坂の上の雲/登場人物

坂の上の雲/登場人物

坂の上の雲」登場人物

以下は主にドラマ版の出来事を中心に述べる。

主人公

秋山真之(あきやま さねゆき 1868-1918) 演:本木雅弘

主人公(ドラマにおいてはメインの主人公)の一人である。幼名は淳五郎(じゅんごろう)であり、知り合いからは「淳さん」と呼ばれている。ドラマ版においては、彼の出生から物語が始まる。少年期にかけては悪がきであった。しかし、中学校を中退した後においては、英語の能力が高かったり、東大予備門の試験の法則を推測したりするなど、学才はあるとも言える。兄の経済的支援の下、松山中学校を中退後、上京。神田の共立学校において英語等を学び、東京大学予備門に入学する。しかし入学後は、自分の道に苦悩し、最終的には予備門を中退。兄から自主独立し、生計をなす為に、海軍兵学校に入学。卒業後、巡洋艦・筑紫の航海士(その当時の階級は少尉)として日清戦争に出征。部下の戦死など苦難を乗り越えて、武官としてアメリカに留学。戦術参謀として、さまざまなことを学ぶ。その後、任地を変えイギリスに向かうところで第一部は終わる。(第一部終了時点で海軍大尉) 

第二部では、イギリス駐在武官として海軍と深く接することとなる。その後、少佐に昇進し、海軍大学校の戦術教官となる。第一部において自らの指令が結果として、部下の戦死を招いたことにより「一番犠牲が少なく、敵を撃破する作戦が良い」というモットーを持つ。晩年の子規のもとを見舞い、子規の死を知った時は、子規庵を出た子規の棺を、葬列の外からただ見守った。その後、胃腸を患い入院し、後に妻となり一度面識のあった稲生季子が見舞い、戦術の話をした。後に季子と結婚し、日露戦争勃発直前に旅順艦隊の侵攻を防ぐため、連合艦隊参謀として佐世保から出征する。出征後、同僚の有馬良橘の講ずる閉塞作戦に対して、犠牲が多すぎると反対するも、閉塞作戦は実施された。閉塞作戦を実施する以上、真之は犠牲を少ない策を講ずるなど訂正を加えたものの、二回に及ぶ閉塞作戦は失敗。海軍大学校の先輩・広瀬の死に対し涙を流した。広瀬の戦死の直前、アリアズナ宛の手紙を受け取っており、その手紙を中立国経由で、アリアズナの元へ送った。(第二部終了時点で海軍少佐)

第三部においても、連合艦隊参謀(この時の階級は少佐)として東郷のもとで働く。上記の閉塞作戦失敗により、旅順艦隊を追い出すことも撃沈させることもできなかった。旅順艦隊とバルチック艦隊の合流の可能性が出てきたため、これを阻まんと画策する。陸軍将校との会談において、旅順要塞を重視する陸軍に対して、旅順要塞は堅牢であるから、ロシア艦隊を追い出すために二〇三高地を攻めてほしい、と提言するも陸軍からは旅順の占領が最優先として却下される。この後、第一回旅順総攻撃で、陸軍第三軍が6日間で1万6000人の莫大な死傷者を出した上に、要塞が攻略できなかったと知るや激怒した。前述で述べたとおり、劇中において彼は「一番犠牲が少なく、敵を撃破する作戦が一番良い」という理念を抱いており、莫大な犠牲者を出したにもかかわらず乏しい戦果しか揚げられない伊地知ら参謀を中心とした陸軍首脳部に対して怒り狂った。そして激昂のあまり、部下に「陸軍将官に進言する為に、上陸艇を出せ」と怒鳴り散らすと、聞きつけた参謀長・島村速雄少将に殴りつけられ「敵を見間違うな」と諭される。その後、陸軍が二〇三高地に攻撃拠点を移すと、「ようやってくれた」と感謝している。しかし二〇三高地を占領後に敵に奪取され、部下が陸軍の作戦を「そろそろ攻撃中止作戦が出る頃だ」などと他人事のように評すると、「どんなに犠牲が出ても二〇三高地は落とさねばならん」と、部下に掴み掛かり激怒した。この怒りは陸軍海軍の問題のみならず、日本の存亡という命運をかけた戦いであることを熟知した彼であるからこそ言える言葉である。満州総攻撃の終結後、昇級し中佐となる。そして自宅のある青山に久々に帰宅し、妻と、滞在していた義姉・姪・甥・母と再会する。

以下の日本海海戦の終結後、亡き母と対面する。そして今まで多くの人々の死を見たことで、出家して戦没者を弔いたいということを泣きながら季子に言った。それから数日後、亡き子規の墓参りに行った。

そして兄・好古と故郷を訪れ、釣りをするシーンでは「お前はようやった。ようやったよ。」という言葉を兄から受ける。

1918年2月4日、盲腸の悪化による腹膜炎により病没。享年49。最期の言葉は「みなさんお世話になりました。あとはひとりで逝きますから」であった。

<第三部(1905年)以降における連合艦隊および真之の行動(東郷らも含む)>

1905年2月20日に、バルチック艦隊撃滅のため佐世保より連合艦隊参謀として出征する。この時、連合艦隊中枢部においてはバルチック艦隊について「対馬経由」か「津軽海峡経由」かで揉めており、艦隊を対馬沖から津軽沖に移すことを検討していた。実際、バルチック艦隊は遅れていた。そこで亡父が遺した「短気は損気。急がば回れ。」という言葉を思い出すが、耐え切れず業を煮やした。最終的に、東郷・島村らの提言で対馬に待機することに合意し、その翌日の5月28日、バルチック艦隊が対馬海峡沖に出現。そこで大本営への電信の際に「本日晴朗ナレドモ波高シ」の一文を加える。そして東郷とともに三笠の艦上で決戦に挑む。そして敵前で大回頭を行い、砲弾が炸裂する中で自らの提案した「丁字戦法」の戦果を確認することとなる。

真之の丁字戦法は、真之が独自に考案した策であった。丁字戦法は、簡単に言えば「─」に並んだ戦艦が、「│」に並んだ戦艦を前から順に集中砲火させることで。しかし船が戦法のために旋回する時間は、ほぼ無防備状態となり、敵にとっては静止同然の的を射撃するとたとえられるほどデメリットがあり、作中においてもその点が描かれた(約10分間射撃できない状態となり、バルチック艦隊の司令官ロジェストヴェンスキーからは「黄金の10分」とまで呼ばれた)。しかしながら最終的には、連合艦隊側にもバルチック艦隊の砲撃により死傷者が出た。しかしロシア兵に比べれば被害は格段に少なく、バルチック艦隊側は30隻以上が集中砲火の巻き添えとなり炎上・大破あるいは沈没し、計り知れないほどの死傷者が出た。負傷したロジェストヴェンスキーに代わり、ネボガトフが指揮をとることとなった。ネボガトフは現在の惨状を考慮し、降伏を決意した。そしてバルチック艦隊側は砲撃を止め、白旗を掲げた。しかし前進をやめず、大砲を連合艦隊にむけていることから、東郷が砲撃を続行させた。その後、前進をやめたことろで東郷は「砲撃中止」を命じた。そして調停のため、真之がバルチック艦隊の旗艦に移動する。その際、黒焦げになった敵の旗艦の中で、横たわるロシア兵の遺体に手を合わせた。そしてネボガトフから降伏する旨を伝えられ、ネボガトフの要求により、沈没したバルチック艦隊の軍艦の名前をすべて教えた。

秋山好古(あきやま よしふる 1859-1930) 演:阿部寛

主人公の一人。真之の兄(三兄)。幼名は信三郎(しんざぶろう)であり、知り合いからは「信さん」と呼ばれる。弟、淳五郎(真之)の出生時に経済的な貧しさから父が寺にやるしかないと言ったとき、「おっつけウチが勉強してな、豆腐ほどの金、こしらえてあげるけん(ドラマ版)」と言い父を説得し、真之が寺に行くのを阻止した。その後、風呂屋で働きながら勉強し、小学校教員、大阪の師範学校を経て、陸軍士官学校騎兵科に入る。それ以後、弟・真之の学費を経済的に援助する。上記の台詞からわかるように、身辺を単純明快し、質素な生活を好み、また真之にも兄として厳しく叱咤激励する。福沢諭吉を敬愛し「一身独立して、一国独立す。」(学問のすゝめ)という言葉を、座右の銘に掲げる。後に陸軍大学校を経て、久松家(旧松山藩主家)当主・久松定謨(ひさまつ さだこと)の従者として、フランス留学をすることとなる。当時、日本陸軍ではドイツ式が主流であり、フランスに留学することは、昇進を諦める事に等しかったと言われる。しかしながらフランスの留学を通し、フランス騎兵の機動性が、ドイツ騎兵に勝ることを知った。後に陸軍本部は、好古の留学の諸経費を官費とした、すなわち好古は騎兵について学び、日本騎兵の育成を任せられるという大命を担うこととなった。そして騎兵大隊長(この当時の階級は少佐)として日清戦争に参戦。その後に陸軍乗馬学校長に任じられる。(第一部終了時点で陸軍大佐)

第二部においては、北清事変にも出征し、この時に清国民に対して暴行や殺害、略奪を行うロシア兵に対して、憤りを感じた。その後、清国駐屯軍守備司令官となり、清国軍の有力者・袁世凱と会談するなどした。その後、陸軍少将として千葉県習志野にある騎兵第一旅団長になる。日露開戦直前にロシア側から戦意喪失のために招待され、その意図を察しながらもロシアを訪れる。視察後にロシア騎兵と腕相撲などで戯れ、「互いに勇敢に戦おう」と宣言した。出征前、真之だけに名刺の裏で書いた「這回の役 一家全滅すとも恨みなし」という気概を示した。(第二部終了時点で陸軍少将)

第三部では、騎兵第一旅団旅団長として陸軍第二軍に従属。ロシア軍との遼陽会戦に備えた。その後、部下である斥候からの情報で、総司令官クロパトキン率いるロシア陸軍の満州軍が大軍を集結させていると聞く。それを聞いた第二軍司令部は好古に割り振れるだけの兵員と武器を与えた。これによって騎兵第一旅団の騎兵に、更に多くの歩兵、砲兵、工兵が付け加えられ、秋山率いる部隊は混成部隊である「秋山支隊」となった。そして秋山支隊には、第二軍の右翼方面を守るように命じられる。弾薬の少ない中、西部戦線が崩壊寸前になりかけたが、東部戦線の死守などもあり、クロパトキンは全軍に遼陽から撤退を命じた。この後、斥候により秋山支隊(戦線左翼)めがけて大軍勢が襲撃することを理解し総司令部に援軍を要請するも、「冬季にロシア軍が大作戦を起こすわけがない」という理由で黙殺される。そして敵の大軍勢の襲撃により苦戦し、左翼部は大勢の死傷者を出しつつ、最終的には辛くも死守。その際、自分の進言を無視し、憶測だけで黙殺した総司令部に対して憤りを感じた。その後の奉天会戦において、秋山支隊は総司令部の命令により、苦戦中の第三軍の支援に回る。ロシア軍の退却後、奉天に入城。いずれ起こり得る連合艦隊とバルチック艦隊の戦闘に関しては、「海軍はたとえ、泳いででもロシアの軍艦に辿り着くじゃろう。俺らはただ、それだけを期待しちょればよい」と評した。

その後、満州で息子・信好の電報により母の病死を知る。その後は地元松山の私立北与中学校(現・愛媛県立松山北高校)の校長になる。

1930年11月4日、心筋梗塞により病没。享年71。最期には、苦しい息の中「馬引け!奉天へ」など奉天会戦のうわ言を言っていたが、妻が手を握り「あなた、馬から落ちてはいけませんよ」と言うと、穏やかな表情で永眠した。主人公三人の中で一番長命であった好古の死をもって、坂の上の雲は完結した。

正岡子規(まさおか しき 1867-1902) 演:香川照之

主人公の一人。真之の幼馴染。本名は正岡常規(まさおかつねのり)。幼名は升(のぼる)であり、知り合いからは「ノボさん」と呼ばれる。六歳で父親を亡くし、正岡家当主となる。少年期は大変、臆病な性格であった。中学生時代は愛媛が自由民権運動の本場・高知に近いということもあり、自由民権運動の運動を度々行っていた。後に叔父の外交官・加藤恒忠の支援の下、真之よりも早くに上京する。真之ともども、共立学校を経て、東大予備門に入学する。その後、俳句・短歌といった、日本文学の道を極め、かつ新たな道を開拓する夢を得る。しかしその矢先、吐血。不治の病とも言われた結核にかかった。雅号の子規とは、血を吐く姿が、口の中が赤い、ホトトギス(子規)に似ていることに由来し、自らをつけた。真之との別離を経て、帝国大学に入学するも、退学。新聞「日本」の記者となり、日清戦争の従軍記者として取材したりするものの、病気は少しずつ悪化。結核から来るカリウスという外傷も併発し、激しい背中・腰部の苦痛の中、病床で創作活動を続けていた。

第二部において病状はさらに悪化。激しい痛みで一歩も動けぬ寝たきりの身となるが、新聞「日本」から給与をもらっている以上、創作活動は続けている。だがその激しい痛みにより、たびたび泣き叫び、のた打ち回るという凄まじい状態となった。子規は、死を恐れてないが、苦痛は恐く、耐え難かった、という。しかし必死で生きようとする姿勢や、自らに嘘をつくことのなく感情を表す俳諧などの姿勢は一生涯変わらなかった。生前、最後に見舞いに来た真之に「このままでは死に切れんのじゃ。ええ句が浮かんで来よるんじゃ。」と、自らの心情をすべて伝えた。しかし病状はなおも悪化した。1902年9月19日深夜、苦しみ叫ぶことなく穏やかにこの世を去った。発病してから約7年、自らの思いを伝えようと懸命に生きた、35歳の生涯であった。その葬儀は数人ばかりでやるように言い残した、子規の意に反し約300名が詰め寄せた。日本の俳句の道を開拓した、一人の若き文筆家の死は日本中から惜しまれた。

死去する前に最後に書き残した辞世の句は、「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」、「痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず」。

第三部では、最終回に回想とナレーションで登場。真之が墓参りするシーンでは墓標に自らが遺した言葉が紹介された。

ちなみに病床の子規を演じた香川照之は役作りのために17kgの減量をした。

秋山家・正岡家

秋山久敬(あきやま ひさたか 1822-1890) 演:伊東四朗

秋山兄弟の父。通称は平五郎。晩年は八十九(やそく)と号し、これを名乗った。もともとは十石取りの徒士(下級武士)の家柄であったが、松山藩が戊辰戦争で敗北し、土佐藩から十五万両という莫大な賠償金を支払わなければならなくなったことで、藩士の尚のこと経済状況は悪化した。戊辰戦争敗北後に生まれた五男・淳五郎(真之)の養育費に困り、寺に養子に出そうとしたところを、三男・信三郎(好古)に説得され思いとどまる。(その後、次男・寛二郎と四男・善四郎を他家に養子に出した。長男・鹿太郎(則久)は脳に障害があり隠居。三弟の好古が家督を継ぎ、面倒を見た。)廃藩置県後は、愛媛県庁学事課に務めた。養育に対しては食うだけは食わせるが、あとは自分でやれという自由放任かつ独特の考え方を持っている。1890年、真之が練習航海している間に病死。習志野にある好古の家には遺影が飾られていた。第三部では回想シーンに登場。

秋山貞(あきやま さだ 1827-1905) 演:竹下景子

秋山兄弟の母。優しい性格であるが、淳五郎(真之)が御法度の花火を行い警察沙汰になったときは、短刀を突き出し自害を迫るなど厳しい面もある。夫・久敬死後は上京し、好古夫婦と暮らす。その後、日露戦争出征前には病で寝たきりになる。第十二話においては、好古一家と義娘の季子と住んでいる。最終回では病床の中、日本海海戦で勝利し真之が生きていることを知ると大喜びし、「淳が帰ってくるまでは死ねない。それが親の務め」と言っていたが、真之の帰還前に病死した。遺体に対面した真之は、生きているうちに帰れなかったことを謝り、そして「あしは世の中のお役に立てたんじゃろうか?」と亡き母に投げかけた。

秋山多美(あきやま たみ 1871-1950) 演:松たか子

旧幕臣の旗本・佐久間家の娘。「お姫(ひい)さま」と呼ばれている。自宅の離れに住んでいる秋山兄弟を当初は、「陪臣(大名家の家来の蔑称)」、「けもの」と呼び蔑んでいた。しかし後に、フランスからの留学帰りの好古と結婚。夫の日清戦争出征中に長女・輿志子(よしこ)を生んだ。その後も次女・健子と、長男・信好(のぶよし)を授かる。夫が清国に滞在している期間、義理の弟である真之の面倒を見ており、真之からはお節介がられている。第三部第十二話においては真之の家である東京・青山に義母・義妹とともに住む。真之帰宅の際には、真之に「勝つわよね?」と尋ね、「勝ちます。」と答えを受けた。

秋山季子(あきやま すえこ 1882-1968) 演:石原さとみ

宮内庁御用掛である稲生真履の三女。華族女学校の出身。この当時の最先端であった自転車を乗りこなすなどお転婆な性格のようだが、ドジョウを捌くのが苦手といったか弱い一面も見せる。真之とは舞踏会で出会い、後に入院先などでも再開し、見合い結婚した。真之の出征中は、夫のいない家を守っている。第三部では出征中の夫の家を離れ、一時的に、義兄・好古一家と暮らした。その後、義母・義姉とともに東京・青山に住む。

正岡律(まさおか りつ 1870-1941) 演:菅野美穂

子規の妹。真之たちからは「リーさん」と呼ばれている。幼少期は、気弱な兄を真之たちと助けていた。お転婆な性格。後に軍人の家に嫁ぐも離縁、中学校教師と再婚をするも、兄の看病をするために実家に戻り、離縁された。その後は母と上京し、子規の弟子らとともに看病をする。病床から我侭なことをいい、時に看病などの手際の悪い自分のことを叱咤する兄や、その兄を嫌う自分自身を嫌悪している(真之に語った「うちはいかん妹なんじゃ。」の台詞など)部分があった。子規自身も楽になりたかったが、自分自身も看病する生活から解き放たれ楽になりたいという心情を抱いていた。それでも毎日食欲を劣らせることなく懸命に生きようとする兄の姿を見、そして兄の死を目の当たりにし、涙に咽んだ。その後は、兄の死を悲しみながらも自らの重みが取れたことを実感し、子規から生前助言を受けた、女子であろうと学問を身に着けるということを成すために女学校に入った。第三部においても登場し、日露戦争の戦死者の遺骨を抱えた葬列を見て、自分の思う気持ちを句にした。また夏目漱石が「目には見えない大和魂」を揶揄した(夏目本人にその気は無く、小説家も軍人に守られねばならないことへの、自らの無力感をあらわした)ことを、真之を馬鹿にしているようだと非難した。

原作、ドラマ双方とも描写はないが、律は子規の死後20歳離れた従弟を養子にして正岡家を存続させた。司馬遼太郎はこの養子=正岡忠三郎を主人公とした小説『ひとびとの跫音』を書いている。

日本海軍・日本陸軍

東郷平八郎(とうごう へいはちろう 1848-1934) 演:渡哲也

日清戦争前後は、巡洋艦「浪速」の艦長として登場。国際法についての見識が深い。1894年7月25日に朝鮮西岸の豊島沖でマストに英国旗を掲げたイギリス商船(高陞号)を見つけ、清国兵を満載していることを確認した。この商船に対し随行命令を出すも、高陞号は従わず、「浪速」の乗船員が説得するも拒否され、最終的に英国人の乗船員にのみ「浪速」の乗船を許可するが清国兵は直後に英国人船長を人質に取り、英国人船長が出航地への帰還許可を求めた。しかし東郷はこれを拒否し、清国兵に対して船の放棄を命ずる。しかし、これも拒否され、浪速は赤旗(戦闘の意)を掲げ、これにより両船は戦闘準備を開始。浪速が先手を打って砲撃し、高陞号を撃沈させた(非戦闘員である英国人乗組員と50名ばかりの清国兵を助けるも、1100名の清国兵は溺死した)。この行動に対しては、最終的に国際法上合法(宣戦布告による戦闘行為)であることが認められた。後に真之に対して、亡くなった部下のためにも指揮官のあり方を深く考えるように説いた。

第二部においては舞鶴鎮守府司令長官という中央から外れた地方職についていたが、海軍大臣・山本権兵衛により呼び戻され、連合艦隊司令長官となるに至る。そして開戦直後、佐世保より連合艦隊を率いて満州へ出征する。

第三部においては、陸軍将校と会談する。その後、大将に昇格。1904年7月、日本陸軍の動きに察知したロシア艦隊が旅順港から湾外に出ようとすると、これを追撃し攻撃をする。結果としてはロシア艦隊は大したダメージのないまま旅順港に戻り、再び旅順から支援を受けて戦艦の損傷も復活する形となり失敗する。真之が第二回旅順総攻撃を失敗したことで、陸軍との会談を望んでいるときに、「一番苦しんでいるのは乃木さん」と諭した。奉天会戦終結後に、対馬海峡周辺にバルチック艦隊が現れないことに業を煮やした真之から、艦隊の移動を提言されるも、東郷と参謀長の島村は対馬に来ると思い、万が一津軽海峡を通過した場合はできる限り急行するということで対馬海峡周囲に連合艦隊の配置を継続させた。そしてその翌日、東シナ海を北上したバルチック艦隊は対馬沖に出現して、海戦の戦場に赴く。その後、各戦艦に向けて「皇国の興廃 この一戦にあり。 各員一層奮励努力せよ」という意味をあい持たせたZ旗を揚げさせる。そして部下が止めるのも聞かず、真之らとともに甲板の上で戦闘の様子を確認することとなった。

広瀬武夫(ひろせ たけお 1868-1904) 演:藤本隆宏

真之にとって海軍兵学校の一個上の先輩にあたる。海軍大尉、のち海軍少佐。ロシアについての脅威を感じた後は、独学でロシア語やロシア文化を学び、後に海軍本部の命令でロシアに6年間、留学することとなった。その後、イギリスに行く。

第二部第六話は彼の恋愛・「第二の故郷」とまで言ったロシアとの対決も辞さない覚悟などが鮮明と現れている。ロシア駐留の外国人武官の中では一番の人気ものであった。日露開戦後は福井丸の水雷長となる。船にはロシア語で堂々と、自分が広瀬武夫であること、正々堂々戦うことなどを書いた。生還の見込みが少ないといわれていた、夜間の旅順港閉塞作戦に参加する。第一回目の閉塞作戦では掠り傷を負うなど失敗し、第二回目の閉塞作戦では激しい砲撃に遭いながらも自沈させようとした。退艦の際に部下の杉野孫七上等兵曹が見つからず、砲撃を受ける船内を自ら駆け回り探したものの、杉野は見つからず、やむなく救難ボートに避難し自沈させた。そして救難ボートでの帰還中、砲撃を受けて戦死した。最期まで後輩の真之らを優しく指導し、あるいは信頼し、そして第二の故郷とまで呼んだロシアと正々堂々と戦った生涯であった。死後、その遺体はロシア軍が発見し、ロシア正教により、ボリスはじめロシア軍将校により丁重に葬られた。

乃木希典(のぎ まれすけ 1849-1912) 演:柄本明

日露戦争における日本陸軍・第三軍の司令官。原作の小説においては、後半は彼の登場シーンおよび彼の経歴と戦略の説明が、真之たちを上回るため、(原作の)第四の主人公といって良い。ドラマ版でも第十回と第十一回は彼が実質の主役である。もともとは維新の志士(通称は源三)でもあり、第二次長州征伐にも従軍した。陸軍少佐になる。28歳のときに、連隊長心得(=連隊長代理)となり西南戦争に出征。(以上、原作の「坂の上の雲」「殉死」などより。ドラマ版は説明のみ。)

ドラマ版には第一部(第四話)で初出演。日清戦争時(この時の階級は少将。終戦間近に中将に昇格)には、第二軍司令官・大山巌大将指揮下の第一旅団長として出征した。彼自身は性急過ぎる性格であり、砲台攻撃を上司である師団長の許可なしに攻撃して陥落させている。作戦会議において、大山が配置について自案を述べている最中に、突如起立し、大山に「我が第一旅団を、右翼攻撃にお命じ頂きたい。」というと、「気概は良し。」と褒められるも「まあ、おいの作戦をちっとは聞いてくれても良かじゃろう」と諌められる。その後、「半年はかかる」と言われていた旅順要塞を攻撃し、一日で占領した。この時は戦死者に哀悼の意を示し、自ら作った漢詩を捧げた。

日清戦争終結後の第二部においては、軍務からも政務からも離れ、那須野(現・栃木県那須塩原市)に隠棲し農業をしていた。その後、日露関係が悪化し、内務大臣・児玉源太郎が那須野まで駆けつけて日露情勢を説明し、軍務に戻るように説得。その後、参謀次長の田村怡与造が急死すると、児玉が内務大臣を辞して格下の参謀次長になるに至った。そして乃木も陸軍復帰を決意する。

奉天会戦後は、宮中へ参内する際に児玉に「日本はこれからどうなる?」と聞かれ「どうにもならんよ。」と落ち着いた表情で答えるところで出番を終えた。

<第三部(旅順攻囲戦)以降における第三軍の様子>

陸軍大将として日露戦争に出征。第一軍・第二軍の兵力を分けて創設された旅順占領のための「第三軍」の司令官に任じられる。そして1904年8月19日、旅順要塞に対して第一回目の総攻撃をかけた。しかし要塞はベトンで固められた上、幾重にもわたる有刺鉄線だらけの鉄条網・電線・地雷原が張り巡らされていた。また要塞で守られたロシア兵の途切れることのない機関銃と鉄砲の掃射や、爆弾・手榴弾投下などの威力も陸軍首脳部の予想をはるかに上回るほどすさまじく、一時間で一個連隊が壊滅的になったことを聞き、乃木と参謀たちは唖然となった。

結果としては、6日間で1万6000人の死傷者を出したが、要塞自体はほとんど手付かずあった。このことで海軍の連絡将校である岩村団次郎は、海軍将校や海軍の作戦、自分をさんざん嘲笑しながら、海軍の要求を実現できなかった乃木ら陸軍将校に対して激怒した。

その後、塹壕と坑道を掘り進め、多くの爆薬を導入する正攻法で旅順要塞に接近させ、10月26日に第二回総攻撃を行うも、要塞攻略ならず4900人の死傷者を出した。その惨状を聞き、遼陽から旅順に駆けつけた児玉は激怒し、成功を催促される。その後、伊地知がこのような結果になったのは自分たち参謀のせい、と土下座し謝罪するも、「皆は良くやっている。自分のせいだ」だと自責の念を抱いていた。

その後11月26日、第三回総攻撃を実施。この第三回総攻撃では、全部隊の志願兵からなる一大決死隊である白襷隊を編成し、夜間に突撃させるも指揮官である中村覚大将も敵兵の発砲で重傷を負い、死傷者多数の全滅状態となり、作戦は挫折する。その後、乃木は正面攻撃は無理と判断し、死んでいった将兵の死を無駄にするわけにはいかないと判断。旅順艦隊だけでも撃滅するため攻撃の照準を二〇三高地に当てる。そして第七師団(旭川市 師団長:大迫尚敏中将)を主戦力として投入する。11月30日、二〇三高地の西南堡塁と東北堡塁を占領する。同日、敵の砲弾の攻撃にあい息子の乃木保典少尉が戦死。しかし東北堡塁は占領時に約40名しかおらず、その後も増援は届かず、翌12月1日に、ロシア兵の攻撃にあい両堡塁とも再占領させられる。

乃木および第三軍を助けようと、大山巌総司令官から委任状を受け取り、旅順へ向かっていた総参謀長の児玉源太郎はこの報告でぬか喜びさせられ、到着後に伊地知幸介少将ら第三軍参謀に対して重要な堡塁を占領したにもかかわらず、わずか40名の兵士のまま援軍を送らなかったことに激怒した。そして乃木と児玉は話し合い、児玉は乃木の戦死した息子二人に哀悼の意を示し、総参謀長としての自らの誤算と不配慮を詫びた。乃木は、一時的に指揮権は総参謀長である児玉にゆだねた。乃木はこの時、1万5千の将兵を死なせたことを悔い、自ら突撃して戦死するほどの覚悟を抱いており、児玉の到着は後を託す者を考えていた彼を安心させるものであった。

この12月1日以降、児玉は乃木を輔弼する参謀総長として重砲隊の移動および陣地の配置転換を行った。重砲隊の移動と15分毎の砲弾の発砲は、攻撃中の味方に当たる危険性があったが、そのようなことをしない限り二〇三高地の占領は不可能同然であった。12月5日、第一師団と第七師団の残存部隊による激しい死闘により、二〇三高地の西南堡塁・東北堡塁の両頂上を征服する。そして西南堡塁から旅順艦隊に砲撃を加え、旅順艦隊を壊滅させた。これにより10ヶ月にも渡るロシア海軍の旅順港封鎖作戦は終結した。第三軍は旅順攻略という目的を達することができた。

この後、児玉の配慮(乃木の司令官としての面子を保たせる。なお従軍記者にも、自分が第三軍を尋ねたことは陣中見舞いであったと記録させた)により児玉は二〇三高地に登らず、乃木のみが二〇三高地の頂上に昇り、戦死した将兵たちを思い、「爾霊山」の漢詩を捧げた。

二〇三高地での戦いの終結後、乃木以下第三軍の残存兵力は援軍として奉天に向かう。ここで二〇三高地での多大な損害を知っていた参謀らから「疫病神」と蔑まれた。奉天での戦いの際に、ロシア軍の猛攻で兵力が不足し、全滅がほぼ必至な状態になり、第三軍の参謀が電話回線で援軍を求めるが、「総司令部は第三軍に多くを期待しない」などと蔑まれる。なお児玉はこの後、秋山支隊を第三軍の支援に向かわせた。

日本政府・外交官

伊藤博文(いとう ひろぶみ 1841-1909) 演:加藤剛

第一部では内閣総理大臣として登場。日清戦争においては、清国との敗北を考慮した結果、日本の損害を考えると避けるべきであると主張。陸奥外相らからは「臆病なまでの平和主義者」といわれている。しかしながら最後には山県や陸奥の説得に折れ、ロシアに対しては「清国の支配から朝鮮を独立させるためだ」と説明させ、清国に対しては「朝鮮を両国間で真の独立国とすること」を提案することで、たとえ日本が敗北しようとも、日本側に大義があることを示し、日本の損害を最小限に抑えることに尽力する。ロシアとの情勢悪化においては、ロシア側と交渉しようとロシアに渡り、肯定と直接であったり失脚同然であった財務大臣ウィッテ(後にニコライ帝から解任)と交渉したものの、最終的に日本の意見がまったく通らぬ案をつき返され怒り浸透の中、対露交渉を断念した。

小村寿太郎(こむら じゅたろう 1855-1911) 演:竹中直人

外交官。第四話(第一部)においては、北京代理行使として登場。親の借金を背負ったためえらく貧乏であり、小柄な体躯と、めまぐるしく動くことから「ねずみ公使(Rat minister)」の渾名で呼ばれている。李鴻章に初めて会い、高陞号撃沈事件について咎められると、日本は自国の兵を自国船で送るが、イギリスのような大国の船を使い自国兵を送るのは卑怯、と言い寄った。後に、駐米行使としてアメリカに派遣される。後に帰国し、外務大臣となった。そして日英同盟の締結へと持ち運ぶことに成功し男爵の位を授かる。

日本海海戦後、全権として講和条約に望んだ。

ロシア人

アリアズナ・コヴァレフスカヤ 演:マリーナ・アレクサンドロワ

ロシア海軍コバリスキー大佐の娘。社交界でであった広瀬と、恋仲になる。第六回においては、帰国しなければならなくなった広瀬との相思相愛が描かれた。広瀬との別れ際に「A(愛のAmorの意味だが、これを広瀬はアリアズナのAだと言っていた)」と十字架で書かれたペンダントと、自分の写真が入ったペンダントを渡す。広瀬とボリスが戦場で敵対しあうことを嘆いた。広瀬の死を知った後は教会で祈り、落涙した。

ボリス・ビルキツキー 演:アルチョム・グルゴーニエフ

アリアズナの従兄弟(ドラマ設定)にあたる、ロシア海軍少尉。アリアズナに恋愛感情を抱き、その弊害となる東洋の異国民・広瀬に嫉妬し、初登場の第五話において社交場で広瀬に柔術をしてみろと持ちかけ、柔術をすると見せかけて、先攻で殴る構えをしたものの、180cmもの長身を持つ広瀬に投げ飛ばされ恥をかかされるというシュールな光景が描かれた。第二部においても、広瀬とアリアズナがふたりきりで湖畔にいることに嫉妬し、猟銃を発砲し邪魔をした。しかし、その後は己の恋を断念し、二人の仲を認め、アリアズナを守ってほしいという旨を広瀬に伝えた。その後、帰国する広瀬と、お互いの国はいつか戦火を交えることとなるが、お互いに自分の祖国のため正々堂々と戦うと誓い、「タケオと会えてよかった」と抱擁するシーンがあった。日露開戦後、戦地である満州へと向かう。広瀬とは直接、戦うことはなく、広瀬の葬儀の際には「さようなら、タケオ」と目に涙を浮かべていた。


Last update: 2017-11-14 06:22:55 UTC