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金石文🔗🔉

金石文 (きんせきぶん) 記録の保存や記念のために、文字または文字に準ずる一定の記号を耐久性のある素材に記して、なんらかの意志を伝達しようとする文書を金石文という。 【西洋の金石文】 エジプト、メソポタミア、小アジアなどオリエント世界やギリシア、ローマでは、通常、石と金属のほかに粘土板、木材などに文字が刻まれた。ナポレオンのエジプト遠征のとき発見されたロゼッタ石は、エジプトのヒエログリフ(神聖文字)の解読に最初の手掛りを与えたことで知られているが、ギゼーのピラミッド群の内壁やオベリスク、パレット、スカラベ、あるいは神殿の石柱など硬い石がよく用いられた。ツタンカーメン王の黄金のマスクにみられるヒエログリフは、金属に刻まれた例である。またパピルス紙には筆で書いて巻物として用いた。メソポタミア地方で始まった楔形{くさびがた}文字は、絵文字から発達したものであり、紀元前3000年ごろシュメール人が発明したものと考えられている。この楔形文字は、言語を異にする各種の民族によって採用され、広くオリエント世界に普及した。アッカド王朝が楔形文字を利用してセム語を写して以後、古バビロニア王朝のハムラビ王は楔形文字によってハムラビ法典を残し、アッシリア帝国のアッシュール・バニパルの王宮址{し}からは粘土板に刻まれた楔形文書が大量に発見されている。イギリスのローリンソンが発見したイランにあるベヒスタンの碑文は、楔形文字解読に大きく寄与したことで知られるが、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の3種の言語によってペルシア王ダリウス1世の事績が刻まれていた。  1900年、エバンズがクレタ島のクノッソスを発掘し、王宮の跡や多数の粘土板を発見した。そのなかに、エジプトのヒエログリフに似た絵文字と、分布および年代の異なるA、B2種の線状文字が刻文されていた。近年、ギリシア本土のミケナイ、ティリンスなどからも発見される線状文字Bの解読作業が進み、クレタ・ミケーネ文明の歴史が明らかにされつつある。小アジアのヒッタイト人が残したボアズキョイ文書も楔形文字を使用している。1887年エジプトで発見されたアマルナ文書は、前15〜前14世紀のころオリエント諸国からエジプト王へあてた手紙類を内容とするものであるが、380ばかりのうち2通を除いてアッカド語の楔形文字で記されていた。このように楔形文字は古代オリエント世界の多くの民族に利用され、多大な影響を与えたのである。  アルファベットの起源は、前16世紀ごろ、シナイ半島のセム系民族がエジプトのヒエログリフを元にシナイ文字をつくりだしたのが端緒である。シナイ文字が北方に伝わってフェニキア文字となったといわれている。さらにその便利さから、アラム人、ヘブライ人、そしてギリシア人へと伝わり、今日のヨーロッパ諸語へと受け継がれた。ギリシアやラテン金石文は大部分は石に刻まれたが、銅版、陶器、木材あるいは鉛板も用いられた。その内容は政治、経済、宗教、美術から一般庶民の生活に至るまできわめて多岐に及んでおり、ギリシア・ローマ史研究の主要な史料の一つとなっている。ギリシア陶器にしばしばみられる陶工や絵師の署名からは、ギリシア陶器の編年が知られるようになったし、ラテン金石学のうち古代キリスト教金石学は、初期キリスト教徒の実態を知るうえで大きな役割を担っている。 【東洋の金石文】 〔中国〕 中国の金石文は、紙の普及する以前に亀甲{きつこう}獣骨、金属、石、封泥{ふうでい}、陶器、瓦磚{がせん}、竹木などに記された文字をさしていう。亀甲獣骨(まれに人頭骨)に刻まれた文字である甲骨文と、金属のうちでも青銅に鋳刻された銘である金文は、殷{いん}・周時代の歴史、社会、文化を探究するうえで重要な同時代史料となっている。1899年に発見された甲骨文は、劉鉄雲{りゆうてつうん}の『鉄雲蔵亀』、羅振玉{らしんぎよく}の『殷虚{いんきよ}書契前編』『同菁華{せいか}』『同後編』『同続編』など史料的に豊富になるとともに、王国維という天才的な研究者が現れ、『史記』殷本紀に記された殷王の系譜がほぼ正しいことが証明された。同時に甲骨文のもつ史料としての価値が認められるようになり、甲骨文解読による殷代史の再構成、すなわち甲骨学の基礎づくりがなされた。1928年から10年間に及ぶ河南省安陽県小屯{しようとん}の殷墟{いんきよ}の科学的発掘調査は、甲骨の層位と時期の関係を明らかにし、発掘に加わっていた董作賓{とうさくひん}が『甲骨文断代研究例』のなかで、五つの時期による甲骨の内容、形式、特質の相違を示して殷代史の研究に一期を画した。今日では新たに小屯で出土した甲骨史料の増加に伴って、董作賓の五期分期に修正が加えられ、さまざまな集団によって構成されていた殷代社会の構造が探究されつつある。  金属のなかで青銅は吉金{きつきん}とよばれ、それに鋳刻された銘文である金文は、古く宋{そう}代以来、殷・周時代の歴史を考究する史料として重んじられてきた。金文の出現は現在のところ殷代後期以降であり、氏族のシンボルマークである図象銘や父祖の名を十干名{じつかんめい}で記す単純な銘が多く、長いものでも30字程度の銘文が殷末に現れるくらいである。殷王朝を打倒して成立した西周王朝は、殷王朝が保持していた多数の青銅器製作の工人集団を受け継ぎ、青銅器を諸氏族支配の有力な手段として積極的に利用した。西周初期には祭祀{さいし}や征伐に伴う賞賜を記す例が多く、西周王朝の支配の拡大を跡づけることができる。字数のうえでは100字を超える例は少ないが、成王5年の製作と考えられる?尊{かそん}銘は、成周への遷都を122字で記録するものである。西周中・後期になると官職叙任の儀礼や賜与、所領争いの調停の記録がにわかに増加する。500字に近い長文の銘をもつ毛公鼎{もうこうてい}銘は、『尚書』文侯之命篇{へん}と類似する文が多く、文献史料の信頼性を高めるとともに、当時の官職叙任の実際を伝える貴重な史料となっている。一方、この時期になると、諸侯が自己の家臣に対して賜与する文章を、王朝の形式を踏んで記録する例も現れる。諸侯のレベルですでに青銅器の製作が可能なほどに勢力を蓄え、経済力をもつ者が増えてきたことを示している。  春秋時代以降は、銘文のうえではっきりと周王朝と諸侯との関係を記録する例がみられなくなり、青銅器をつくる側の立場を示すようになるばかりでなく、書体のうえでも各地域の持ち味を生かした、さまざまな書体が使用された。青銅製の武器の戈{か}や剣などには絶対年代を知りうるものがあって、年代の標準を示したものとして重要な史料となっている。また銭、鏡にも文字が記されるが、商鞅量{しようおうりよう}や鉄権の銘文はいずれも秦{しん}の度量衡統一の実態を示す好個の例である。石文では唐代以来知られている春秋期の秦の石鼓文があり、長沙馬王堆{ちようさまおうたい}1号漢墓出土の?侯家丞{たいこうかじよう}は封泥の例である。江西呉城出土の陶文は、新石器時代に属するものであるが、文字に準ずる記号と考えられる。筆写体の文字の出土が近年増えているが、春秋期の晋{しん}国内の紛争処理を誓約した山西侯馬盟書、湖北雲夢睡虎地{うんぼうすいこち}出土の秦律、山東銀雀山{ぎんしやくざん}出土の『孫子兵法』『孫?{そんひん}兵法』などがあり、文字にほぼ統一性が保たれていることが知られている。 〔朝鮮〕 朝鮮の金石文としては、戦国時代の燕{えん}の明刀{めいとう}銭や「廿五年上郡」「洛都{らくと}」「郡都」の銘をもつ戈が知られているが、朝鮮半島と直接かかわるものとして、孝文廟銅鍾{こうぶんびようどうしよう}、夫租長印、楽浪封泥がある。後漢{ごかん}王朝以降の史料に楽浪・帯方郡の領域で発見された磚{せん}(かわら)があげられるが、後漢から魏{ぎ}、晋{しん}、東晋の年号がみえ、中国との関係を密接に示している。高句麗{こうくり}の好太王碑は、原碑の一部偽作説をめぐって話題を提供したが、碑文の現地調査報告が待たれるところである。好太王碑とともに、好太王壺?{こう}や延寿銘銀合?にみられる銘は、高句麗と新羅{しんら}との関係を物語る史料である。新羅の真興王碑や百済{ひやくさい}の武寧王陵の墓誌の記事は、『三国史記』『日本書紀』の記載と合致するところがあり、金石文から文献史料の信憑{しんぴよう}性を高めた好例である。なお、百済独自の年号がみえる建興5年銘仏像光背や砂宅智積{さたくちせき}碑、新羅の南山新城碑、戊戌塢{ぼじゆつう}作碑、永川菁堤{せつてい}碑など、支配の実相を記す碑銘が知られている。 〔日本〕 日本の金石文は、金造品と石造品とがもっとも多く、木製・布製のほか骨角製品にもその例がみられる。もっとも古い金石文として著名なのが福岡県志賀島{しかのしま}出土の金印であり、「漢委奴国王」とたがね彫りされている。この銘は、後漢の光武帝中元2年(57)に授けたとある『後漢書』の記事と一致するが、読み方に異説があり、倭{わ}の奴{な}国王に金印が授けられたとは簡単に考えられまい。このほかに伝来品として、奈良県天理市の東大寺山古墳出土の太刀{たち}に、後漢の「中平」(184〜189)の年号がみられ、石上{いそのかみ}神宮所蔵の七支刀{しちしとう}に「四年」「百済」「倭王」の語を含む表裏61字の銘が金象眼{ぞうがん}されているが、当時の国際関係を物語る重要な史料となっている。日本でつくられた最古の金石文は、和歌山県橋本市の隅田八幡{すだはちまん}に伝わる画像鏡の銘である。「癸未{みずのとひつじ}の年、八月日は十{とお}か、大王{おおきみ}の年」で始まる銘文は、一説によると応神{おうじん}天皇の世に比定されており、『日本書紀』の記述と符合すると考えられている。熊本県菊水{きくすい}町の江田船山古墳から出土した鉄刀には「治天下」「歯大王」の語が刻まれているところから、反正{はんぜい}天皇のときにつくられたと理解されている。埼玉県行田{ぎようだ}市埼玉{さきたま}の稲荷{いなり}山古墳から出土した鉄剣は、1978年(昭和53)に金象眼銘115字の存在が知られ、大きな話題を提供した。「辛亥{しんがい}年七月中記」「獲加多支?{わかたける(ろ)}大王」の語などをめぐっていまだに論議をよんでおり、江田船山古墳の大刀銘とともに、重要な同時代史料であり、その史料としての取扱いは十分に慎重を期すべきであろう。 <武者 章> 【本】加藤一朗著『象形文字入門』(中公新書) ▽杉勇著『楔形文字入門』(中公新書) ▽矢島文夫著『解説――古代文字への挑戦』(1980・朝日新聞社) ▽白川静著『甲骨文の世界』(平凡社・東洋文庫) ▽同著『金文の世界』(平凡社・東洋文庫) ▽宮崎市定著『謎の七支刀』(中公新書)

日本大百科 ページ 17596 での金石文単語。