星逢一夜/天野晴興

星逢一夜/天野晴興

天野晴興のモデルとなった人物: 金森頼錦

『星逢一夜』を書く上で参考にした人物のひとりに、金森頼錦(かなもり・よりかね)という江戸時代の大名がいると、公演パンフレットで演出家の上田久美子先生が語っています。

劇中では、金森頼錦の納める郡上で一揆が起き、それに対して幕府が厳しい処分を下した様子が描かれています。また、主人公・天野晴興は、自らの領地・三日月藩での一揆を前に「私は無能な金森とは違う」と言い捨てます。

金森頼錦とは、どんな人物なのでしょうか。

1713年、正徳3年生まれ、1763年、宝暦13年没。1736年、元文元年に23歳で郡上藩二代藩主となります。天文学に興味を持ち、お城に展望台を設けて天体観測も行っていたんだとか。

農民や町人の意見も取り入れた政治を行うもののうまくいかず、財政もなかなか厳しかったようです。参覲交代の費用もかかる上に、江戸の屋敷は二度の火事にあう、さらに奏者番となり将軍近くに仕えるようになると交際費や衣装代など出費がかさむようになりました。そんなことから、年貢高を固定する定免取りから、毎年代官が農地に赴いて収穫高を調べ年貢高を決める検見取りに変えました。検見取りは収穫が終わっても代官の調べが終わるまで次の作物を植えられないことや、サンプルに調べる田の実りが良いと全体の年貢高が上がってしまう、また農民がこっそり開墾した農地も調べあげて課税対象になるなど、農民の不満がたまる要素が大きかったようです。

しかも、郡上藩はあまり豊かではなかったようです。とうとう農民たちの不満は一揆という形で爆発。およそ4年にも及ぶ抗争ののち、頼錦は改易(身分剥奪、領地没収となること)となり、陸奥盛岡藩に身柄を預けられ、そのまま盛岡で51歳で亡くなっています。

『星逢一夜』の劇中では、年貢の取り方を検見取法から定免法に変えたことで三日月藩が荒れたとされています。実際、享保の改革ではこのように決められたのだとか。検見取法は代官の労力が必要なため、節約のために固定高の定免法になったようです。

たしかに、晴興と頼錦の人生は似ています。江戸での晴興の暮らしはあまり描かれていませんが、どんな様子だったのでしょう。秋定だけが唯一の友だそうですが、ふたりで星の話をしているときが束の間の休息だったのかもしれません。

吉宗が晴興に、最近本物の星を見ているか尋ねる場面があります。忙しくて見ていない(暇がありませぬゆえ、ってやつですな)…このやりとりに、遠く故郷を想う時間も少なくなっているのだと切なくなります。


Last update: 2017-11-06 06:33:11 UTC