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広辞苑の検索結果 (2)

いし‐ぼとけ【石仏】🔗🔉

いし‐ぼとけ石仏】 ①石で造った仏像。せきぶつ。 ②感情を表にあらわさない人。いつも沈黙している人。「木仏金仏―」「―に物言わす」

せき‐ぶつ【石仏】🔗🔉

せき‐ぶつ石仏】 石材で制作し、または岩石に彫刻した仏像。日本では、奈良市の頭塔ずとう、大分県臼杵うすき、栃木県大谷などの石仏が有名。いしぼとけ。→雲崗うんこう→竜門りゅうもん石窟

大辞林の検索結果 (2)

いし-ぼとけ【石仏】🔗🔉

いし-ぼとけ [3] 【石仏】 (1)石でつくった仏像。せきぶつ。 (2)感情を動かさない人。「木仏(キブツ)金仏(カナブツ)―」 (3)いつも黙っている人。「―も物を言う」

せき-ぶつ【石仏】🔗🔉

せき-ぶつ [0] 【石仏】 石材を彫り刻んでつくった仏像。または岩壁などに彫り込んだ仏像(磨崖仏(マガイブツ))。

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石仏🔗🔉

石仏 (せきぶつ) 石に彫刻した仏像の総称。独立した石塊を彫り上げた石仏、岩壁に刻まれた摩崖{まがい}仏、石窟{せつくつ}内の壁面に彫られた石窟仏の3種がある。また彫出しの状態から、線刻、薄肉{うすにく}彫り(レリーフ)、光背をも一石から彫り出したりする浮彫り(半肉彫りや側面まで露出した高肉彫り)、背面まで彫り上げた丸彫りなどに分けられる。  石仏は東洋各地に遺例があり、インドでは仏教彫刻の始まった紀元前後からつくられている。西北インド(現在のパキスタン)のガンダーラ地方では青黒い片岩{へんがん}を用いてギリシア・ローマ彫刻の流れをくむ石仏がつくられ、中央インドのマトゥラでは赤色砂岩(マトゥラ石)で古代インド彫刻の伝統を継いだ石仏が5世紀ごろまで続いた。また2〜4世紀の南インドのアマラバティでは、大理石造の躍動的な独立像が多くつくられた。アフガニスタンには、5世紀ごろの制作になるバーミアン石窟の像高55メートルと38メートルの大石仏がある。中央アジアでは良質の石がないためもあって石仏はほとんどないが、東南アジアでは7〜11世紀のグプタ様式の石仏や、8〜9世紀のジャワのボロブドゥール遺跡の石仏が著名である。 【中国・朝鮮】 中国では彫刻に適した砂岩や大理石などの石材にも恵まれ、仏教伝来以来、石窟寺院内に大規模な石仏群が多数つくられた。なかでも北魏{ほくぎ}の都であった大同の近くの雲岡{うんこう}石窟のうち、もっとも古い(460ころ)曇曜{どんよう}五窟の像はバーミアンに次ぐ巨像で、その表現にインドや中央アジアの影響がみられる。雲岡では494年の北魏の洛陽{らくよう}遷都までの間に、大きなものだけで数十に及ぶ石窟が造営されたが、以後唐代までに洛陽に近い竜門をはじめ、麦積山{ばくせきざん}、響堂山、天竜山などに次々と大石窟が開かれた。7世紀なかばの唐の高宗の建造になる竜門奉先寺洞の盧遮那{るしやな}仏は、唐代最大の像である。独立した石仏では河北の白玉(白大理石)、西安{せいあん}付近の黄華石(黄緑色の石灰岩)の像などがあるが、これらは都市などの平地に建てられた木造寺院の像として用いられている。  朝鮮では花崗{かこう}岩にも恵まれて各時代に摩崖仏や独立石仏がつくられたが、百済{くだら}の遺品として忠清南道瑞山郡雲山面の摩崖仏、新羅{しらぎ}の遺品として慶州南山長倉谷の菩薩{ぼさつ}立像(ともに7世紀前半ころ)、石室構造をもつ慶州石窟庵{あん}の諸像(8世紀なかば)が著名である。 【日本】 石仏ではないが古代信仰に基づくものと考えられる亀石、二面石、石神、須弥{しゆみ}山石、猿石、さらに近年発見された奈良県高取町光永寺の人頭石などの怪異な石造遺物が飛鳥{あすか}地方を中心にみられるが、石仏としては、その制作に適した石材が乏しいせいもあって作例は少ない。わが国石仏の最古の遺品とされる奈良石位{いしい}寺の三尊像(7世紀)は、一石の半面を用い、方座に倚座{いざ}した中尊と立像の両脇侍{わきじ}を彫り出した表情の愛らしい像である。兵庫県の古法華{こぼつけ}三尊も7世紀ごろの作とみられる半肉彫りの石仏だが、古代の石仏の多くは凝灰岩でつくられたため、石肌には独特の美しさがあるが耐久性に欠け損傷もひどい。奈良時代に東大寺の開山良弁{ろうべん}によってつくられたとされる奈良頭塔{ずとう}石仏群は、いかにも奈良時代風の豊麗さをもつ浮彫りで、階段ピラミッド形の墳丘の周りに花崗岩の一石彫りの像をいくつも配置している。またこのころには石製層塔の基部に石仏を彫り出したものや、岩窟内の壁面に浮彫りした例もある。  平安前期の遺品としては奈良地獄谷の線彫りの像や滋賀県狛坂{こまさか}廃寺石仏があり、とくに狛坂像は新羅の摩崖仏との密接な関係が指摘されている。平安後期には北九州をはじめ各地で摩崖仏が制作された。阿蘇{あそ}山の溶岩を利用した大分・熊本地方は日本最大の宝庫であるが、大分県の臼杵{うすき}石仏はとくに著名で、中心になるホキ石仏の阿弥陀{あみだ}三尊は凝灰岩から丸彫りに近く彫り出された堂々たる体躯{たいく}の摩崖仏である。富山県日石{につせき}寺の不動明王坐像は高さ3メートルに及ぶ薄肉彫りの像で、立山信仰との関係も考えられるが、大岩{おおいわ}不動として今日も尊崇されている。栃木県大谷{おおや}寺の石仏群は凝灰岩(大谷石)に浮彫りし漆食{しつくい}(塑土{そど})で表面をつくった珍しいもので、なかでも4メートルの千手観音は壮観である。福島県大悲山の石仏群も摩損が著しいが注目される。  鎌倉時代には仏教が一般民衆のなかに深く溶け込んだ結果、ほかの材料よりも費用的に負担のかからない石仏の造立は急激に盛んになる。前代に引き続いて凝灰岩製の摩崖仏もつくられたが、規模も小形化して作品の質も劣ったものになったのに比し、技術的には向上して花崗岩や安山岩などの硬い石材が用いられるようになった。神奈川県の箱根石仏は安山岩系統の代表作の一つである。群馬県不動堂の不動明王像は建長{けんちよう}3年(1251)の銘をもつ丸彫り像であるが、上下の半身が別材からなる特異な造法をとっている。鎌倉浄光寺の正和{しようわ}2年(1313)在銘の地蔵像も、鎌倉時代まではほとんどみられなかった丸彫り像である点が注目される。奈良県の当麻尾{たいまお}石仏群、神奈川県九品{くほん}寺の浮彫り像なども、この時代の石仏として著名である。以後、石仏は花崗岩、安山岩、凝灰岩、砂岩など種々の石材を使って全国的に広がっていくが、室町時代以降は庶民信仰に基づく像が多作されながら形式化が進み、美術的に目だったものはない。江戸時代には五百羅漢の群像や、民間信仰的な地蔵、青面{しようめん}金剛(あるいは庚申{こうしん}像)、馬頭観音像などが多数つくられている。 <佐藤昭夫> 【本】久野健著『ブック・オブ・ブックス日本の美術36 石仏』(1975・小学館)

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