まれた気候は、西を流れる暖流のメキシコ湾流と偏西風によるところが大きい。しかし、イギリス諸島の気候を支配する北のアイスランド低気圧、南のアゾレス高気圧、およびヨーロッパ大陸に夏に現れる低気圧と冬の高気圧の消長が、イギリスの気候に複雑に働きかけ、天気変化に激しさをもたらしている。とくにアイスランド低気圧から二次的に発生する小さな移動性低気圧が、秋から冬を中心にイギリス諸島の上や周辺を定期的に通過するため、多様な地形の影響もあって、イギリスの天気はめまぐるしく変化する。このように、イギリスの天気は変わりやすく、気まぐれといえる。  気温の年較差は、日本に比べれば驚くほど小さい。たとえば、各地の最低・最高気温の平均をみると、年平均の最低はスコットランド西岸沖ヘブリディーズ諸島の8℃、最高はイングランド南西のコーンウォール半島の11℃で、その差は3℃にすぎない。しかし、夏の等温線が東西に延びているのに対し、冬の等温線は南北方向に延びているため、地域別にはかなりの違いがみられる。たとえば、北緯54度線と西経4度線でイギリスを4分割すると、北東部は夏涼しく冬も寒いが、南東部は夏が暑く冬も温暖だがやや寒い。北西部は夏は涼しいが冬は暖かく、南西部は夏が暑く冬も暖かい。月別平均気温は、北端のシェトランド諸島のラーウィクで冬の12月〜2月が4℃、夏の6〜8月は12℃であるが、南端のワイト島では冬の最低が5℃、夏の最高は16℃である。大都市では、南のロンドンで1月が3℃、7〜8月が17℃、北のアバディーンでは1月が2℃、7月が14℃である。  イギリスは年間を通じて湿度が高く、年降水量の全国平均は1100ミリであるが、地形と海岸までの距離に応じて地域間の格差が大きい。一般的に大西洋に面する西部と北部で多く、東部で少ない。もっとも雨量が多いのはスコットランド西岸で、降雨日数は年間250日に及び、総雨量は2000〜4700ミリに達する。このほか、局地的にはウェールズのスノードン山やイングランド北西部の湖水地方で4000ミリを超える。ペニン山脈では1500〜2500ミリ、ウェールズ山地で1000〜1500ミリ、南西部のコーンウォール半島では1300〜2000ミリとなっている。しかし、東部にかけてしだいに少なくなり、イングランド東部地方では600〜700ミリにすぎない。イギリスの降雨は1年中あまり差がないが、一般に3〜6月は少雨期で、10月〜1月は多雨期といえよう。3週間以上雨が降らないのは例外的で、それも局地的に生ずるにすぎない。雨量が年間を通じて安定しているから、イギリスの河川は流量が一定で流れも緩やかである。このため、イングランド低地を中心に運河網が発達し、19世紀初期まで重要な輸送路として利用されてきた。河川は一般に短く、テムズ川(338キロ)およびセバーン川(290キロ)がもっとも重要な二大河川とされている。 〔動物相・植生〕 イギリス諸島原生の大形動物であるオオカミやクマ、野生のブタやウシ、トナカイなどはすでに絶滅した。キツネやシカは狩猟用に保護され、各地でみられる。小形動物では、リス、野ネズミ、ハリネズミ、その他各種のネズミ、モグラなどが多い。鳥類は各地で約460種が記録され、そのうち200種は留鳥で、残りは渡り鳥である。河川や湖には約30種の淡水魚がすみ、サケ、ウナギのほか、マス、コイなどは魚釣り用に養殖されている。  イギリスの気候と土壌は樹木の生育に適し、太古は高度300メートル以下の地表は原生林に覆われていたが、数千年にわたる人類の利用でその大部分は伐採され、現在、森林面積は国土の10%にすぎず、かわりに放牧地や牧場、荒れ地が60%以上を占めている。氷河が後退したあとにまずカバとマツが生育し、現在はカシとともに全国でみられる。ブナは南部の白亜質の土壌に適し、ニレとトネリコは土地の境界用の垣根として各地で植えられ、イギリスの田園風景に彩りを添えている。 【地誌】  イギリス国内の人口分布を都市・農村別にみると、現在も人口の10%以上が農村部に住むが、全就業者のなかの農林業従事者の割合は1.8%(1994)にすぎず、農村居住者の多くは農業に無関係と考えられる。  イギリスは政治的、経済的、文化的特性などの違いから、イングランド、ウェールズ、スコットランド、および北アイルランドの四地方に分けることができる。現在、人口をはじめ政治、経済、文化などの諸活動が圧倒的に集中するイングランドは、名実ともにイギリスを代表する地方である。ウェールズ、スコットランドの両地方は固有の文化をもつだけでなく、政治、経済の分野でも地方色が強い。北アイルランドは、ブリテン島の三つの地方に比べると、イギリスの一員となってまだ日が浅く、イギリスではやや異質な地方といえる。 〔イングランド〕 グレート・ブリテン島の主要部を占めるイングランドは、北部のペニン山脈と南西部のコーンウォール半島の低い山地を除けば、大部分が平野と丘陵とからなる。ロンドンを中心とする南東地方、ペニン山脈の南に広がるミッドランド地方、および北東地方には、イギリスを代表する大都市圏や工業地帯が発達している。一方、東部のアングリア地方や西部のランカシャー地方海岸部は、イギリスの主要な農牧業地帯となっている。 〔南東地方〕ロンドンを取り巻く南東地方は、イギリス第一の発展地域である。中心の大ロンドン県(1987年以降は大ロンドン)は第二次世界大戦後人口減少が続き、1991年には638万人にまで減った。しかし、南東地方全体の人口はなおも増えており、ロンドンの通勤圏であるロンドン・リージョンの人口は1200万を超え、イギリス最大の人口集中地域となっている。南東地方は温暖な気候や美しい風景に恵まれ、また、ヨーロッパ大陸にもっとも近いことから、第二次世界大戦後ここに多くの企業や各種機関、団体などが進出し、雇用の機会も豊富である。このため、仕事を求める若者や退職した老齢者などを引き付ける力が強い。 〔ミッドランド地方〕ペニン山脈の南のミッドランド地方とよばれる一帯は、イギリス第一の工業地帯である。ミッドランドはさらに、バーミンガムを中心とするブラック・カントリー、ペニン山脈東側のヨークシャー地方、および西側のランカシャー地方に分けられる。ブラック・カントリーは豊富な石炭と鉄鉱石に恵まれ、19世紀後半から20世紀初めにかけて、鉄鋼業を中核とする重工業地帯として目覚ましい発展を遂げた。中心のバーミンガムはイギリス第二の都市で、ノッティンガム、コベントリーをはじめとする多数の工業都市が周りを取り巻いている。このバーミンガムを中心とする工業地帯では、最盛期に工場群の無数の煙突から吐き出される黒煙が昼夜空を覆い、建物は煤{すす}で黒く汚れたため、ブラック・カントリー(黒煙地方)とよばれるようになった。この地方の都市は相互に近接するものが多く、工業の発展に伴って、これら大小の都市群がつながって巨大な都市集団が出現した。このような都市集団を、イギリスでは「コナベーション」(連接都市)とよぶ。第二次世界大戦後、ミッドランドのコナベーションは、南の大ロンドン、北のマンチェスター‐リバプールの両コナベーションとも機能的に結び付き、ミッドランド地方から南東地方にかけて巨大な大都市連接地域が形成されつつある。ランカシャー、ヨークシャーの両繊維工業地帯は、ペニン山脈の東西山麓{さんろく}部に産業革命期につくりだされたが、それらの繊維工業都市の多くは山麓部の瀑布{ばくふ}線に沿って発達した。東側のヨークシャー地方は、元来、農牧業地帯であったが、中世末にフランドルの職人が毛織業を伝えて以来、羊毛工業が発達した。代表的な都市に、リーズ、ブラッドフォード、ハダーズフィールドなどがある。一方、西側のランカシャー地方は、オールダム、バーンリ、ロッチデール、ボールトンなどを中心に綿工業が発達した。最大都市マンチェスターは、19世紀には世界の綿業の中心となり、さらに20世紀にかけて商業都市として発展、現在はイングランド北半部の政治、経済、文化の中心となっている。マンチェスターとも運河で結ばれているマージー川はこの地方の舟運の動脈で、河口部のリバプールはかつて国際貿易港として栄えたが、現在ではもはや昔日のおもかげはない。 〔北東地方〕ヨークシャー地方の北に位置するタイン川沿いの一帯はタインサイドとよばれ、豊富な石炭や鉄鉱石に恵まれ、19世紀後半にミッドランドとともに鉄鋼業を中心とする大工業地帯になった。しかし、国内の大市場から遠いこの地方は、19世紀末から20世紀初めにかけて原料が枯渇し工場施設も老朽化すると、急速に斜陽化が進み、新たに発展地域となった南東地方へ労働力が流出した。政府は1930年代以降、この地方の産業振興に乗り出し、第二次世界大戦後はニュー・カッスルを中心に、電気、化学、機械などの近代工業を導入するなど、長期間にわたって援助を続けているが、不況は慢性化し、回復の兆しはみられない。 〔イングランドの農牧業地域〕産業革命まで、イギリスでは農業は主要産業の地位にあったが、19世紀後半以降、海外農産物の輸入に依存するようになった。しかし、現在も農産物の国内自給率は70%台を維持している。イングランド東部の東アングリア地方、その西のフェンズ地域、およびその北に続くダーラムからウィルトシャーへかけての帯状の地域は、イギリス第一の農業地域で、東アングリアとフェンズでは耕作農業が、ダーラムから北にかけては牧畜と耕作農業を組み合わせた混合農業が卓越する。西部のランカシャー地方からその南のウェールズ山地にかけての、海岸寄りの平野部にも肥沃{ひよく}な土地が広がるが、ここではおもにウシ、ヒツジの飼育や、酪農が行われている。 〔スコットランド〕 大別して、南の低地スコットランドと北の高地スコットランドに二分されるが、平野部に乏しく、山地が卓越する。 〔低地スコットランド〕南寄りの低地はスコットランド最大の平野部で、高緯度のわりには気候が温暖なため、牧畜や果樹、野菜などの栽培を中心とした農業が行われている。東岸のエジンバラはスコットランド王国時代の首都で、現在もスコットランドの政治、文化の中心である。旧王国当時の城塞{じょうさい}や建造物をはじめ、文化的遺産に富み、美しい町並みはヨーロッパ一ともいわれる。近年、北郊に臨海工業地帯が発達している。西岸のグラスゴーはクライド川の河口部に発達したイギリス第三の産業都市で、第二次世界大戦前はイギリス造船業の中心であった。 〔高地スコットランド〕この地方(ハイランドともいう)は、氷河作用で削られた険しい岩山と、その間に横たわる無数の谷やロッホとよばれる細長い湖、冷涼な気候のために乏しい植生などによって、荒々しい山水美がつくりだされている。海岸部の漁業のほか、一部で農業も行われるが、内陸部では牧羊を除けば産業とよべるものはみられない。限られた産物のなかで、ウイスキーやツイード織などは、ハイランドが生み出した国際的商品である。スコットランドが世界に知られているのは、このような荒々しい自然と、その自然のなかに根づくこの地方固有の民俗や特産品によるものである。 〔ウェールズ〕 グレート・ブリテン島西部を占め、おもに山地からなる。人口は少なく、おもに海岸部に分布する。イングランドに統合されて久しいが、いまも一部にウェールズ語やケルトの風俗が残っている。山間部は農業に適さず、牧畜がおもな産業であるが、南の海岸部は良質の石炭を産し、ロンドンにも近いため鉄鋼業が発達した。中心都市カージフは、20世紀初めには世界第一の石炭積出し港をもっていた。山地は一般に低いが、地質的には古く、古生代の紀として有名な「カンブリア紀」の名は、このウェールズのカンブリア山塊からとったものである。 〔北アイルランド〕 アイルランド島北東部の約6分の1を占める地域で、1922年以来、現連合王国の一部を構成する。二院制の議会をもつなど、若干の自治も認められている。おもな産業は農牧業と工業で、中央部の低地を中心に、ウシ、ブタ、家禽{かきん}などの飼育や酪農と耕作を行う混合経営がなされている。耕作農業の主要作物は大麦、オート麦、ジャガイモなどである。工業はベルファストとロンドンデリーの2都市に集中し、ベルファストでは造船やリネン製造、ロンドンデリーでは機械、化学、繊維などの諸工業が盛んである。ベルファストは北アイルランド第一の港湾をもち、政治、経済、文化の中心である。北アイルランド住民の3分の2はプロテスタントで、1960年代後半以降、対立する少数派のカトリック教徒との間で流血の争いが続いている。 <井内 昇> 【歴史】  グレート・ブリテン島には、その地理的位置のゆえに、古来、数多くの民族が移住してきて、融合しあって歴史を形づくった。古代にはケルト人の定住、ローマの征服が行われ、中世には、5世紀以降アングロ・サクソン人、デーン人、ノルマン人、さらにはフランス人が次々とイングランド王国を支配した。したがってイギリスは、島国ではあったがけっしてヨーロッパ大陸から孤立した存在ではなく、12世紀中葉のプランタジネット朝の成立によって、大陸に広大な領土を有するフランスのアンジュー家の帝国に組み入れられた。フランスとの百年戦争は、イギリスが自立的な国民国家を形成するための戦いであった。しかしイギリスでは、羊毛工業の発達により封建社会の解体が他のヨーロッパ諸国より早く、15世紀末にはチューダー朝のもとで絶対主義時代を迎え、ヘンリー8世のときローマ教会から分離し、エリザベス1世の治世には海外への進出の機運が高まった。次のスチュアート朝のもとで、国王と議会の抗争によりピューリタン革命が勃発{ぼっぱつ}し、国王が処刑されて一時、共和制となったが、名誉革命以後は議会を中核とする立憲君主制の政体が定着し、それに歩調をあわせて近代市民社会が展開した。国内では地主寡頭支配の続くなかで、18世紀には大西洋のかなたに植民地を建設し、その物資を加工して内外の需要に応ずるための要請が高まると、18世紀末には世界で最初に産業革命の時代に突入した。同時期にアメリカ合衆国の独立によって植民地帝国はいったん崩壊したが、新たな膨張の方向は、中東、アフリカ、アジアに求められ、ビクトリア女王の治世には最先進的な工業国としての圧倒的な力を発揮し、地球の陸地の4分の1に及ぶ植民地を保持した。しかし20世紀に入って、二度の世界大戦によりイギリスの国際的な地位は大きく傾き、福祉国家の実現を目ざしたものの、経済は停滞を続け、また北アイルランド問題という難問を抱えて、イギリスは「病める老大国」の諸矛盾を露呈している。→イギリス史 <今井 宏> 【政治・外交・防衛】 〔イギリス政治の特質〕 イギリスでは立憲君主制のもとに議会政治が世界でもっとも早く発達し、現代においても安定した代表制民主主義が確立している。それゆえにこの国の政治は、世界諸国から議会政治の母国とかモデルとみなされることが多かった。こうしたイギリス政治の歴史的特質は、保持する価値ありとみなされる古くからの伝統的なものを保持しつつ、近代的なもの、民主的なものへの変容を革命的変動なしに漸進的に成し遂げたところにみいだされる。17世紀の王権をめぐる闘争の結果、王権に対する議会の優位性が確認された名誉革命(1688)以後のイギリス政治史は、まさしくそうであった。「人身保護法」(1679)や「権利章典」(1689)の制定に続き、漸次政治的対抗者への寛容が生じ、18世紀前半ウォルポール内閣時代(1721〜42)に議院内閣制が成立し、野党が市民権をもつに至り、トーリーとホイッグの二大貴族政党政治が確立した。19世紀には、産業革命に伴う社会経済的変動や政治参加を求める民衆的要求の増大に面して、政府と議会は一連の選挙制度改革をはじめもろもろの改革で対応しえた。その点で同時代のフランスと対照的である。  これらの改革はトーリー、ホイッグを前身とする保守党、自由党のもとに行われたのであるが、政治的民主化への改革は、20世紀に入って、1911年の議会法と、成年普通選挙権を導入した18年と28年の国民代表法によってほぼ完成した。1911年の議会法は、選挙で選ばれる代表からなる庶民院(下院)の、世襲制の貴族院(上院)に対する、法制定における優越的権限を確定したものである。漸進的民主化の方向への政治変容の歩みは、その後も続き、保守・労働二大政党制期にも引き継がれた。第二次世界大戦後の労働党アトリー内閣のときにできた福祉国家・混合経済体制は、保守党にも受容された。60年代から経済危機を背景にして「対決の政治」が「合意の政治」に変わる傾向が生じているが、元来「妥協の政治」とか「取引の政治」は、近代イギリス政治エリートの政治文化をなしていた。こうした政治文化が超党派外交や外交政策の連続性をも支え、内政上の諸改革をも可能にし、政治的安定の一つの条件となっているのである。  第二次世界大戦後イギリスの国力および国際的地位は著しく低下した。とりわけ1960年代から福祉国家・混合経済体制のもつ負の側面が表面化し、経済停滞と深刻な労働争議の英国病が生じた。財政も76年には危機に陥った。歴代政府はその対応策に苦慮し続けたが、戦後体制を根本的に見直し、国を変革すると公約した「対決の政治」のサッチャー内閣(1979〜90)の下でイギリス病は克服された。サッチャリズムの社会・経済政策は保守党メージャー内閣(1990〜97)に、そしてまた、党規約から公有化を放棄した労働党のブレアTony Blair(1953― )内閣(1997〜 )にも引き継がれ、「合意の政治」がふたたび始まった。なお現代の政治体制の問題としては、福祉国家体制下に政策決定における行政府の権限がとみに増大して集権化が進行し、政府と圧力団体との協議の制度化も行われて、相対的に立法府(議会)の役割の低下という現象が生じている。したがって、分権化と議会政治の復権が今日におけるイギリス政治の問題点である。 〔政治制度〕 〔憲法〕イギリス憲法は、単一の文書による成文憲法の形式をとらず、法令と慣習法および慣行からなる。その憲法上の規則は、議会立法や慣行を変更、廃止、創出したりする一般的合意によって変えられる性質のものである。この憲法によれば、イギリスの統治機関は、王国の最高の立法上の権威としての立法部、政府・各省庁・地方自治体・公的法人からなる行政部、そして司法部からなる。憲法上主権者は元首たる国王である。政府はいま「女王の政府」Her Majesty's Governmentであり、連合王国はその政府が女王の名において統治する。「影の内閣」たる野党も「女王の野党」Her Majesty's Oppositionとよばれている。司法部の長も国王である。しかし国王の役割は、首相から定期的に統治に関する報告を聞くこと、議会の開会および閉会や首相の任命にかかわること、新内閣の認証式など諸儀式への出席、外国訪問などに限られている。首相の任命は議会の意向に従うのが常である。かつて国王が有した政治的権限は、今日では首相や庶民院に代表される議会に移っている。国王はイングランド教会の俗事上の支配者でもあり、国家構造における尊厳的部分を代表している。→イギリス憲法 〔議会〕立法上の最高機関たる議会は、庶民院(下院)と貴族院(上院)からなる。選挙で成立してから解散するまでの議会は、下院の任期から最長5年で、1会期は1年である。1会期で出席を要する平均日数は、庶民院175日、貴族院140日である。議会の解散、総選挙の施行、新議会の召集は、国王が首相の助言を受けて王室宣言の形式で行われる。各会期の冒頭に両院では、政府の基本政策と立法計画からなる施政方針案が「国王演説」King's(Queen's) Speechの形で提案される。 〔庶民院〕この下院は、成年普通選挙制下に選ばれる659名の議員で構成される。議席はイングランド529、ウェールズ40、スコットランド72、北アイルランド18と配分されている。議員は、総選挙のほかに、空席が生じたとき補欠選挙で選出される。議員には年俸のほか秘書手当、調査手当、交通費、生計手当などが支給される。下院の主要な機能は、第一に立法的機能である。19世紀の議会では議員法案が重要な位置を占めたが、今日ではイギリス政府の法律家たちが作成した政府法案の審議が主である。下院の時間の50%が立法に費やされるが、その大部分が政府法案に占められる。第二に、下院において主要政党は、内閣と影の内閣のチームをつくっているので、下院は政府の人材補充源としての機能をもっている。第三に、下院は法律の実施や行政の実情を調査する機能をもっている。下院の諸委員会も行政調査を行えるが、議員は1967年に設置されたオンブズマン(議会コミッショナー)に行政調査を求めることができる。第四に、下院は議会討論を通じて政治上の問題点について国民に教える機能をもっている。 〔貴族院〕この上院は聖職者議員と世俗議員からなる。前者はカンタベリーとヨークの大司教のほか、イングランド教会の24名の司教である。後者を1978年についてみると、1963年の貴族籍返上法で貴族籍を放棄しなかった世襲貴族男女約800名、1958年の終身貴族法で生まれた終身貴族男女約300名、上院の司法的職務にかかわる法官20名余りから構成される。終身貴族は増える傾向にあり、1968年から10年間におよそ2倍になった。議員総数は81年で1168名に上るが、会議への出席率は低く、平均して約290名である。世襲議員の3分の1は年1回しか出席しない。上院議長は大法官である。貴族院は1911年議会法が制定されるまで、下院を通過した法案への拒否権をもっていた。この議会法のもとでも非金銭法案については、その成立を2年間遅延させる権限を有したが、1949年議会法によって1年間に短縮された。さらに終身貴族法と貴族籍返上法により、貴族院はしだいに保守党の牙城{がじよう}ではなくなった。 〔内閣〕内閣は、初めは国王の諮問機関である枢密院から発生した国王補佐機関だったが、18世紀のウォルポール時代に首相職が生まれ、議院内閣制ができたことから今日のようなものになった。枢密院が有した権限の多くは内閣や各省に移った。内閣は通常、下院で議席の多数を占める政党指導部によって構成される。戦争とか国家的危機の際は挙国一致の連立内閣も組織された。内閣は20名余りの閣内相のほかに、小さな省担当閣外相や政務次官など約80名の中・下級大臣を従えており、これらのポストへの首相の任命権は大なるものである。議会を母体とする内閣は、各省庁官僚の協力を得て政府法案を作成するので、そこでは立法部と行政部の緊密な融合がなされる。立法過程における行政部の役割は、立法部のそれをしのぐと評価されている。首相は与党党首を兼ねて、議会を統御し、実質的な叙任権や下院解散権をも握っている。中央政府各省の官僚機構はホワイトホール・マシーンとよばれる。中央政府下の約50万の国家公務員は、各省に配属され、トップの行政管理者階級から下位の執行階級までの階層制をなしている。事務次官級以下の2500名のトップの階級に属する者が、政治的にたいせつな仕事を受け持っている。 〔司法制度〕イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドによって法制には相違点があるが、刑法と民法が明確に区別されていることをはじめ共通するものも多い。法源は、議会立法、命令や規則などによる立法と慣習法である。経済社会問題に関するもののなかには、欧州共同体法が適用される場合もある。イングランドとウェールズの司法制度をみると、刑事では、第1審の段階で小事件を扱う治安判事裁判所があり、その上の段階で、より重大な事件や治安判事裁からの控訴を扱うのが、巡回判事、高等法院判事が担当する陪審制の刑事裁判所Crown Courtである。そこからの控訴は控訴院刑事部にいき、最終審は貴族院である。民事では、第1審段階で婚姻、入籍などの問題が略式裁判所で扱われ、それ以外の問題は県裁判所County Courtで扱われる。略式裁からの控訴は高等法院家族部にいき、県裁判所および高等法院からの控訴は控訴院民事部にいく。最終審として貴族院がある。貴族院では控訴官たる議員のみが判事となる。裁判官は大法官の推薦により君主が任命する。なお枢密院司法委員会は、大法官、法官、他の枢密顧問官からなり、チャネル諸島、マン島、海外属領、上訴権を廃止していない連邦諸国の裁判所からの、また教会裁判所からの最終控訴院である。 〔地方制度〕1974年に地方自治体の大規模な再編成が行われた。この改革によって、大ロンドンを除くイングランドとウェールズで、従来の58県、1250市区町村は、53県countyとそのなかに含まれる369地区districtに整理統合された。おのおのが住民によって選ばれた議会をもつ独立した自治体である。県は広域にわたるプランニング、公道、交通規制、消防、警察、消費者保護などの行政を行い、地区は公園、住宅などのよりいっそう地域的な行政にあたる。首都には大ロンドン県議会の下に32の特別市会とシティのロンドン市会があり、大マンチェスターのような人口密度の高い六大都市県metropolitan countyでは、県議会の下に地区会があった。スコットランドでは9圏域の下に53地区会がおかれていた。国全体が二層制two tiersの地方自治であったのである。これが1986年に大ロンドン県議会と六大都市議会が廃止され、そこは一層制となり、96年からスコットランドやウェールズも同様に単一制地方自治に改められた。地方議員の任期は4年、投票資格はその地域に居住する18歳以上の男女、被選挙資格はそこの21歳以上の選挙権者であることとなっている。中央政府は地方自治体の諸事業に補助金を交付しており、地方の中央依存度は年々高まり、地方自治体歳入の半分以上を占める。自治体独自の主な歳入源は持ち家、賃貸を含む住居にかかるカウンシル税とよばれる税金である。 〔分権制議会〕地方分権devolutionの声が20世紀後半から高まり、とくにスコットランドとウェールズの民族主義がこれを促した。1979年に労働党政権下で行われた住民投票では、連合王国内の二つの圏域議会という分権制は成立しなかったが、分権制議会を公約して政権の座に上ったブレア内閣の下で、1997年9月スコットランドとウェールズでの住民投票referendumが行われ、ようやく実現することになった。その結果、限定された立法権をもつスコットランド議会Scottish parliamentがエジンバラに開設され、その下に政府のスコットランド省Scottish officeに変わる執行部executiveができる。マクロ経済、防衛、外交政策は従来どおりだが、教育、法、自治体などは執行部の管轄下におかれ、大幅な権限委譲である。ウェストミンスターの議会にはこれまでどおり議席をもつ。しかし少数派のスコットランド民族党SNPはこうした変革に対して、連合王国からの分離・独立を究極の目標としている。  他方、ウェールズでは分権に対する住民投票の結果は、賛成投票が僅差のものであったが、ウェールズの言語と文化の伝統を守る西、南部の人々の支持が厚く、この分権制が成立し、カーディフにウェールズ議会Welsh assemblyが設けられた。議会は立法権はもたないがその内容を審査する第二次的な重要性を帯び、これまでのウェールズ省Welsh officeを民主的に統御するようになったといえる。  復活するスコットランド議会(129議席)とウェールズ議会(60議席)の議会選挙が1999年5月に行われた。 〔政党〕政党は、議会と政府、地方自治体で重要な役割を演じている。政党なくして政治制度の発達はなかったといえる。今日の主要政党はほとんどが組織政党ないし国民政党とよばれるものである。  すでに19世紀後半、保守党および自由党は、労働者階級を支持基盤に取り入れた党になっていた。20世紀に自由党にかわった労働党は、中産階級をも基盤とする党に成長した。主要政党の公約はいずれも国民諸階層の支持を求めるものである。保守・労働二大政党制は、第二次世界大戦後の4分の1世紀にわたり安定度の高いものであった。両党の得票率の合計は1951年に96.8%をマークした。だが74年に75%前後に急落、79年にどうにか80%台に戻ったが、83年に70%に下がった。60年代以来の経済状態の悪化で二大政党離れが生じ、自由党に再生の兆しがみえ、民族主義党のスコットランド民族党とプライド・カムリが台頭した。81年には、労働党離党者を主とした27名の下院議員を擁する社会民主党が結成され、自由党との中道連合が形成され、89年に自由民主党Liberal Democratsとなる。この党が三大に入るが、小選挙区制のせいもあって二大政党制は崩れない。二大政党の一方に難があるときは、総選挙での票と議席は他方に移るからである。また選挙で敗れた党は政権復帰を目ざして努力するからである。二大政党の得票率の合計が、87年に73%、92年に76%、97年に76%弱となったことがそれを示す。しかし昨今の多党化の時代に二大政党が、5、60年代のような高い得票率を占めることはもうないと読むことができる。 〔選挙〕下院議員選挙についてみよう。全国659の小選挙区で、各区から単純多数代表制first-past-the-post systemで1名ずつ選出される。この選挙制度は二大政党に有利な結果をもたらしてきた。投票資格年齢は1969年に20歳から18歳に下げられた。被選挙年齢は従来どおり21歳以上である。選挙権はイギリスに居住するアイルランド共和国市民にも与えられる。ただし被選挙権はイギリス国民だけに与えられる。軍務や商船員で投票できない者には代理投票か郵便投票、身体障害や仕事で当日投票できない者には郵便投票の制度がある。投票は義務制ではないが、投票率は概して高く、1945年から97年の総選挙では71%を割ったことはない。選挙人名簿が毎年10月に確定するので、実質的にはもっと高い。供託金は500ポンドで、有効投票の5%以上得票しないと没収になる。法定選挙費は、85年の選挙法で有権者が6万人の都市区で5110ポンドである。小選挙区制が導入された1885年の前の83年に制定された腐敗違法行為防止法によって、選挙はしだいに浄化され、法定費用の枠内で行われるようになった。 〔圧力団体〕圧力団体には、社会のある部分の特殊利益追求型と、集団の特定の態度から発する目的追求型がある。両者とも中央および地方の政策決定過程で重要な位置を占める。前者の代表的なものが、大多数の労働組合が加盟するTUC(労働組合会議。96年に73組合、680万人)とあらゆる分野の大から小にわたる企業が加盟するCBI(イギリス産業連盟。25万社)である。後者にはCND(核軍縮運動)がある。経済団体のような圧力団体は政権をとりうる政党と密接な関係があり、政党と区別しがたい面がある。労働党はその人材、資金をTUCや個々の労働組合に依存している。保守党はおもな財源は財界に仰いでいる。けれどもこれらの団体にしても政党とは独自に行動する機能をもっている。政府が変わっても、政策決定に際し、どの政府とも直接協議を行うようになっている。1950年代以降、年々500を超える政府の諮問委員会、審議会に圧力団体代表が参加している。60年代から70年代にTUCやCBIは政府の政策決定機構に組み込まれ、NEDC(国民経済発展会議)をはじめ多くの重要な政府機関に代表を出した。決定方式がトリパルティズムtripartismとかコーポラティズムcorporatismともよばれるが、サッチャー政権に始まる18年の保守党政権には引き継がれなかった。TUCはユニオンパワー(労組権力)とよばれていた政治内影響力を著しくなくしたが、CBIや銀行、証券、保険等の業界を代表する非公式の圧力団体とされるシティの政権への影響力は増大した。こうした政府と圧力団体の関係は、労働党のブレア政権下でも踏襲されている。 〔外交〕 〔帝国保全と勢力均衡〕イギリス帝国は19世紀初頭までに形成されたが、そのころからこの国の外交の基調は、自国と海外領土および権益を守る帝国保全政策であり、ヨーロッパ大陸に対しては、イギリスの地位や権益を脅かす強国の出現を恐れ、同盟国をつくって介入する勢力均衡政策であった。19世紀中葉、どの国よりも早かった産業革命で「世界の工場」となったイギリスでは、帝国経営に消極的な小イギリス派も存在し、自由貿易主義が主流となったが、その政策も帝国保全政策と根本的に対立するものではなかった。列強が植民地を求めて争う帝国主義時代に入ると、この国は世界不況(1873〜96)下に失業、労働問題が生じ、その経済的優越の時代は過ぎ去った。そこでブーア戦争(1899〜1902)に至る帝国主義政策が展開され、独立を求める民族運動は武力鎮圧された。スエズ運河はこの国の死活的権益とされた。アイルランド自治法案をめぐって1886年に自由党内閣が瓦解{がかい}し、92年には同案が庶民院を通過したのに貴族院で拒否されたことは、帝国保全政策が深く浸透していたことを示す。  だが第一次世界大戦以来その政策は徐々に形を変えた。この戦争後イギリスは世界の軍事・経済大国ではなくなった。アイルランドが内戦ののち独立し、インド独立運動も進展した。自治領諸国の離反傾向も生じた。そうしたなかでイギリス帝国はイギリス連邦に変わり、1931年ウェストミンスター憲章で連邦諸国は対等の地位をもつに至った。第二次世界大戦後は単に連邦とよばれるようになるが、30年代の大不況下に特恵関税制をもつ経済圏として編成され、戦後もEC(ヨーロッパ共同体)に入るまでは、イギリスの主たる経済圏であった。ヨーロッパ大陸に対する勢力均衡政策は、国力の低下が始まった19世紀後葉からいろいろな形でとられたが、強国ドイツの出現、アメリカの時代の到来などによるイギリスの国力の低下で破綻{はたん}した。 〔外交の現状〕第二次世界大戦後イギリスの国際的地位は低下した。国連安保理事会の常任理事会五か国には属するが、その影響力は米ロ仏中四大国と比較すると限られたものである。その広大な属領は、1947年のインド、パキスタンの独立に始まり、60年代にイギリス領アフリカ全部が独立し、みる影もなくなった。独立した国は連邦に加盟している。軍事力はアメリカに依存するものとなった。53年スエズ出兵の失敗は、イギリス、フランス両国の力の限界を露呈した。ロンドンは依然国際金融の重要な機能を営んでいるが、60年代以来の経済状態の悪化は、この国の経済力の著しい低下を如実に示している。こうした状況下にイギリスは、軍備の縮小を図り、本国とヨーロッパに軍事的コミットメントを集中し、NATO{ナトー}(北大西洋条約機構)によって安全を守る政策をとってきた。そして経済面での苦境に対処すべくEC(EUの前身)加盟を選択した。だがこれには長い年月を要した。連邦かECかで国論が分かれたからである。61年マクミラン内閣が加盟交渉を開始し、73年1月1日ヒース内閣のときイギリスはECに加盟した。だがその後75年、ウィルソン労働党内閣はEC加盟継続か否かを国民投票に付し、加盟が認められた。  イギリスはECで西ドイツ、フランス、イタリアと並ぶ有力な構成国であった。1980年代なかばに野党の労働党はEC加盟への関与を強めた。保守党政権はそれまで労働党よりもECに深くかかわっていたが、90年代を迎えてECが通貨統合を含むさらなる政治経済統合に入る段階でこれに反対するヨーロッパ懐疑派とヨーロッパ派との対立に悩まされた。そうしたなかでイギリスは、統合(ECからEUへの進展)をさらに強めるマーストリヒト条約に、単一通貨と社会憲章を除くという条件で91年末に調印し、93年7月同条約は議会で批准された。97年5月総選挙で18年ぶりに政権に返り咲いた労働党は、社会憲章Social Chapterの受け入れなどで保守党よりもEU寄りの外交政策をもっている。なおECは1993年11月からマーストリヒト条約の成立でEU(ヨーロッパ連合)となるが、79年から加盟国で直接選挙される任期5年の議員からなるヨーロッパ議会を有する。94年の選挙では15か国626名の議員のなかでイギリスの議員はフランス、イタリアと同数の87人である。  対外関係にあたる政府機関の責任を負うのは、外務・連邦省を率いる外務・連邦問題相である。国防関係は別として対外政策作成にあたるのはこの外務・連邦省であり、他省に関係ある問題については、同省が関係各省と協議して政策作成を行う。 〔防衛〕 軍の最高指揮官は名目上国王であるが、実質的には首相および内閣が国防の責任を負う。首相は、国防相、外相、蔵相、内相ら閣僚からなる国防・対外政策委員会の議長であり、この機関で国防政策が決定される。その下に国防相が議長となる国防会議がある。国防政策作成は、国務相と陸海空軍担当の政務次官3名に補佐される国防相の責任であるが、国防会議には国防参謀総長、陸海空軍別参謀総長、国防事務次官、企画・研究審議官なども含まれる。3軍を管理するのは、国防会議の陸軍部会、海軍部会、空軍部会である。  第二次世界大戦後イギリスは米ソに次ぐ核戦力をもつ国となったが、軍事力で両超大国に引き離され、財政的困難さにもよってしだいに軍事的コミットメントの範囲を縮小した。1968年労働党政府は、スエズ以東のマレーシア、シンガポール、ペルシア湾から兵力を撤収してヨーロッパに防衛努力を集中することを決定した。70年代後半には地中海からの兵力引き揚げもなされた。イギリスの国防政策の基本はNATOを中心とするものであり、同国は90年代のNATOの戦略にミサイルを塔載したポラリス原子力潜水艦3隻、ドイツ駐留陸空軍などで寄与している。90年代末にはポラリス原潜より有効な核抑止力を備えたミサイルをもつトライデント原潜が導入された。  防衛費をみると、防衛支出は労働党政府期に、1974〜75年のGNP比約5.5%から4.5%への漸減政策がとられたが、次の保守党政府下に防衛力強化が図られ、82年に5.2%を超えたが、93年には3.1%となった。その規模はNATO諸国ではアメリカに次ぐものである。兵力をみると、94年に、陸軍12万3000人、海軍5万5000人、空軍7万5700人、合計25万3700人である。70年当時から16万人近い減少である。 <犬童一男> 【経済・産業】 〔経済構造の特徴と変貌――第二次世界大戦前の概観〕 〔貿易依存の構造〕イギリスは18世紀に世界で最初の工業国家として、世界経済のなかで圧倒的な生産力の優位をもった。その背景には、ランカシャー綿工業がジェニー紡績機の導入を契機として開始した産業革命があった。イギリス綿工業は原料綿花のほとんどをアメリカ南部およびインドからの輸入に依存し、総輸入額中綿花が20〜30%を占めた。他方、綿糸・綿製品の輸出は総輸出額中40〜50%を占め、輸出先は全世界に行き渡っていた。イギリス綿工業は「世界の工場」としてのイギリスの地位の基盤をなしたといえよう。また、製鉄業は、1840年代にヨーロッパおよびアメリカ向け鉄道資材輸出の形で輸出品となった。ともあれ資本主義確立期に、イギリスではすでに、貿易依存の産業構造ができあがっていたのである。  ところで、このような構造は、原料の外国依存により早くも貿易収支の恒常的赤字を生み出したが、他方で海運業の発達による運賃収入、貿易信用によるサービス収入、資本輸出による利子収入によって貿易外収支の大幅な黒字を生み、貿易収支の赤字をカバーすることとなったのである。 〔世界経済における地位の低下〕ところで、19世紀末にドイツおよびアメリカ資本主義の集中・独占の傾向が進むなかで、イギリスでは独占の形成が著しく立ち後れた。世界に先駆けて産業革命を達成したイギリスは、先進工業国であっただけに、近代化を差し迫った課題としなかったという歴史的条件があったのである。とはいえ、イギリスにおいても大不況期(1873〜96)を通じて中心的産業に独占が現れてくる。すなわち、平炉法の普及に基づく鋼の大量生産と、それを中心とする造船業、兵器産業、重機工業部門が縦断的に結合するのである。また、支配の集中を目ざす株式会社形態の展開普及がみられるし、金融資本化が進んでいたのである。しかしながら、構造的な脆弱{ぜいじゃく}性は否みがたく、鉄鋼生産量ではすでに1890年代にアメリカ、ドイツに追い抜かれ、輸出市場においてもドイツに追い抜かれた。その結果イギリスは、食料、原料の大量輸入に加えて、ドイツ、アメリカから工業製品を輸入することとなったために、貿易赤字がさらに増加した。しかし、貿易決済中心地としてのロンドン金融市場は豊富な資金を集中しつつ繁栄するのである。それを支えたのは国際金本位制の展開であった。  さて、「世界の工場」としてのイギリスの地位の低下はその後も進む。まず、第一次世界大戦後の景気後退期において、綿業、石炭業、鉄鋼業、造船業などが生産、輸出ともに戦前水準を大きく下回り、停滞の様相を示した。さらに、1925年にデフレーション効果をもつ旧平価による金本位制復帰が行われた。このことはイギリス産業に負担をかけたものの、世界経済は国際金本位制が再建されたことにより相対的安定期に入り、29年までは緩やかな拡大を続けた。この時期のイギリス産業を雇用数でみると、29年までに旧産業の綿業、鉄鋼業、造船業の3部門の比重は低下したが、新産業の車両、化学工業、電機工業、レーヨン・絹工業の4部門は増大した。一方、世界輸出に占めるイギリスの比重は低下を続けた。とくに旧産業の輸出不振によって、経常国際収支の黒字は減少した。 〔世界恐慌の影響〕1929年の世界恐慌は停滞に悩むイギリス経済に追い討ちをかけることとなった。世界恐慌は大量失業を引き起こした。また輸出の急激な減少を引き起こし、29〜31年に38%減少した。他方、輸入はわずかしか減少しなかったから、貿易収支赤字が急増した。ロンドン金融市場は大量の対外短期信用を続け、国際収支の赤字の増大と財政赤字から、短期資金・金の大流出が生じ、ついに31年9月に金本位制を放棄したのである。同時に、保護関税を導入、32年にはオタワ経済会議によってイギリス帝国特恵関税制がとられた。その結果、輸出は地域別構成でイギリス帝国諸国の比重を高めつつ回復し、世界のブロック貿易の先駆けとなってゆく。一方、為替{かわせ}平衡勘定を設置することによって、短期資金の流出入に対するポンドの売りと買いでポンド相場を安定しつつ、ポンド通貨圏を形成していった。これはポンドの国際的信頼維持のためのものではあったが、これをきっかけにイギリスは世界的存在から、イギリス連邦という小宇宙に後退せざるをえなくなったのである。  この時期の産業の回復はどうだったか。綿工業は1936年の綿紡績法によって過剰紡績が買収されて合理化が進んだ。鉄鋼業は関税率の引上げによって保護されつつ再編成が進められ、造船業も再編・合理化が進められた。しかし石炭業はカルテルによる保護に終わった。他方、新産業の分野では、自動車、化学工業、電機工業への投資の増加がみられた。ともあれ、世界恐慌に対応してイギリス経済は福祉国家の方向を模索しつつ、イギリス連邦という限定された世界のなかで、保護関税に基づいて産業の再編成を図ったのである。 〔第二次世界大戦後の経済――インフレと長期停滞〕 第二次世界大戦はイギリス経済に巨大な消耗を強いた。海外資産の処分は48億ポンドに上り、対外債務の増加は28億ポンドを超えた。生産は低下し、輸出は戦前の約半分になって国際収支危機に陥ったのである。1945〜50年は労働党の政権下で、イングランド銀行、石炭業、鉄鋼業、通信、電力、運輸、ガスの国有化が行われ、社会保障の充実が図られた。一方、ポンドの国際的な地位が凋落{ちょうらく}し、49年に30.5%切り下げられた。51〜64年は保守党の政権下で、鉄鋼業の国有化が解除された。他方で国際収支が悪化し、インフレに悩まされた。この時期には、国際収支が悪化すると引締め政策をとり、国際収支がよくなると緩和する、というストップ・アンド・ゴー政策が繰り返されたために、投資が停滞し、成長が遅れた。64〜70年はふたたび労働党政府となり、インフレ対策として賃金・物価の凍結を行ったが、国際収支の赤字は続き、67年にポンドを14.3%切り下げた。70〜74年は保守党政府のもとで、高度成長政策をとり、同時に法律に基づく所得政策をとったが、労使対立が激しくなった。74年に労働党政府となった。「社会契約」によって労働組合との協調を目ざしつつ、主要産業の国有化を図って新たな経済の発展を図ったが、激しいインフレにみまわれた。79年にサッチャー保守党政府ができて、これまでの経済政策を180度転回し、インフレ対策をもとに、長期的停滞からの脱却を図ろうとした。すなわち、公共支出を削減し、マネー・サプライ(通貨供給量)を抑制し、民間経済活動に政府の介入を排除して、イギリス経済の活力をある程度回復した。  1997年5月に、労働党が18年ぶりに政権に復帰した。ブレア党首が首相となり、市場経済の原則を維持しつつも、保守党の行きすぎた競争至上主義を修正し、イギリス産業の競争力を強める方向を打ち出している。 〔経済の現況〕 イギリスの国内総生産は1995年には1兆1059億ドルで、日本の22%にあたる。第二次世界大戦後の実質経済成長率は、低成長を続けている。年率でみると1950〜60年には2.8%、60〜70年には2.9%、71〜75年には1.6%、76〜80年には1.4%、81〜90年には2.7%、91〜95年には1.2%となっている。とくに国内粗投資の伸びが低く、70〜77年には年率で伸び率がゼロになっているほどである。先進諸国のなかでつねに相対的に低い成長を続けていたために、「イギリス病」とよばれていた。しかし、現在ではイギリス病は克服されたとみられている。 〔金融・財政〕金融、財政面では、第二次世界大戦後、完全雇用と福祉国家を目ざして、国家による有効需要の創出に基づいて基幹産業を再編してきた。その結果、国家財政と国有産業を含む公共部門の国民経済に占める比重が一段と高まった。1950年には国防費の急減もあって全政府支出の対GNP(国民総生産)比率は39%となっていたが、30年代なかばの25%と比べるとかなり高まっていた。58〜67年には積極

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