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いしだ‐はきょう【石田波郷】‥キヤウ🔗⭐🔉振
いしだ‐はきょう【石田波郷】‥キヤウ
俳人。名は哲大てつお。松山市生れ。明大中退。水原秋桜子の「馬酔木あしび」から出て、清新な青春句と自己凝視の闘病句にすぐれる。句集「鶴の眼」「惜命」など。(1913〜1969)
石田波郷
撮影:田沼武能
⇒いしだ【石田】

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いしだ-はきょう【石田波郷】🔗⭐🔉振
いしだ-はきょう ―ハキヤウ 【石田波郷】
(1913-1969) 俳人。愛媛県生まれ。本名,哲夫。明大卒。水原秋桜子に師事。「馬酔木(アシビ)」同人。「鶴」を主宰,新興俳句運動の隆盛とともに「人間探求派」と称された。句集「鶴の眼」「惜命」など。
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石田波郷🔗⭐🔉振
石田波郷
(いしだはきょう)
(1913―69)俳人。大正2年3月18日松山市生まれ。本名哲大{てつお}。松山中学4年のとき俳句を始め、やがて五十崎{いかざき}古郷に師事、波郷と号した。古郷とともに『馬酔木{あしび}』に投句。水原秋桜子{しゅうおうし}の句集『葛飾{かつしか}』を読んで感動、上京。1933年(昭和8)『馬酔木』最年少の同人となる。『馬酔木』の編集に従事しながら明治大学文芸科に学ぶ。石塚友二と知り横光{よこみつ}利一に紹介される。35年『石田波郷句集』を上梓{じょうし}、清新な青春俳句が注目された。37年『鶴{つる}』を創刊主宰。39年句集『鶴の眼{め}』を刊行。中村草田男{くさたお}、加藤楸邨{しゅうそん}とともに難解派、人間探求派とよばれた。芭蕉{ばしょう}を学び俳句固有の韻文精神を確立しようとした。「俳句は文学ではない」ということばが知られる。43年句集『風切{かざきり}』刊行。鳩兵{きゅうへい}(通信隊)として中国戦線に召集されるが結核発病、内地に送還される。46年句集『病雁{びょうがん}』刊行。47年病気再発、翌年手術を受け、以後生涯、入退院を繰り返した。50年の句集『惜命{しゃくみょう}』はすさまじい闘病の記録。54年『石田波郷全句集』により読売文学賞受賞。『春嵐{はるあらし}』(1957)、文部大臣賞の『酒中花』(1968)、『酒中花以後』(1970)の句集を残した。昭和44年11月21日没。→馬酔木 <平井照敏>
雪はしづかにゆたかにはやし屍室{かばねしつ}
【本】『石田波郷全集』9巻・別巻1(1970〜72・角川書店)
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