カロリング朝🔗⭐🔉振
カロリング朝
(かろりんぐちょう)
Carolingiens フランス語
Karolinger ドイツ語
メロビング朝にかわって、フランク王国の後半を支配した王朝。この名称は家門中もっとも傑出した人物、カール大帝にちなんだものであるが、王家の系譜がメッツ司教アルヌルフおよびアウストラシア地域の大豪族大ピピンにさかのぼるため、アルヌルフ家またはピピン家ともよばれる。アルヌルフの息子アンセギゼルと大ピピンの娘ベッガとの間に生まれたのが中ピピンで、アウストラシアの宮宰となり、カロリング家興隆の基礎を置いた。中ピピンは687年テルトリーの戦いでノイストリアを破り、全フランク王国の宮宰となり、その庶子カール・マルテルは732年トゥール・ポアチエの戦いでスペインから侵入したイスラム教徒を敗走させ、カロリング家の権威を確立した。その子小ピピンはこの力を背景に、751年メロビング家の名目的国王を廃して自ら王位につき、カロリング朝を開いた。ピピンの王位は教皇ザカリアスの承認によって正当性を与えられ、ここからカロリング王権と教皇権との提携が始まった。カロリング王国は小ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ)のとき最盛期を迎え、西はピレネー山脈から東はエルベ川に、北は北海から南は中部イタリアに至る西ヨーロッパの大部分の政治的統一が達成され、800年、カールは教皇レオ3世の手でローマ皇帝として戴冠{たいかん}された。カールはまた古典文化の復興にも力を注ぎ、アルクインをはじめ多くの学者たちの努力により、後世カロリング朝ルネサンスとよばれる成果が実現された。
カール大帝の子ルートウィヒ1世(ルイ1世、敬虔{けいけん}帝)の死後、帝国は3人の息子に分割された(ベルダン条約)。長子ロタールはロートリンゲン、ブルグンド、イタリアと皇帝位を、次子ルートウィヒは東フランクを、末子カール(シャルル1世)は西フランクを相続。さらにロタールの血統の断絶により、ロートリンゲンも東西フランク王国によって分割され(メルセン条約)、東フランクのカロリング家は911年のルートウィヒ幼児王の死により、西フランクのカロリング家は987年のルイ5世の死により断絶した。その結果、東フランク王国では、コンラート1世を経てザクセン朝のドイツ王国が、西フランク王国では、カペー朝のフランス王国が成立した。→カロリング朝ルネサンス →フランク王国 <平城照介>
日本大百科 ページ 13889 での【カロリング朝】単語。