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しょう‐かいせき【蒋介石】シヤウ‥🔗⭐🔉振
しょう‐かいせき【蒋介石】シヤウ‥
(Jiang Jieshi; Chiang Kai-shek)中国の政治家。中華民国総統。浙江奉化出身。日本に留学、軍事を学ぶ。辛亥革命に参加。孫文によりモスクワに派遣され、黄埔軍官学校を創設、国民革命軍を養成して北伐に成功、のち反共独裁化。国民党政府最高指導者として、抗日戦争を遂行。第二次大戦後、国共内戦に敗れ、台湾に退いたが、反共復国を呼号し続けた。(1887〜1975)
蒋介石
提供:毎日新聞社

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しょう-かいせき【蒋介石】🔗⭐🔉振
しょう-かいせき シヤウ― 【蒋介石】
(1887-1975) 中国の政治家。浙江省の人。日本の陸軍士官学校出身。孫文死後,国民党で実力を伸ばし,北伐を経て南京政府と国民党の実権を掌握,次第に反共独裁化した。西安事件で国共停戦に同意したが,日中戦争中,再び反共路線を強め,戦後は内戦に敗れて1949年台湾に移り,中華民国総統となった。チアン=チエシー。
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蒋介石🔗⭐🔉振
蒋介石
(しょうかいせき)
チヤンチエシー
(1887―1975)中国の政治家。中華民国総統。字{あざな}は中正。
浙江{せっこう}省奉化県の由緒ある塩商の家に生まれる。郷里の学堂で学んだのち1907年に保定軍官学校に入学。08年には日本へ留学して東京の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校予備学校)を10年に卒業、新潟県高田の野砲兵第13連隊に配属された。留学中に、東京で孫文らの中国同盟会に加入し、11年の辛亥{しんがい}革命に際しては張群とともに帰国して革命に投じた。孫文の信用を得、23年、孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、翌24年に黄埔{こうほ}軍官学校初代校長に就任した。25年の孫文死後は国民党二全大会で中央執行委員となり、同時に国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。26年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化、同年7月、北伐を開始したが、翌27年4月、上海{シャンハイ}クーデターを起こして反共攻勢に転じ、以後一貫して共産党を攻撃した。
1928年、南京{ナンキン}に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪精衛{おうせいえい}(兆銘)との対立や閻錫山{えんしやくざん}、馮玉祥{ふうぎよくしよう}らの反蒋軍閥による数次の抵抗に出会いながらも、国民党の実権をほぼ一貫して掌握した。34年には一種の精神復興運動である新生活運動を唱導し、この間、蒋・孔{こう}・宋{そう}・陳{ちん}のいわゆる「四大家族」を中心とした浙江財閥を育成して自己の財政的支柱とした。36年の西安{せいあん}事件で捕らえられ、抗日民族統一戦線の形成に同意したが、37年の日中戦争で政府を重慶{じゆうけい}に移したのちの抗日戦争中もしばしば反共政策を断行した。45年、抗日戦争勝利後は重慶で毛沢東との国共和平交渉に臨んだが、翌46年にはふたたび国共内戦が勃発{ぼっぱつ}、48年には新しい憲政下の初代総統に就任。49年1月いったん辞任。同年大陸を失陥し台湾へ逃れた。50年総統に復帰。以後、台湾での統治には意を用いつつ反共復国を目ざし、アジアの代表的な反共政治家として活躍した。75年4月5日台北で死去。
彼の独裁を非難する声とともに、第二次世界大戦終戦に際し「暴に報ゆるに怨をもってせず」と放送して日本軍の降服を受け入れたことを評価する声も高い。1927年、それまでの妻を離別して浙江財閥出身で孫文夫人(宋慶齢)の妹、宋美齢と結婚。前妻の産んだ長男の蒋経国が総統の地位を継いだ。 <中嶋嶺雄>
【本】『蒋介石秘録』全15巻(1975〜77・サンケイ出版) ▽楊逸舟著『蒋介石評伝』上下(1979、83・共栄書房)
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