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サトー🔗🔉

サトー (さとー) Sir Ernest Mason Satow (1843―1929)幕末〜明治期の駐日イギリス外交官で、日本文化研究の先駆者の1人。佐藤愛之助の日本名と薩道{サツトー}の雅号をもつ。6月30日ロンドンに生まれる。ローレンス・オリファントの著書を読んで日本にあこがれをもち、ユニバーシティ・カレッジ卒業後、外務省通訳生となり、日本駐在を命じられ、1862年(文久2)着任。66年(慶応2)外字新聞『ジャパン・タイムス』に匿名の論説English policy「英国策論」を発表、朝廷の下に幕府、諸雄藩の連合政権を樹立することが望ましいと論じた。この論説は、幕府を日本の責任政府とみなす従来の対日政策に修正を加えるもので、すでに前任公使オールコックがとりつつあった修正路線を継承したものである。その判断は、政局の不安、通商の阻害を招いている原因が、貿易の利益にあずかりたい諸藩の希望を封ずる幕府の貿易独占にあるとの見解に基づいていた。この論説によってサトーは、倒幕派の指導者たちに好感をもって迎えられ、やがて西郷吉之助{きちのすけ}や桂{かつら}小五郎ら薩長の指導者と交流、倒幕を教唆するに至るが、新任公使パークスは黙認していた。68年(明治1)書記官に任ぜられる。王政復古後は、明治新政府と密接な連絡を保ち、戊辰{ぼしん}戦争では列国に局外中立を要望する良策を助言した。83年日本を去り、シャム、モロッコ駐在代表を経て95年日清{につしん}戦争直後の日本に全権公使として赴任。極東でロシアの進出防止を図るイギリスの立場から日英提携に尽力、1900年(明治33)、駐清{しん}全権大使に転じたのちも、引き続き日英同盟締結に貢献した。この間日本、東洋に関する優れた研究業績をあげ、神道{しんとう}・仏教研究、イエズス会布教研究など、多数の論著で学位を取得、サーの称号を与えられたが、とくに『一外交官の見た明治維新』A Diplomat in Japan(1921・岩波文庫)は、幕末維新の政局変動を知るうえに貴重な記録である。29年8月29日没。 <田中時彦>

日本大百科 ページ 25858 でのサトー単語。